ビスコの歳に見合わぬ熟練の弓さばきは、かつては弓聖と謳われたジャビの技を受け継いだものだし、ジャビ自身、蟹を操らせればいまだ右に出るキノコ守りは居なかった。
しかし、その熟練の戦士も、錆び風の起こす死病、サビツキに蝕まれ……
死期が近い。
「ジャビ。もう普通のキノコが効かねえ。すぐ《錆喰い》がいる。少し旅のペースを上げる」
「……。」
「忌浜を抜けちまえば、あとは関所もない。秋田まですぐだ」
霊薬、《錆喰い》。
いかなる錆もたちどころに溶かし、健康な肉を取り戻すと言われるこのキノコについては、キノコ守りの中でも半ば伝説的な存在である。かつて、錆によって滅びかけたキノコ守りの集落を、その効力で救った逸話こそあるが、その具体的な生息地も、咲かせ方も、今となってはジャビの思い出の中にしかない。
「ビスコ」
「あ?」口の端から、鼠の尻尾をちゅるりと啜り、顔を上げるビスコ。ジャビは微笑みながらも、普段の飄々とした空気をその時ばかりはしんと抑えて、低い声で言葉を紡いだ。
「お前にゃ、ワシのやれる事ァ、全部教えた。菌術。蟹乗り。弓術……弓ならもう、お前のが上手い」ビスコは、師匠の悲壮な気配を感じとって、やや和らいでいた表情を徐々に引き締めていく。「薬の調剤だけはお前、ひひ、てんでダメだったがよ。さっ引いても、体も、技も、お前に並ぶキノコ守りはいねえ。ただワシゃあな……心残りが、あるとすれば……」
ジャビはそこで一旦言葉を切って、その眼をしっかりとビスコと合わせ、口を開いた。
「ビスコ。ワシが、死んだらな……」
「うるせえ」
「聞けい、ビスコ」
「うるせぇッ、黙れッ!」汁の椀を砂に叩きつけて、ビスコが立ち上がる。歯を食いしばり、鋭い目の中の緑色の瞳を、ぶるぶると震わせている。
「そうならねぇように、関所の十、二十ぶち破って、旅してきたんだろうが! いつも、いつも、自分の命を他人事みてえに……! そんなに、錆び腐れて、くたばりてえのかッッ」
「ウヒョホホ……道中、毎回痛快じゃッたのォ。あの、滋賀の比叡山の立ち回り、覚えとるか? 関所の前で、ロープウェイのロープ切ってよ……ターザンみてえに、こう」
「修学旅行に、来てんじゃァねえんだよッ!」ビスコは激情を持て余して、ジャビの胸ぐらを引っ摑み、その尖り切った視線をぶつける。しかしその視線も、ジャビの包み込むような穏やかな目に吸い込まれてしまえば、ビスコは唇を嚙んで、放るようにジャビから手を離す。
「……老いぼれに足引っ張られて、くたばるのはごめんだ」
ビスコは吐き捨てるように言って、外套を引っ摑んで羽織ると、テントの外へ出て行く。
「……。次、くだらねえこと抜かしたら。……ブン殴るからな……!」
ジャビへ一瞥くれて、ビスコはテントの幕を乱暴に閉める。汁の溢れた椀が、炎に照らされてゆらゆらと影を踊らせている。
「……優しい子ォを、修羅にしちまった」ジャビは椀を片付けながら、俯きがちに呟いた。
「ワシはたぶん、死ぬるよ、ビスコ。渇いたままのお前を、置いて」
(その後、誰かが。どうか誰かが、お前を……)
最後までを言葉にせずに、ジャビは口を噤んだ。そしてその大きな黒目で、ゆらゆらと揺れる炎をじっと見つめていた。
風が吹いて、砂とともにビスコの外套をばさばさと吹き上げた。ビスコが軽く眼をかばいながらテントの裏手に回ると、巨大な蟹が特に繫がれもせず、退屈そうにそこで佇んでいる。
「飯食ったか? アクタガワ」ビスコが餌桶の中を覗き込むと、やはり綺麗にカラになっている。蟹というものがはたして、ストレスをどれほど感じる生き物なのかビスコにはわからないが、ともかくこの大蟹・アクタガワは、いかなる時にも調子を乱すことのない、ビスコとともに育ってきた兄弟分なのであった。
「……てめえは毎度、つくづくノンストレスの、マイペースで」
ビスコはアクタガワの腹に寄りかかり、その、何を考えてるんだかわからない蟹特有の表情を見あげた。
「羨ましいよ。俺も、蟹に生まれりゃよかった。……いや。やっぱり上に乗られんのは、御免だな」
アクタガワは、聞いているのかいないのか、口から泡をひとつ「ポコ」と吹く。ビスコは少し笑って外套で身体を覆い、アクタガワの脚に抱かれるようにして、しばらく目を閉じていた。
ふと、背後のアクタガワがびくりと動き、伸び上がった。
ビスコは俄かに鋭い狩人の顔を取り戻し、油断なく砂から跳ね起きると、アクタガワに伏せるように合図する。
空気を切り裂くような、高い音……
音、というよりそれは気配に近いものだが、自然術に長けるキノコ守りの感覚が、この環境の中で明らかに異質なものとしてそれを捉えた。
「何だ……?」
ビスコは気配の方向を向き、目を凝らす。
何か大きいものが、ごく静かに、ビスコ達のキャンプを目掛けて滑空してきている。
突然、パシュウ、という炸裂音がビスコの耳に刺さった。空気を裂く気配がにわかに強く、肌に触れる感触となってビスコの感覚を研ぎ澄ます。咄嗟に猫目ゴーグルを下ろせば、何か白い筒のようなものが、白煙を上げてアクタガワへ向かって突っ込んでくるのがわかる。
「こいつッ!」
ビスコはすかさず弓を引き絞り、砂を割いて迫るそれへ向けて放った。矢が狙い違わず白い筒を撃ち抜けば、それは空中でのたくった後、砂の上に激突して轟音とともに爆発する。
「ロケット!?」
爆発の明かりに照らされて、ビスコの汗が光った。
「くそっ、何だ、こいつ!? アクタガワ、ジャビを!」
走り出すアクタガワから前方に視線を戻せば、ロケットの爆煙は、その向こうから迫る大型の軍用機も同時に照らし出していた。砂を巻き上げながら迫る飛行物体の、巨大な両翼の中央には、何やら不気味にうねる軟体のものがその頭をもたげ、二本の触覚をのたくらせている。背負った巻貝のその中央には、的場製鉄の、星的をかたどったロゴマークが刻印されている。
「的場製鉄の、カタツムリか……! こんなもん、どうして……!?」
「ビスコ───ぃ」アクタガワの手綱を取って、ジャビが叫ぶ。「ゲロ吐きが来るぞォッ。アクタガワへ隠れろォ」
ジャビの警告とほぼ同時に、カタツムリの軟体質の頭が一際膨れたかと思うと、見るも毒々しいピンク色の溶解液を、思い切りビスコ目掛けて吐き出してきた。弾かれたように駆け出すビスコの背後で、ドジュウ、ドジュウと鉄の砂が溶け出す音が響く。岩を溶かし、飛び出た鉄骨をぐにゃりとへし曲げながら、溶解液は逃げるビスコを捉えようと迫ってくる。
溶解液がビスコに追いつくのと、ビスコがアクタガワの陰に滑り込むのはほとんど同時であった。アクタガワの背中が、浴びせられる溶解液に「ばぎめぎ」と鳴り、白煙を上げるが、とうとう自慢の甲殻でそのゲロ爆撃を凌ぎきり、抱き込んだ主人二人を守った。
黒い影が、その腹を見せて空からビスコ達を覆い、過ぎてゆく。
「エスカルゴ空機じゃ」ジャビが、ドロドロに溶け出すキャンプのテントを横目に、轟音に負けないように声を張る。「忌浜自警の色じゃねえ。何故、ワシらを……」