エルフの渡辺3

第四章 渡辺風花は幸せを信じている ⑫

 その瞬間、示し合わせたようにどこからともなく一斉に鳴き始めたセミの声に紛れて、あのガラスが割れるような音が聞こえてきた。

 思わず行人がそちらを見ると、行人を探して戻ってきたらしい泉美が、その背に風花を庇って立っていた。


「小滝さんっ!」


 それがまるで、風花を銃撃から身を挺して守ったかのような有様だったため、行人は思わず悲鳴のような声を上げてしまった。


「……大声出さないでよ。撃たれたわけじゃないんだから」


 泉美の切り返しにも、キレがない。

 少なくとも本人の緊張感もまた、行人が抱いた印象と同じものだったのだから。


「でも、どういうつもり。こんな街中で人の正体を暴こうとするなんて」


 泉美の声色は鋭く敵意に満ちていた。

 行人ではなく夕夏があのカメラを持っている、と言う状況を、泉美は冷静に分析している。


「大丈夫ですよ。このカメラができることは真実の姿を写すだけ。姿隠しの魔法そのものを止めることはできませんし、多分ですけど、今のには顔も体もほとんど写っていませんから」


 泉美の背後から恐る恐る姿を見せた風花の顔も、らしくもなく睨むように顰められていた。


「ただまぁ確かに外部指導員としては軽率でしたしデリカシーに欠けてましたね」


 夕夏は風花の顔を見て苦笑すると、突然カメラの背面カバーを開いてしまった。


「えっ?」「あっ!」


 行人と泉美は目を見開く。

 当たり前だが、フィルムカメラを完全に巻き取らずにそんなことをすれば、中のフィルムは感光して真っ黒になってしまう。

 驚く二人をよそに、夕夏は入っているフィルムを取り出すと、巻き取られている中身まで全て引き抜いてしまった。


「これ、申し訳ないですけどそちらで処分していただけますか。私が持ってたら、信用できないでしょう?」


 夕夏は駄目にしたフィルムを行人の方に差し出す。


「それにしても、私を警戒している割には、あっさりバラバラに行動しましたね。私が何か良くないことをするとは考えなかったんですか?」

「そこは、あまり気にしないってみんなで話し合いました」


 答えたのは風花だった。


「湊川さんがナチェ・リヴィラの人じゃないって分かってましたから」

「それだけですか? これでも大人ですから、刃物とかで大木部長に何か良くないことをするとかできますよ?」

「大木くんに危害を加えようとするナチェ・リヴィラを知る地球人なら、もっと前にいくらでもやれる機会はありました。それをわざわざこんな人目につく場所で、しかも私がすぐそばにいる状況でするはずない。だから普通に過ごそうって決めたんです」

「皆さんにとっての普通とは?」

「普通は普通です。私達は今日、学校の部活動でここに来てるんです。園芸部と写真部として部活動の遠征をすることが今この瞬間の、私達の普通です」

「違いますよね」

「だから……え?」


 ノータイム、しかも笑顔で挟み込まれた否定の言葉に、風花は一瞬反応が遅れた。


「何が違うんですか」

「『私達の普通』ってところです。部活動の遠征は、普通のことではないですよね」

「は? 遠くにおでかけしてんのがレアとか言いたいわけ?」


 泉美の険のこもった声に、夕夏は慌てて首を横に振った。


「すいません言葉が足りませんでした。大木部長と小滝さんにとっては普通でも、渡辺さんにとっては普通ではないということを言いたかったんです」


 夕夏は訂正を入れるが、泉美はもちろん、風花も行人も困惑を深くした。


「一体何を言いたいんですか」

「話の本質自体は非常にシンプルなんですが、個別具体的なケースでは複雑化していて、そのことが問題を見えづらくしていることについてなんですが、結局のところ渡辺さんがサン・アルフであり、大木部長と小滝さんは日本人である、というところに起因しています」


 サン・アルフ。

 ナチェ・リヴィラのエルフの、正式な呼称であり民族全体の名。

 この言葉が、行人の警戒と不信感を更に深めた。

 例えば何かの偶然で風花やそれ以外のエルフの真の姿を見たことがあるだけなら、今の言葉は出てこない。

 行人や泉美と同じく、ナチェ・リヴィラ出身の者と交流を持っていなければ声に出すことはあり得ない単語なのだ。


「誰か、私の同胞の知り合いでもいるんですか」


 風花も同じ結論に至りそう問うと、夕夏は難しい顔になる。


「ナチェ・リヴィラ出身の方という意味ならそうですけど、渡辺さん、サン・アルフなんですよね。でしたらあなたは今、その方を同胞とは思っていないかな、と」

「あのさあ!」


 ここでしびれを切らしたのか、泉美の語気が激しくなった。


「な、なんですか小滝さん?」

「さっきから何匂わせるようなことばっか言うわけ! いい加減イライラしてくんだけど!」

「お、落ち着いて泉美ちゃん……」

「いや、小滝さんの言う通りだ。湊川さん。何か目的があって俺達に接触してきたなら、さっさと話してください。これ以上一言でも煙に巻くような物言いが続くなら、俺達は部活に戻って、必要以上のことを話さず東京に帰ります」

「えっ。そんな。知りたいこととか気になること、あるんじゃないんですか」

「そっちが話す気が無いなら別にいいです。今言ったでしょ。俺達は普通に過ごしてるんです。そこに何か特別な要素を挟みたいっていうのは湊川さんの都合で、俺達が必要としてることじゃない。確かにそのカメラのこととか、何でバレーの試合会場であんなに魔法を破る音がしたのか、気にならないわけじゃない。でもだからって、俺達にその事態を解決しなきゃならない義務も理由も無いんです。……渡辺さん、小滝さん。どこでどんな写真撮ってきたの」


 行人が夕夏から目を背け、普通の活動に戻ろうとしたのを見て、夕夏の表情から初めて余裕の表情が消えた。


「え、い、いやちょっと待ってください。あのですね、結論から言うと、私は渡辺さんをサン・アルフの宿命から解放しにきたんです」


 夕夏の身を乗り出す勢いで空のカップが微かに揺れ、同時に、


「「「はあ?」」」


 学生三人の、呆れと疑念が入り混じった表情と声が夕夏に向けられる。


「魔王討伐!」


 夕夏は叫んだ。

 風花を。そしてある意味で行人も泉美もその言葉の下に集い福井の地までやってきている。


「魔王討伐というその宿命から、サン・アルフを解放したいんです。私達は!」

「「「……はあ」」」


 夕夏は社会人で大人である。

 高校生にとっても、まだまだ社会人の大人というのは自分達『学生の子ども』とは一線を画す生き物だ。

 そう遠くない未来、自分が社会で働く大人と肩を並べて過ごしている具体的ビジョンを抱ける高校生は、決して多くない。

 職業によって厳然とした差こそあれ、知力体力経験そして財力といった、人生を豊かにするために必要なパラメーターの全てが自分達より上位にある生き物。

 それが高校生にとっての社会人だ。

 幼稚園児や小学生の単純な憧れの中にだけいる、おはなやさんやケーキやさんやバスのうんてんしゅやおまわりさんではない。

 その職業に就く、という望みを叶えるための大きな障害と試練を独力で突破した存在だ。

 だからこそ『通じる言葉を話しているのに何を言っているのか分からない大人』がこれほど不気味だと、三人は初めて経験する。

 一介の日本人カメラマンが異世界の民族を宿業から解き放つと言ってのける根拠が今の所まったく分からない。


「そのためにあったのが、このカメラであり、大木部長が持っているカメラ。そしてそのためにこれからあるのが、これです」


 夕夏はフィルムカメラに並べるように、全天球カメラをテーブルの上に置く。