細く透き通るガラス細工のような魔剣が一振り、銘を「山嶺」という。
クララが最初にその魔剣を見たのは十三歳の時だ。
普段は氏族の中でも祭祀を取り仕切る大長老しか立ち入ることを許されない秘密の洞窟は、北方連邦国の北西の山中深く、クラン家の所領の外れにあった。継承の儀の日。先祖伝来の色鮮やかな装束に身を包む年上の少年少女の後に従って、クララもまた洞窟の最奥、封印の間と呼ばれる広大な空洞に並んだ。
山嶺の先代の主であった大叔父が戦場の華と散ってからちょうど一年。氏族の本家のみならず全ての分家で前回の継承の儀の後で生まれた、つまりは新たに魔剣の主に選ばれる可能性がある全ての者がこの儀式に集っていた。と言っても、緊張した面持ちなのは本家の六人の息子達だけ。後の者は洞窟の高い天井に飾られた幾つもの燭台や祖霊を祀る神聖な旗を物珍しげに見上げ、あるいは隣の誰かとひそひそと話し合い、かすかな笑い声を上げる者さえもいた。
山嶺が選ぶのは常に本家の直系の男子、それも、わずかな例外を除いては長男のみ。
開祖以来二十七代の主は全てそうであり、だから今回もそうに違いないと誰もが思っていて、それは末席の分家の末娘であるクララも例外ではなかった。
『クララ、寒くはないかい?』
『平気ですわ、兄様』
隣に立つ少年の顔を見上げてにっこりと微笑んだ。本家の長男であり、たぶん山嶺を継ぐことになるのだろうと誰もが思っていた少年。卓越した剣士であった少年はその大きな手のひらでクララの髪をほわりと撫で、
『しかしもったいないな。ああもったいない』蠟燭の薄明かりに照らされた封印の間の高い天井を見上げて嘆息し『お前が山嶺の柄を握れば、天下無双の魔剣使いとなるであろうに』
『あらあら、それでは困ってしまいますわ』
くすくすと笑い、少年の手を取って自分の両手でそっと包む。魔剣の主に選ばれた少年は戦場に赴き、クランの家名を天下に轟かせて帰ってくる。半年か、あるいは一年後。その頃には氏族の大叔母達が手分けして誂えてくれているドレスもきっと美しく仕上がっているはずだ。
輿入れの日の祭りはきっと盛大な物になるだろうと。
そうして、少女はきっと誰よりも素敵な花嫁になるだろうと、両親も、少女自身も、他の誰もがそう信じていた。
『わたくし、兄様の花嫁となる身ですのよ?』
大長老が先祖を讃える祝詞を厳かに歌い、封印の間の中央、魔剣が安置された祭壇の扉を開く。
誰かの声に呼ばれたような錯覚。
クララは少年と手を繫いだまま祭壇に向かって一歩踏み出し、そして──
*
聖地セントラルを取り囲む巨大な真円形の城壁には四つの門がある。東西南北それぞれの門からは石畳の街道がまっすぐ四方にのび、その道はロクノール環状山脈を越えて大陸を四等分する四つの大国に通じる。
その一つ、北方連邦国に通じる門の前。
クララ・クル・クランはたくさんの着替えと旅の道具を詰め込んだ大きな鞄を地面に置き、両腕を頭上に突き出して、うんっ、と勢いよくのびをした。
「着きましたわー!」
元気よく声を上げ、自分の言葉にうなずいてくすくすと笑う。くるりとスカートを翻して回れ右し、ここまで自分を運んでくれた鉄道馬車の御者に大きく手を振る。十二頭立てのゴーレム馬が八両の客車を引いて線路を進む鉄道馬車の乗り心地は最高、とまではいかずともなかなかの物だった。おかげで険しい山越えの道も暖かい客室の中で快適に過ごすことが出来たし、何より本当なら大人の足で三ヶ月はかかるロクノールの山越えの道をたったの七日で踏破してしまった。
……ではでは……
左腰の鞘に収まった魔剣「山嶺」の柄に手を置いて少し考え、門前の広場にごった返す入国審査待ちの人波を避けて右へ向かう。石畳の広い道を城壁に沿って少し進むと、お目当ての物がすぐに視界の向こうから迫ってくる。
壁の一面に埋め込まれた、三階建ての建物ほどもある大きな石造りの浮き彫り絵。
太古の昔に彫られたのだというレリーフには、聖門教の始まり、「彼方の神」の神話が描かれている。
遠い遠い昔、二千年続いた魔剣戦争が始まるよりもさらにずっと前のこと。大陸の真ん中に「虚」と呼ばれる巨大な穴が開いた。穴は異界に通じていて、そこからあふれ出た魔物が大陸の全土を埋め尽くし、人々を苦しめた。
レリーフの右側に描かれているのはそんな魔物の中でも最も邪悪だったと言われる七柱の魔物の王。
聖門教の神話にある「七つの厄災」だ。
『傲慢』だとか『憤怒』だとか今ひとつ魔物らしくない名前が付けられた七柱は、人の悪徳そのものを象徴しているのだとも言われている。とにかく魔物達によって大陸が地獄と化し、人類が滅びかけたその時、天から「彼方の神」が降臨した。
レリーフの上部分に光の塊として描かれているのが神が乗ってきたと言われる「方舟」で、同じく左半分に描かれているのが神から授かった魔剣を手に魔物に立ち向かった最初の魔剣使い達だと言われている。彼らの活躍によって魔物達は異界へと押し戻され、聖なる門によって「虚」は閉じられた。彼方の神から門を見張る役目を命じられた男は聖門教の最初の教皇となり、地中深くに封じられた門の真上に立てられたのがセントラルの大聖堂である、と──
まあ、要するに「悪いことをすると夜中に『虚』から魔物がやって来てお前を食べてしまいますよ」と子供を脅かすためのお伽噺だ。
神話はあくまでも神話。そんな話を信じている者など聖門教の司祭くらいしかいないし、彼らだってどこまで本気かは疑わしいとクララは思う。
それでもこのレリーフは素晴らしいし、神々しく描かれた魔剣使い達や神の姿を見上げていると魔物云々はともかく彼方の神は本当にいたのかもしれないという気がしてくるから不思議な物だ。少し前までは教会の権威は失墜し、四大国の王からも顧みられることはなかったそうだが、魔剣戦争が終わってからの一年で急速に信者を増やしているらしい。
それで入国審査のあの混雑なのだとすれば好都合。
この街に紛れ込んでいれば、実家の追っ手に見つかることもそうそうあるまい。
「いけない! 忘れるところでしたわ!」スカートを翻してくるりと振り返り、巡礼客目当ての物売りの子ども達に手を振って「どなたか写し絵の魔術が使える方はいらっしゃいませんか? お願いします、このレリーフとわたくしを!」
「任せてよ!」
真っ先に駆け寄って来た男の子に銅貨を十枚ほど渡し、レリーフの前でポーズを決める。待つこと少し。自分と背後の聖画が色鮮やかに描かれた小さな紙を受け取り、
「素晴らしいですわ! 旅はこうでないと」
「ありがとよ。またいつでもよろしく」男の子は笑い、クララの腰の剣にふと目を留めて「お姉ちゃん、魔剣使いなのか。セントラルまで何しに? やっぱり仕事探し? それとも教会の教導騎士にでもなりに来たのかい?」
いえいえ、と笑いを含んだ呟き。
クララは身をかがめて男の子に目線を合わせ、指先で鼻をちょんとつついた。
「わたくし、花嫁修業に参りましたの」