ビスコは砂丘に腹ばいになり、猫目ゴーグルの倍率をいじりながら、夜の砂漠に白くそびえ立つ、巨大な壁を見つめている。
『友愛の都、忌浜県へようこそ!』と、壁一面に丸文字でペイントしてあり、文末には忌浜のうさぎマスコット『イミーくん』がにこやかにその愛嬌を添えている。その「愛」と「の」、および「よう」と「こそ」の間からは、ものものしい機銃装置が睨みをきかせており、なんとも皮肉の効いた光景といえた。
壁の向こうには、眠らない忌浜の街が放つ色とりどりのネオンがやかましく光っており、その中心に、権威を示すように高く県庁がそびえ、屋上にはやはりイミーくん人形が誇らしげに天を指差していた。とはいえ、その顔の塗装は吹き付ける錆び風によってほとんど溶け出して、目や口から血を流しているような有様であり、お世辞にも縁起のいい置物には見えない。
城砦都市、忌浜。
迫る錆び風から逃れようとした埼玉人が巨大な壁を作り、そこを街とした、というのがどうやら忌浜県の成り立ちのようである。壁の中で人はかつての文明をわずかながら取り戻し、かりそめにも錆の脅威から遠ざかって、今日も安寧の中にまどろんでいる。
(けェッ。邪魔な場所に栄えてやがる)
砂の上で微動だにせず、ゴーグルから忌浜の壁を睨むビスコの上を、カメレオンがするすると這った。ゴーグルの上を這い下って口元まで来たあたりで、ビスコはすばやくそいつを吸い込み、ムシャリと嚙み砕いてしまう。
暴れのたくる尻尾をそのままにしてビスコは偵察を切り上げ、ゴーグルを上げると、灯りの透けるテントへ向けて砂丘を滑り降りていった。
人を生きながらにして錆びつかせる、死の脅威『錆び風』。
今を生きる人間達に、その由来の真実を知る術は失われて久しい。
世間的な常識でいえば、かつての日本科学の結晶である『テツジン』なる防衛兵器の大規模爆発が原因、というのが、ひとまずの共通認識ではある。
新式エンジンが研究中に爆発したとか、東京都と大企業の内戦に使われて起爆したとか、はたまた宇宙からの侵略者と刺し違えて爆発したなどと、B級映画じみた論説も含め、テツジンについての説は多く語られてきた。何にせよ、遥か昔の話の細かい真偽はともかく……。
錆び風は東京爆心穴を中心に日本全土を覆うように吹き続け、それまでのおよそ文明と呼べるものを舐め尽くし、錆の塊に変えて、今日の日本にも変わることなく吹き続けている。
絶えず人心を暗雲のように覆う錆び風の恐怖から逃れようと、人間は汚れた富や怪しげな信仰に頼り、県境に風を防ぐ高い壁を立てたりして、少しでも死の気配から遠ざかろうと努めているというのが、日本どこに行っても共通の有様であった。
今、ビスコ達が行く『北埼玉鉄砂漠』は、その錆び風がもたらす滅びをもっとも体現した地域と言っていい。東京が首都だったころ、埼玉一帯は日本随一の工業地帯であったと言われているが、今では爆心穴から吹き上がってくる錆び風に舐め尽くされてすっかり錆の海と化してしまっている。埼玉鉄砂漠は、それら工業地帯の建造物が風に削られて、跡形もない鉄の砂になり、それが積もり積もってできたものだ。
埼玉以南、つまりは東京爆心穴より南、神奈川、千葉と呼ばれたあたりの地理については、これはもう都市として存在しているかどころか、人が生息できる環境にあるのかすらわからない。都合、埼玉は人間の交通路として機能するギリギリ最南端に位置しているといえる。
忌浜県の西門へは、道中のナマリザメやコゲウツボの対処を計算に入れれば、群馬の南関所から蟹の足で東に四日ほど。
今日がちょうどその四日目、夏の割に冷える夜である。
「おかえんしゃい」
テントに滑り込むビスコに、くつくつ煮える鍋を搔き回しながら、ぎょろ目の老爺が尋ねた。
「どうじゃい。自警は表に出とったか?」
「いや。警備のかけらもなかった。手配書は回ってないらしい」
「ヒョホホ。昔から、群馬と忌浜は仲が悪ぃからな。それこそ、前の知事のころはよ……」
「昔話はいいんだよ、聞き飽きたぜ。それより薬の時間だ、服を脱げよ、ジャビ」
ビスコは言いながら外套を脱いでそこらへ放ると、自分の言葉を無視して鍋の汁を啜ろうとする老爺を制し、鋭く声をかけた。
「おい! 何回言ったらわかるんだ、ジジイ! メシの前に、サビを見せろっつってんだ!」
「いいじゃァねえか、味見くらい。老い先短い師匠に、冷てえ弟子じゃのォ」
「その老い先を延ばしてやろうってんだ。がたがた言うな」
老爺ジャビは、ビスコの厳しい視線に根負けしたか、素直に外套と上着を脱ぎだした。
ビスコは包帯まみれのジャビの上半身から、慣れた手つきで手早く包帯を解く。徐々に、瘦せこけた老人の皮膚を蝕む、赤褐色の錆が露わになってくる。
「……。」
ビスコは、わずかに眉間に皺を寄せて、師匠の肌を覆う錆を指でなぞった。錆は老人の首から肩を下り、二の腕をかすめて右胸のほとんどを覆っていた。
「なァに、ワシゃ平気だよ。若けえ時よりいいぐらいだ。ホレ、肩も上がる」
「バカ言うな、上がってねえだろ。くたばってねえのが不思議だ」
ビスコは錆びた師父の首筋にヨモギタケの薬液を注射してやり、新しい包帯に替えてやりながら、口の中で小さく呟く。
「あんまり、時間がねえ。じきに肺に届いちまう……」
「難しい顔してねえでよ、食えや、ビスコ。……おっ、ンまい!」
治療を終えたジャビはさっさと外套を羽織り、鍋の汁の味見をして、椀に注いでやる。
「今日の汁は美味え。鼠の脂がたっぷりだ。食わねえと、肝心な時に弓が引けんぞい」
ビスコは、自分の病を他人事のように話すジャビに呆れたが、やがて根負けしてひとつ息をつくと、砂の上に胡座をかいて椀を受け取った。
今日の飯は、どうやら昼間に砂釣り(しびれエノキの矢を砂中に咲かせて、それに食いついた獲物を釣る)で獲った鉄鼠と砂虫の肉を挽いて団子にしたもの、それにしなびた舞茸を加えて煮込んだ、黄土色の汁であった。おおよそ鉄砂漠で獲れる獲物などというのは、鉄くさくてほとんど食えたものではないのだが、贅沢も言っていられない。
キノコ守りにも料理の上手い下手というのはもちろんあって、たとえば砂虫などを料理する場合は、じっくり水につけて砂を吐かせたりと、手間をかければそれなりの味になるのだが。
「……ぐえッ、げはッ。うええ。何か苦え汁が出てきやがった。ちゃんと、ワタ抜いたのか!?」
「良く嚙むからいけねえのよ。流し込め、ぐいっと」
「歯抜けが言うな。嚙めねえだけのくせに」
「ウヒョホホ」
そういうことに頓着しないのが、この、瘦せこけたギョロ目の老人、ジャビであった。ビスコの親代わりを務め、また師匠として彼を一流に鍛え上げた、キノコ守りの英雄である。