エルフの渡辺3

第四章 渡辺風花は幸せを信じている ⑪

 それを言って詫びるべき相手は行人ではなく、試合をしていた全国大会出場選手全員に対してではないのだろうか。


「少し、話しませんか。私は大木部長や渡辺さんの味方です。そして小滝さんと同じように、あなたにとって、ナチェ・リヴィラのことを知る仲間でありたいと思ってます」


 翳りも裏もなさそうな夕夏のその言葉を、却って行人は不気味に感じた。

 だが、風花も泉美も遠く離れた場所にいるわけでもないし、警戒しすぎて夕夏から何も聞けなくなっては本末転倒だ。


「……それじゃあ、折角来てもらったんです。ご指導お願いします。湊川先生」

「あら」

「外部指導員でも先生は先生ですから」

「分かりました。それじゃあ先達として、この場で伝えられることは余さずお伝えしますよ。とりあえず」


 夕夏はそこまで言うと、やおら肩に下げたバッグからハンディファンを取り出して風を自分の顔に当て始め、そして泉美が行った方向とは違う方を指さす。


「何か、売店で飲みませんか。タクシー降りたところから結構早足で歩いてきたんでもう、汗かいちゃって、体カラッカラで倒れそうなんです」



「っぁ〜〜っ。効く!」


 夕夏は売店で販売されていた、園内栽培パッションシトラスソーダ輪切りレモントッピング780円を体に流し込み、大きく息を吐いた。

 夕夏と行人は、パラソルとミストで涼をとる、ウッドテーブルの席で向かい合っていた。

 高いドリンクを一気に半分飲んだ夕夏は、シンプルなアイスコーヒーを一口も飲んでいない行人に微笑みかけた。


「飲まないんですか。干上がっちゃいますよ」

「そんなにゆったりした気分でもないんで。コーヒーは利尿作用ありますから水分補給という観点からはいまいちですし」

「体を冷やせばいいんですよ。どうせエアコンが効いてる建物はあるんだから。私を警戒するのはまぁ、分かりますけど、面倒な理屈は抜きで行きましょう」


 そう言うと、夕夏は残りの半分をさらにまた一気に行って、名残惜し気にカップの中の氷を眺めた。


「これがビールだったらもっと最高なんですけどね。せめて屋内が良かったなぁ」

「知りませんよ」

「お酒を飲む年齢になれば分かりますよ。写真も仕事になると、撮りたくもない写真を撮らされることもありますから、そういうときは特にね……って高校生に言うのは、外部指導員としてはギリギリライン越えてますかね」

「知りません。というか今の言い方だと、全国大会を撮りたくなかったっていう風に聞こえますけど」

「ああ、すいません。そんなことは。むしろスポーツ写真は好きなんです。今はスタジオ勤めですけど、元々は報道を目指してて、スポーツ紙とかやってみたかったんですよ」

「はあ、そうですか。聞いていませんでしたけど、学校写真がメインのスタジオだったんですか?」

「色々ですよ。普通の写真館みたいに子どもの行事とかウエディングフォトとかやりますし、色んな学校の依頼を受けたりもします。ただまぁ、今回のような『当たり』の仕事は、そんなに多くないですね。ファミリー系の写真は本当大変で……」

「ぶっちゃけすぎじゃないですか」


 カメラマンに撮る写真の好き嫌いがあること自体は否定しないが、仮にも仕事にしていることで当たりはずれをあけっぴろげにするのは、プロとして褒められた言動ではないのではなかろうか。


「どうせこれから誰にも話せないこと話すんですし、肚を割って話すっていうのも大事だと思いませんか?」


 プロのカメラマン。一人前の社会人だと思っていた夕夏が『肚を割る』と言った途端に、子どものように素直に、或いは空気を読まずに自分の内心を吐露することに、行人は驚きを隠せなかった。


「だとしても言う必要のないことってあると思うんですけど……」

「このお話をする以上、正直でいたいんです。そうでないとそもそも人に信じてもらえない話でもありますし、それに私は渡辺さんの敵じゃないことを態度でも示したいんです。だから何なら、お二人が戻ってからお話をした方がいいかなと思ってるんですよ」

「……そうですか」


 気になることは無いではないが、確かに今の所、行人の耳にも夕夏の声から一切の敵意を感じ取ることはできなかった。


「では一つお話の助走として、これ、見ていただけますか」


 早くも氷が解け始めたカップを横にずらし、テーブルの上に残った結露の跡を紙ナプキンで拭き取ってから、行人にとってあまりにも見慣れたものを取り出したのだ。


「これ、ご存知ですよね」


 プロのカメラマンであれば、一つの現場に複数のカメラを携帯するのは当たり前のこと。

 だからそのカメラが、全国大会の会場で使っていたものとは違うことは驚くに値しない。

 驚くべきは、風花の真実を写すあのフィルムカメラと夕夏が持っていたカメラが、同一の機種であるということだ。

 夕夏が何らかの形でナチェ・リヴィラに関わっていることまでは想像していたが、さすがに行人もこの事態は想像していなかった。


「息、止まってますよ」


 思わず止まってしまった呼吸を指摘されて、行人はそれを誤魔化すように結露だらけのアイスコーヒーのカップを口に近づけた。


「なんで、これを……」

「やっぱり持ってるんですね。予め断っておきますけど、大木部長のご自宅から盗んだとか、そんなことではないですから誤解しないでくださいね」


 言われなくとも分かっている。

 どんな道具でもそうだろうが、長く使われたカメラには所有者特有のクセが刻まれる。

 カメラは精密機器ではあるが、撮影の仕方や道具の運び方次第で、ボディを汚したり、傷つけたり、そこまで行かなくとも金属部分にどうしても定着してしまうくすみや錆びといったものがやがてはそのカメラの顔となってゆくのだ。

 そういう意味で、今目の前にあるフィルムカメラは大に、刻まれた文字の塗装が行人のものにくらべるとやや剝げてしまっていた。

 また、フラッシュのような外部機器を取り付けるためのマウントがあり、これは行人のカメラにはない機構だった。


「大木部長。利き目、どっちですか?」

「……右です」


 手や足と同じように、人間の目には『利き側』がある。

 両目を開いたまま鼻先10センチメートルほどの距離に人差し指を真っ直ぐ立てると、極端に寄り目にしない限り、指の像は目に二つ映る。

 その状態で左右の目を片方ずつ閉じたとき、両目で見ていたときの『鼻先の位置』とズレが少なかった側の像を見ていた側が『利き目』となる。


「なるほど、ちょっと失礼しますね」


 頷いた夕夏は、フィルムカメラのファインダーを覗いて行人の顔にレンズを向ける。


「ふふ、本当だ。それじゃ大木部長。今度はファインダーで、私の顔を見てください」


 そして何かを納得したように頷くと、カメラを行人に差し出した。

 行人はそれを恐る恐る受け取ると、同じ形なのになぜか手に馴染まないそのカメラのファインダーに目を近づけ、夕夏の顔に向けた。


「っ!」


 カメラが熱を持ったように、慌てて行人はカメラから顔を離すが、それでもファインダーの中に見えたそれを、行人は見なかったことにはできない。

 あまりにも見慣れた『光』。

 それが、夕夏の右目に宿っている。


「これ、撮ると……」

「別に何も起きませんよ。光が見える色々なもの、撮ったことあるでしょう? そのとき、あんな騒がしい音はしませんでしたよね。あの音が鳴るのは……あ」


 夕夏が何かに気づき、行人の手からカメラをさっと受け取ると、明後日の方向にレンズを向けた。


「魔法を破ったときだけです」


 そう言ってシャッターを切る。