エルフの渡辺3
第三章 渡辺風花は断られる ⑥
行人の手を握り返す風花の力が、わずかに強まった。
「もしも……よかったら、の話なんだけどね。その……もし、タダで福井に行ける方法がある、って言ったら、使いたい?」
「え!? ……あ」
唐突すぎる話に、さすがに行人は大声を出すが、たった今自分がくぐってきた『世界を繫ぐ扉』が、どこに繫がっていたかを思い出し、風花が何を言わんとしているのか何となく察することができた。
東京都練馬区の渡辺家に繫がる出入り口があるのだ。
それならば、福井県福井市に繫がる出入り口がこの浮遊監獄島のどこかにあっても、何ら不思議ではない。
「できるの? そんなこと」
「福井に住んでる人に頼めば。都合よく福井市に住んでるかどうかは分からないけど、日本だったら県庁所在地には絶対エルフが住んでるはずだし」
「県庁所在地には絶対エルフが住んでるんだ」
同じ学校に既にエルフが二人いるので『異世界からの来訪者』という言葉のイメージほどの希少性はないのだろうと思っていたが、各県庁所在地に絶対住んでる、となると、もしかしたら日本にいるエルフの数は、ヨーロッパやアフリカの小国から来ている同じ地球人よりも多い可能性が出てきた。
「でも、例えばだけど渡辺さんが、例えばどこかあんまり人に使われていない扉に移動魔法を使ってつなげるとか、そういうことはできないの?」
「できなくはないけど、新しい扉を設置するには申請と許可が必要なの。地球に向けた新しい扉を追加する許可が下りるのに平均で三ヶ月以上かかるから、今回は現実的じゃないかな」
「そ、それは結構気の長い話だね……」
「別にそんなに寿命が長いわけじゃないんだけどね。あとは、許可をするのは長谷川さんみたいな人間の管理側だし」
「なるほど」
一見して自由に生活しているように見えるこの世界のエルフ=サン・アルフも、民族全体が罪人扱いされているからこその『浮遊監獄』なのだ。
そう簡単に移動の自由を認めてしまうと、管理側として色々都合が悪いのはなんとなくだが理解できた。
「その場合、渡辺さんの部屋の押し入れが直接福井に繫がる感じなの?」
「ううん。福井に繫がる扉の持ち主がどこに開いてるか分からないから、そこまでは歩くことになるの。私の部屋の扉はこの草原に固定だから、多分里まで歩くことになっちゃうかな。だからお金はかからないけど、片道徒歩三十分くらいのイメージでいてもらえれば」
「そっか。それでも凄いね。そうすると極端な話、渡辺さんの家から日本中、下手すれば世界中に行けたりするわけなんだ」
「う、うん、そう。結構、お得な話だと思うんだけど、どうかな?」
お得な話、という割に、風花の表情はあまり明るくはない。
そもそも繫いでいる手に緊張が走っているのも妙な話だ。
それでもどんなに節約したところで片道に数千から万はかかる福井行きが徒歩三十分で叶うという魅力的な話を、
「確かにお得だけど、俺はそれはいいや」
行人は散歩中に差し出されたガムを遠慮するくらいの軽さで断った。
「………………えっ」
途端に風花の手の緊張がわずかに緩み、呆気にとられた顔で行人を見上げた。
「え、な、何で?」
「何でって言われても」
行人は、風花が何故そんな反応をするのか分からない、という顔で風花を見返した。
「渡辺さんに過剰な面倒や負担かけてまで行こうとは思わないってだけだよ」
行人は当然のように言った。
「過剰な面倒や負担って……?」
「だって今の話だと、まず福井の扉持ってるエルフがいたとして、渡辺さんはその人と知り合いじゃないんでしょ?」
「あ、う、うん、それはそうだけど」
「知らない人の仕事の成果を使わせてもらうには相応の対価が必要でしょ。申請が大変だって話だったし、そもそも魔法の力はタダで使えるものじゃないことは俺も分かってるし」
風花は姿隠しの魔法のために常に魔力を消費している。
当然それ以外の魔法を自発的に使おうと思ったら相応の魔力が必要で、それはつまり行人が誰かに写真撮影を頼まれたとき、時間と知識と技術と体力と、いくらかの電力と消耗品を使うことと何も変わらない。
「でも、でも! その理屈ならあの湊川さんって人が大木くんの代わりに福井に行くのはおかしいってことにならない? だって大木くんの仕事を対価も無しに……」
「今となっては、もうならないよ。この間の打ち合わせで、湊川さんは俺にプロならではの技術や知識、考え方を打ち合わせの中で沢山教えてくれた。もしかしたらプロにとっては当たり前すぎることだったとしても、プロじゃない俺には金払ってでも習いたい貴重な情報だらけだった。俺はあれが、湊川さんが俺の仕事を引き継ぐ『対価』として差し出したものだと思ってる」
行人はそう言うと、肩を竦めた。
「もちろん悔しさがなくなったわけでも、福井行きを諦めたわけでもないよ。でも、それはそれで俺の中でもう手打ちが済んでるって話ね」
行人はそう言うと風花の手を離し、自宅に寄った際に取ってきた荷物をその場に下ろす。
「まぁそんな細かいこと抜きにしても、今の話が渡辺さんにとって大変じゃないわけないんだよ。だってもしそんなことが簡単にできるなら、あのとき渡辺さんも長谷川さんも、言わないはずないんだから」
あのとき、とは、結衣が行人に、写真部が男バレの全国大会に帯同できないことを告げに来たときのことだ。
「あのとき渡辺さん、俺や小滝さんよりもブチキレてたじゃん。でも逆に言えば、部活と学校の縛りがある天海先輩や長谷川さんと違って、俺達は自由に活動できるようになったわけだから、もしナチェ・リヴィラ経由の福井行きが簡単なことなのであれば、そういう方法がある! って渡辺さんなら言ってたと思うんだ」
「……」
風花は、言葉を継ぐことができなかった。
「でも、渡辺さんはそうしなかったし、俺達のことを理解してくれてる長谷川さんからもそんな話は出てこなかった。今渡辺さんが言ったようにできることはできるんだろうけど、ナチェ・リヴィラの直接の関係者ではない俺がこっちのシステムにタダ乗りするようなことは、これまでの経験上からもやったらいけないことなんだと思う。普通に考えて、長谷川さんや渡辺さん、あと、渡辺さんのお母さんに直接的にも間接的にも迷惑がかかりそう」
そうなるかどうかは、やってみないと分からない。
だがそのシンプルなイメージを否定する材料も言葉も、風花は持っていなかった。
「何ていうのかな、JRに勤めてる友達に、新幹線の切符をお前の権限で割引で買わせろって言うくらいには厚かましいし図々しいことな気がする。俺はまだ、ナチェ・リヴィラとも渡辺さんとも、そこまでの関係じゃない」
そこまでの関係じゃない、という言葉が、前後の文脈を無視して風花の胸に氷のトゲのように刺さった。
その痛みを感じる表情を浮かべた風花を、行人はしゃがんだまま見上げた。
「それに……もし、そこまでの関係になったとしても、頼んだりしない。そんなことのためにそんな関係になりたいわけじゃないし、渡辺さんにそんな顔させてまで、そんなことしたって、絶対心から楽しめないし」
「っ」
風花が喉の奥で小さな音を立て、微かに瞳を潤ませる。
五秒前に刺さった氷のトゲは一瞬で溶け消え、風花の胸に暖かく広がっていく。
「でも、ありがとうね。俺のために、そんなに色々考えてくれて。……えっと、どこにしまったっけな」
話している間、ずっとバッグをまさぐっていた行人が、
「あった。忘れてきたかと思った」
ようやく取り出したのは三脚と、あのフィルムカメラと、いくつかの不思議な形状の道具達。
「それは何?」



