エルフの渡辺3
第四章 渡辺風花は幸せを信じている ⑯
「地球の人間がこんな綺麗な鏡で自分の姿を見ることができるようになったのなんて、ここ二、三百年の話ですよ。それ以前は鏡は貴族や武家のもので、庶民はせいぜい水面くらいでしか自分を認識できなかった。水面に映る姿って色も違えば、歪んでたりもしますよね。そんな自分の姿しか見えなかった時代の人は、みんな不幸だったんですか」
「だから! そんな話はしてないじゃないですか! さっきから何なんですか!」
「そりゃこっちのセリフ。風花ちゃん、もういいよ行こ。これ多分一生平行線で分かり合えない奴だ」
「小滝さんは黙っててください。私は今渡辺さんとサン・アルフの誇りについて話してるんです」
「いや、小滝さんの言う通りだ。湊川さん。これ以上は時間の無駄です。お話はここまでにさせてください。さっき渡辺さんが言った通り、俺達は湊川さんがやろうとすることには協力できません」
諦めたように席を立ちあがる三人に、夕夏は慌ててテーブルに手をついた。
「どうしてですか! サン・アルフの誇りを取り戻したくはないんですか! 今まで敵だと教えられていた魔王様のことをすぐに信用できないのは分かります! でも、このままじゃいつまで経ってもサン・アルフは虐げられたままですよ!」
「湊川さんは、ナチェ・リヴィラに行ったことありますか」
行人がうんざりしたように言ったのを、夕夏は頷く。
「もちろんです。発展を制限されて、モンスターがうろつく島に押し込められているサン・アルフの里も見たことがあります!」
「あー、そういう解釈なんだ」
すると泉美がどこか納得したように頷いた。
「なるほど。これは単純に、接触したエルフの考え方なのかもしれないな。渡辺さんに比べてドラスティックに物事を見る人なんだろうな」
「はあ? 一体何を……」
「湊川さん。プロのカメラマンなんですから、ケビン・カーターを知ってますよね」
「急に何ですか。ハゲワシと少女の写真家ですよね」
ケビン・カーターは80年代から90年代に活躍した南アフリカ共和国のカメラマンであり、『ハゲワシと少女』とは彼が撮影し写真界最高の名誉とされるピューリッツァー賞を受賞した写真である。
この『ハゲワシと少女』はスーダンで長く続く干ばつが引き起こす深刻な飢餓を象徴する写真として強いインパクトを世界に与えたが、結果としてこの写真が、撮影者であるケビン・カーターが自ら命を絶つ遠因の一つとなったと言われている。
「今、湊川さんがサン・アルフについて言ってることは、あのときケビン・カーターと『ハゲワシと少女』に浴びせられた多くの無責任な言葉と、何ら変わりません。あの一枚の写真が切り取ったほんのわずかな情報を自分の環境と倫理で拡大解釈して、勝手に写真の中の登場人物の物語と正義を決めつけているんですから」
『ハゲワシと少女』の写真は、その文字列が示す通り、飢餓にさらされとても健康な食糧環境にないと分かる少女が地面にうずくまり、それをハゲワシが遠くから見ている、というただそれだけの写真だ。
ただ飢えた少女とハゲワシが写っているだけの写真だったのだ。
だがそれはあまりにも、被写体パワーが強すぎる写真だった。
見る人達の想像力と正義感を限りなく増幅させるほどに。
ハゲワシは死肉食の猛禽類であり、当時のアフリカには現実に干ばつや戦争が絶えなかった上に、世界中の豊かな国でアフリカへの食糧支援運動が盛んにおこなわれていたため、飢えてうずくまる少女に対する同情と正義感が一気に高揚する。
その末にケビン・カーターに投げつけられたのは、『何故少女を助けなかったのか』という意味不明なものだった。
多くの人が、カーターが悲劇的な結末を迎える少女を助けることより写真を優先し、少女はハゲワシに食われた、と存在しない物語を想像し、批難の声を上げたのである。
現実にはカーターはスーダンの食糧配給センターの様子を撮影していた折に偶然そのシーンに行き合って、それまで撮った何枚もの写真と同じようにたまたまその様子を撮ったにすぎず、撮影後はハゲワシを追い払っている。
カーターは白人でありながら90年代前後の南アフリカのアパルトヘイトが引き起こす多くの悲劇に心を痛めており、このときもスーダンの干ばつのあまりに過酷な現実に悲嘆し、その悲劇をできるだけ世の中に知ってもらいたいという純粋な想いしかなかった。
だが、結果として彼が撮った写真を見た人々は、無神経な報道人が命より報道を優先した、と糾弾し、カーターが伝えようとしたこととは全く違うテーマで、写真の中で飢えていた少女のためにならないところに発生した熱を、カーターはただ見ていることしかできなかったのだ。
なお『ハゲワシと少女』は正式なタイトルではなく俗称で、ピューリッツァー賞は『食料配給センターに向かう道すがらふさぎ込んでしまった飢えたスーダンの少女と待ち構えるハゲワシ』と写真を解説するにとどめ、カーター自身もタイトルをつけていない。
「私が、カーターを追い込んだ無責任な声と同じだと……?」
「少なくともわずかな一面を見てそれが全てと思い込み、自分勝手な正義感を当事者に押し付けようとしている点ではそうですね。俺も、正しい運動を起こすためにセンセーショナルなメディアが必要なことは否定しません。でも」
行人は風花の手を強く握ると、毅然として言った。
「それを錦の御旗にして当事者を……俺の大切な人の人生を否定するなら、俺はそれを拒否します」
「へぇ、センパイにしちゃ、ちゃんとかっこいいじゃん」
啞然とする夕夏が言葉を紡げないでいる中、泉美が行人を茶化す。
「分かるよ、歴史的な、総合的な正しさってのを忘れちゃいけないってのはさ。それを大事にしたい人の気持ちだって否定しない。でも、その人達が『間違い』と思ってる社会が『正しく』回ってることを無視すんなら、やっぱそれは駄目だよ。お題目は大事だよ。でもお題目が正しければ、今正しく回ってる社会の中で幸せを得てる人を、不幸にしていいの?」
「ま、間違った社会を回してること自体が間違いでしょう!」
「あっそ。じゃあ間違った社会に参加せずに徹底抗戦するかハンガーストライキでもして死んだほうが、幸せだったってそう言うんだ」
「いやだから間違った社会はっ……!」
「その正しい間違いを判断する権利と力が、何であんたにあるの。あんたの正しさ、何を基準にして正しいの。誰が保証してんの。少なくともあんたの言ってることは私とセンパイの基準だと、風花ちゃんにとっては間違いだらけだよ」
「……こ、子どもには分かりませんよ! もう少し大人になれば……」
「そうやって『何も分からない子ども』の人生の先行きを勝手に決めつけて従わせるのは、サン・アルフを虐げて魔王討伐を強要する人類の生き方と何が違うの。いや、一緒だよ。そう言わないとあんた分からないと思うから言ってあげる。一緒。あんたのマインドはサン・アルフを虐げるナチェ・リヴィラの人類とま────ったく一緒」
「そんな……ことは!」
「小滝さんの言い方はキツいですけど、俺もそう思います。あなたに俺の大切な人の人生を預けさせることなんか、絶対にできない。今の俺達を納得させるどころか、子どもには分からないだなんて言って、精神的に上位に立って人をいいように動かそうとする人間にはね」
「湊川さん」
風花の口調は穏やかだった。
だが、風の刃は彼女の焦げ付いた怒りを象徴するかのように、鋭くその金色の髪を揺らした。



