エルフの渡辺3
第三章 渡辺風花は断られる ①
東武練馬駅の北口から歩いて三分の場所にある総合ショッピングモールは、地域住民のみならず南板橋高校の生徒達にとっての巨大な憩いの場だ。
フードコートはもちろんのこと通常のリーズナブルな飲食店も多く、東武東上線沿線に住んでいる南板橋高校の生徒は、何か必要なものがあればまずここに来ると言っても過言ではない。
そんな場所だから、迂闊に出かけると知り合いに出くわす可能性もそこそこにあるのだが、今の行人にそんな複雑な思考は不可能だった。
映画館とショッピングモールがすぐそばにある東武練馬駅だが、何故か各駅停車以外の等級の列車が止まらない。
そのためタイミングもありはするが、上板橋からの一駅だけなら、日中の各駅停車は空いているときは本当に空いている。
エアコンが強く効いているにも拘わらず、行人の汗は全く引かなかった。
上板橋駅と東武練馬駅は、所要時間わずか一分強。
どんなに空いていたところでいちいち座ったり立ったりするのが面倒な時間なのに、風花はわざわざ行人の手を引いて、ロングシートに腰かけたのだ。
その上ガラガラに空いているのに肩と肩を、意図しなければそうならないくらい密着させて座った。
鍔広の麦わら帽子と二人の体格差のせいで、行人からは風花がどんな顔をしているのか絶妙に見ることができないので、風花の心理をまるで察することができない。
前々から、距離感がおかしい瞬間はままあったが、そういったときは概ね、そうなるような感情の動きや勢いのようなものが前段階としてあったのだ。
だが今回に限っては、明らかに風花は今この瞬間、自ら意図してくっついてきている。
手を引くという行為にしたところで、これまでの風花はよほど必要に駆られない限りまずやらなかった事態だ。
そして立ち上がるときですら、行人の手を引いて立ち上がらせ、しかも駅を降りて改札口に辿り着くまで、何の理由もなくそのままだった。
しっかり手を繫いだままだったわけではない。
行人の人差し指と中指と薬指を、何となく挟むようにして軽く握ったまま、改札口まで歩いたのだ。
手を繫いだまま並んで歩く。
これはもう、間違いなくこれまでに一度も二人の間では経験したことのない出来事だった。
行人は、明らかに不自然に声を出していなかったと思う。
風花が普段通りなら、きっとこの後何をするとか、どんな映画を見るのかとか、ランチにどんな店に入るのかとか、話せることがいくらでもあったはずだ。
だが、何か気の利いたことを言おうとすればするほど、まるで風花の行いをなし崩しにスルーしてしまっているような気がして言葉につまり、だからと言って風花の真意を正面切って問いただすほどの勇気も気概も、心拍数が急上昇している行人にはありはしないのだった。
改札を抜けた瞬間以降は自然にお互い手を離したが、それでもモールのシアターフロアに着くまでほとんど言葉を交わすことができなかった。
「えっと……何、見ようか」
上板橋駅で待ち合わせて以来初めて、風花の口から具体的かつ建設的な問いが投げかけられた。
「と、特に決めてはいなかったの?」
行人も、風花側から緊張を緩和してきたので、それに全力で乗りにいく。
「決めていないというか、今回珍しく、同時にいくつか気になる映画があって迷ってたから、大木くんと来て、趣味が合うのを見られたらいいかなって」
「んんっ! そ、そういうことか」
つまりは行人の趣味に合わせたものを見たいと言っているに等しく、行人はまた心拍数が上がってしまう。
「えっと、気になってるのはどれなの?」
「この三つなんだけど」
「お、おお……」
幸いなことに今の行人の立場からは選びづらい青春恋愛映画や、普段の風花からは想像もつかないようなZ級パニックアクションが来ることはなかった。
提示されている選択肢は、公開されて少し時間が経ち、それぞれに高い評価を得ているものばかり。
大人から子どもまで誰もが知り親しんでいる名作長寿漫画原作の最新アニメ映画。
誰もが一度はその作品世界に触れたことのある、ハリウッドのSF超大作のリメイク。
公開当初は大きな注目を集めていなかったものの、現実の世界情勢が作品のテーマとリンクし、一気に注目を集め大きな評価を得たリアリティドキュメンタリー。
行人もネットやテレビでたびたびタイトルを目にしたものばかりだった。
「俺が選んでいいならこれ、かな」
行人が選んだのは、ハリウッドのリメイクだった。
「元のやつも見たことあるんだけど、やっぱ昔のだから登場するガジェット類が今見ると結構古かったり、現実の進歩がそうはなってない、みたいなものが多くて、それが今だとどんな風に描写されてるのか気になってたんだ」
素直にそう告げると、夕夏は麦わら帽子の下で柔らかく微笑んだ。
「大木くんなら、そう言うと思ってた」
その笑顔と言葉が更に行人の心拍数を高め、返事ができなくなってしまう。
風花の笑顔は、エルフの姿になってからも数えきれないほど見てきたはずだ。
だが、今のようなどこか蠱惑的な、悪戯っぽい笑みは、見たことがない。
「字幕と吹き替え、どっちにする? 私は特にこだわりないんだけど」
「吹き替えでいい? 古いの見たのが結構前のテレビで、そのとき吹き替えだったから、同じ吹き替えの方がより違いが分かるかなって思って」
言ってしまってから、字幕の方が大人っぽかっただろうかと、いらない見栄が鎌首をもたげる。
「じゃあ吹き替えにしよっか。確か主演のこの声優さん、今やってる大河ドラマに出演してる人だよね。普段あんまり声優さんがどうとか意識したことないから、どんな風になってるのか、ちょっと楽しみ」
まるで行人の不安を先読みしていたかのように、風花が自然とそう言うので、行人の中の見栄っ張りな男子は大きく息をついた。
ついたのだが、すぐにまた、見栄っ張り男子緊張しい行人が、大変な情報を発見する。
「あ、でも吹き替えの次の回、割とすぐだな……」
次の回が今から二十分後に上映開始。そこからCMが大量に流れるので実質三十分後だとしても、二時間弱映画見ると、お昼を食べるのが十四時を過ぎてしまう。
行人は我慢できない時間ではないが、風花の場合は姿隠しの魔法で魔力を消費するせいで、常人よりもご飯の時間や量をシビアに考える必要がある。
「お昼、二時過ぎになっちゃうと渡辺さんの体調しんどくない? 字幕にしてお腹減っちゃうより先にご飯食べ……」
「ポップコーン!」
シビアに考え計画の変更を提案したところ、更なるポップな提案によって遮られた。
「え?」
「朝ごはんいっぱい食べてきたし、ポップコーン大きいの買えば大丈夫。折角大木くんが見たいんだから、吹き替えにしよう。字幕にしても、今度はご飯食べ終わっても結構待つことになっちゃいそうな時間じゃない?」
「そ、そうかもしれないけど、本当に大丈夫?」
「無理してないよ、本当に大丈夫。でも折角だから、思い切ってあの四色グランドポップコーンっていうの買ってみたいな」
風花が指さしているのは、売店のメニュー表で最も広いスペースを占めている巨大ポップコーンだった。
バター、キャラメル、チョコ、シーソルトの四つの味が楽しめる、総重量四百グラムの超巨大カップが売りのようだ。
「あれ買って、二人で食べながら見ようよ」
「なるほど。それなら……」
それなら何も問題はないと思った十五分後には、一体何が問題なかったのかと十五分前の自分を問い詰めたい気持ちいっぱいの行人がいた。
二人並んだ席の間に専用トレーを設置して、二人でそのポップコーンを摘む。



