同時に視界の先で少女が動く。自身の体は低く地を這うように、長大な真紅の魔剣はその頭上をかすめて水平に薙ぎ払うように。大気が唸りを上げる。神速をもって放たれた真紅の刃が、真っ直ぐに突き出した山嶺の先端を正確に弾いてそのままクララの胸元の花を散らす──そういう軌道で走り始める。
……では……
踏み出すふりをしていた右足を途中で止め、体の重心を後ろに引き戻す。右手は突きの姿勢のまま、山嶺のガラス質の切っ先をほんの少しだけ上に逸らす。半瞬遅れて視界に赤い光。目標を失った真紅の魔剣が山嶺の刃の下、髪の毛一筋の位置を走り抜ける。一呼吸のわずか百分の一の時間の攻防。クララは体の重心を再び前に傾け、右手の細剣を十七の刀身目がけて軽く振り下ろし、
……『我が剣は山より重く』……
触れ合う二つの刃が奏でるのは金属を引きちぎるようなねじれた異音。突如としてすさまじい質量を獲得した淡青色の刃が長大な真紅の魔剣を上から押さえつけ、その軌道を強制的に下へとねじ曲げる。半透明なガラス質の刀身の全体に透かし彫りされた魔術紋様がうっすらと虹色に瞬く。細い光の糸で編まれた繊細な魔力文字が、柄に象眼された魔力石の上に次々に浮かんでは消える。
これこそ魔剣「山嶺」に秘められた権能。冬の巨人を大地に縫い止めたという神の御業。
触れれば折れそうなこの半透明の細剣は、主の意思に応えて自在にその重さを変化させる。
山その物とも言うべき超重量に押さえつけられて、推力を失った十七が地に落ちる。重量が生み出す負荷は当然のようにクララ自身の腕にも及び、体全体が下へと引きずられる。すぐさま山嶺の重さを本来の物に戻し、踏み込んだ右足を軸に体を回転。右腕にかかってしまった重力を残らず円運動に変換し、踊るように身を翻して後方に一歩跳躍する。
レースをあしらったスカートの裾が、ふわりと風をはらむ。
同時、視界の先にはためくのは白を基調にした色鮮やかな外套。
地を這う姿勢から一転、跳躍した赤毛の少女の姿は落下する真紅の魔剣の上を橋を渡るように駆け抜けてすでにクララの目の前にある。
おそらくこちらが打った一連の手──踏み込みからの突きに見せかけて後退から反撃を誘い、振り抜かれた魔剣を山嶺の権能で叩き落とす──その攻防の流れを全て承知であえて誘いに乗ったのだろう。少女は再び旋回を始めた真紅の魔剣で自らの体を弾き、その推力の全てを足に乗せて蹴りの一撃をクララの胸元目がけて正面から叩き込み、
……『我が剣は雲より軽く』……
防御に掲げた右手のひらで少女のブーツの爪先を受け止め、衝撃に逆らうこと無くふわりと後方に跳躍する。風にそよぐ木葉のごとくに退いた足が一切の音も反動も無しに大理石の地面に降り立つ。
三歩の距離を隔てた先には、蹴り足を下ろすことも忘れて目を見開く赤毛の少女。
その側面をすり抜けて飛来した長大な真紅の魔剣が、着地の直後で動くことが出来ないクララの体に横薙ぎに直撃し──
ふわりと、そよ風が吹き抜ける感触。
岩をも容易く両断するであろう一撃を受け止めた山嶺の刀身が、それを手にするクララ自身の体が、加えられた衝撃に一切逆らうこと無くそのままの威力に押し流されてゆるやかに側方へと吹き飛ぶ。
山嶺の権能は重さを増すことばかりでは無い。クララが望めば魔剣は自身の、そして主であるクララの「重さ」を完全に消し去ってしまうことが出来る。たとえて言うなら風に舞う木葉のような物。軽く、柔らかく、しなやかに。無防備な物を斬ることは時に、硬く堅牢な物を斬ることよりも遙かに難しい。
もちろん、卓越した魔剣使いであれば吹き飛ぶ木葉を剣速のみで追い抜き、あるいは精密な剣の操作で逃れる軌道の先に回り込むのもそう難しいことではない。だが、クララは意思を持たず風になびくばかりの木葉ではない。全ての力を抗うことなく受け流すこの「無の質量」にクララ自身の足運びが加わる時、それはあらゆる攻撃を無意味とする絶対の防御として機能する。
魔剣使いの強さは「魔剣の格」と「魔剣使いの技」、双方の掛け合わせで決まる。格とはすなわち魔剣に秘められた超常の権能。高い威力を持つ権能や一般の魔術では実現困難な希少な権能は格が高く、凡庸な権能は格下、中には「使い手の身体機能の強化」や「魔術に対する耐性」といった全ての魔剣に共通の基本的な加護以外に何ら特別な力を持たない「無能」と呼ばれる魔剣もある。
対して、技とは魔剣を扱う技術。
体捌き、足運び、刃を意のままに動かす繊細な手捌き、相手の動きを見切る目。これらのいわば剣術の基礎は、魔剣であってもただの剣であっても変わらない。
魔剣が使い手に与える身体機能強化の加護は、剣を握ったこともない素人をたちまちに達人に変えてくれるような都合の良い物ではない。常人より力が強くなる、強靱になる、動くのが速くなる、魔術に対する耐性を得る──ただそれだけ。凡庸な者は魔剣を手にしてもやはり凡庸。魔剣を剣として正しく扱う技量を身につけるには、長く苦しい修練に耐えるか、天賦の才に頼らなければならない。
勝敗は使い手の技のみによっては決まらず、魔剣の格のみによっても決まらず。いかに強大な権能を有した魔剣であっても使い手の技量が及ばなければ真にその力を発揮することは出来ない。逆に、どれほど優れた技を会得した魔剣使いであろうと手にした魔剣が格下では己の技量を十分に生かし切ることは出来ない。
魔剣「山嶺」は北方連邦国に伝説と語り継がれる一振り。格で言えばまず間違いなく超一流。
そして、その柄を握る自分、クララ・クル・クランの技量は──
……小手調べはこの辺り、でよろしいですわよね?……
着地と同時に体が本来の重さを取り戻し、地を蹴った次の瞬間に再びあらゆる重さを失う。足から得た推力を爆発的な速度に置き換えて前へ。大理石の広場を踊るように駆け抜け、一呼吸の内に再び赤毛の少女の間合いに飛び込む。
手首の動きだけで軽く振り下ろした山嶺の刃に超重量を付加し、胸元まで迫った真紅の魔剣を叩き落としつつ再び自身の重さを消し去る。
刃が敵に触れる瞬間にのみ剣を重く、刃が離れた瞬間にまた軽く。重く、軽く。軽く、重く。並みの者が手にすれば重さと軽さの差に振り回されて腕を引きちぎられる。巧みな者が手にしても足をもつれさせるか、あるいは自身に扱える範囲で魔剣の権能を制限してしまう。
だがクララにとっては容易い事。赤毛の少女の周囲を木葉のように舞い踊りながら、今や防戦一方となった真紅の魔剣目がけて巨人をもねじ伏せるすさまじい重量の一撃を叩き込み続ける。
一つ一つが山をも砕くほどの威力を備えた、超高速の連撃。
そこにクララの天性の見切りと体捌きが──髪の毛一筋ほどの狂いもなく敵の動きを捉えるこの目と、髪の毛一筋ほどの間違いもなく常にあるべき場所に体を運び続けるこの足が合わさればどうなるか。
「……痛っ!」
「リット殿──!」
こうなる。山嶺の細い切っ先に浅く薙がれた少女の腕から鮮血が飛び散り、後方の観覧席でグラノス卿が叫ぶ。
決着まであと二手。防御に掲げられた真紅の魔剣を剣先で叩き落とすのに一手、踏み込みざま少女の胸の花を散らすのにもう一手。
それで詰み。
ああ、今日もやっぱり、つまらなかった。
大人であろうと男であろうと、クララには誰も敵わない。その人が血が滲むような思いで積み重ねてきた努力を、修練を、研鑽を、クララの才は花を手折るように容易く摘み取ってしまう。
やっぱり決闘なんて断ればよかった。こんな物、何も一つも面白くない。
陽光に煌めく半透明な淡青色の刃。山嶺の針のような切っ先が狙い違わず長大な真紅の刀身を打ち据え、
「……すごい」
かすかな、囁くような赤毛の少女の呟き。