夜、八時を回っていた。
半ばスラムに近い忌浜の下町は、「人錆解脱」「姦楽往生」等、宗教娼館の品のないネオンがそこらじゅうに光り、露天で焼かれる肉の脂と、娼婦の安っぽい香水の香りがないまぜになって、狭い通りに満ちている。
人工の香料がえぐいほど香る、山柚子や、蛇蜜柑の籠。縁起担ぎの鏡屋、達磨屋。いかにも眉唾な、まじない用の蠱毒の壺に破魔香炉。その隣には、そこらの廃墟から掘り起こしてきた漫画雑誌がずらりと並び、表紙で笑顔の少年が宙を舞って、百万馬力を謳っている。
それらををさばく露天商の声が飛び交い、行き交う人々の話し声を否が応にも大きくさせる。治安が良いなどとは、お世辞にも言えない場所である。
それでもミロは、このやかましく騒ぐ下町の夜が、決して嫌いではなかった。
フードを深く被り、慣れた足取りで人混みをするり、するりとすり抜けて、通りを歩いてゆく。大きな娼館をひとつ、ふたつ横切り、不意に横道に逸れると、そこに小さな荷車式の屋台が、『饅頭』の暖簾を出して、ぽつねんと佇んでいた。もうもうと上がる湯気とともに、ふわりと香る蒸し饅頭の匂いが食欲を搔き立てる。
ミロはそこでひとつ息をつくと、ポケットの硬貨を確かめて、暖簾に顔を突っ込んだ。
「今晩は」
「いらしぇい。……おう、先生!」
店の主人は、暇そうに咥えていた煙草をもみ消して、馴染みの来客に喜ぶ。
「今日は遅かったじゃないの。ワニ、ふたつ、とってあるよ」
「今日は、……そうだなあ。シャコもふたつ、下さい」フードの下から、控えめだが、優しく涼やかな声が言った。「姉さんの具合がいいんです。入るうちに食べさせてあげたい」
「そりゃ、何よりだァ」主人が蒸し器を開けると、白い湯気がふわりと辺りに漂う。
「先生が診てる上に、うちの饅頭食ってんだもの。治らない病気なんざ、ありゃしないよ……ほい、ワニ肉と、シャコ味噌だあ」
ミロはフードの下で、ちょっと寂しげに笑うと、熱々の饅頭の入った袋を受け取り、そして周囲を気にするようにやや声をひそめて、店主の耳元に語りかける。
「今日は、その……ありますか」
「はいよ。先生も、よくわかんねえお人だね……。まあ、あたしなんかは、医の心得なんぞねえからね、先生に渡すのが、まあ一番いいやな」
店主が呟きながら屋台から取り出したのは、数本の『キノコ』であった。ちらり、とそれをかざすようにミロに向け、ミロが頷くのを見て、紙へ包んで手渡す。
「見つからねえでくださいよ。先生がパクられちゃ、この街はおしまいだからね」
「ありがとう! これ、少しだけど」
「だめだ。先生から金は取れねえ。こないだだって娘を、タダで……」
しーっ、と、指を口元に当ててミロは笑うと、店主の胸ポケットに硬貨をねじこんだ。
「薬がなくなったら、また来てくださいね。いつもの、水曜の閉院後に……」
その言葉の終わらぬうち、突然裏通りの暗闇から小さな影が飛び出し、ミロの持った饅頭袋に飛びついて、強引に引ったくった。ミロは反動でくるくると回り、去りざまに振り返る小さな影と目を合わせた。
子供であった。ボロ布のような服を身にまとい、ぼさぼさの髪をして、目だけを爛々と光らせている。子供はそのまま大通りに飛び込んで、人混みの中へ消えていこうとする。
「あの子……!」
「ひったくりだァ。誰か、そのガキ捕まえてくれェ」
主人が叫ぶのを待たず、ミロは外套をはためかせてするりと人混みに入り込み、子供の後を追った。子供は、相手の思わぬ身のこなしに面食らったのか、蜜柑の籠を崩し、屋台の屋根を跳ね飛びながら派手に逃げていき、裏路地の隙間へ入り込んだ。
ミロが、やや遅れて、その暗い路地裏に追いつく。
「……行き止まり?」
ミロが、やや目を細めて、その暗い路地を覗き込んだ、その瞬間。
「りゃーッ」
先の子供が、路地裏に巡らされた電線の上から、木棒を振りかぶって飛び降りてきた。
ばこん! と強かに、頭頂部を木の棒で叩きつけられるミロ。突然の痛みに目の前に星が散り、思わず頭を押さえて屈み込む。
「痛っっ……たぁ───っっ……!」
「……! 女の、人……!?」
一瞬、迷った子供の隙を見逃さず、ミロは咄嗟に手を伸ばして、まだ幼い子供の腕をつかむ。
「女の人を殴る男は、最低だよ……!」
その顔に詰め寄り、じろりと恨めしげに睨んで……
「あはは! よかったね、男の人で!」
フードを脱いで表情を崩し、弾けるように笑った。
若干のあどけなさを残す、美しい少年であった。
やや臆病そうだが、深い優しさと、豊かな智性を湛えた、きょろりと円らな藍色の瞳。白い肌に、絹糸のように柔い空色の髪。
年の頃は一六、七であろうか。頼りなく細い身体に、涼やかな声も相まって、その子供の目線でなくとも、女と見紛う風貌である。その美しさに水をさすように、左目の周りに黒い痣が強く残っており、白い肌と相まってさながらパンダを思わせ、不思議とアンバランスな愛嬌を醸し出している。
《パンダ先生》の通称で下町に愛される猫柳ミロの、それが由来であった。
「きみ、サソリアブに刺されたところ、放っておいたでしょう」
ミロがその細い指で子供の前髪を上げると、眉毛の上で青黒く腫れた患部が露わになった。
「やっぱり。さっき、患部が見えたもの。刺し傷に針が残ってる、毒が染みきったら、失明しちゃう……ほら、おいで」
「う、うわっ、はなせっ、何すんだよっ!」
ミロは有無を言わせず子供を抱き寄せると、その髪をかきあげて熱メスのスイッチを入れ、患部を薄く切って膿混じりの血を抜いてやる。皮膚に食い込んだサソリアブの針を口ですばやく吸い取って、固形状のクラゲ油を一粒、熱メスで溶かすと、それを患部に塗り込み、日光よけの黒エイドの上から包帯を器用にくるくると巻いてやる。
的確で、素早い施術。その若さには似つかぬ、鮮やかな手際であった。
「おしまい!」子供の頭をポンとはたいて、ミロは笑った。「もしまた腫れたら、うちへおいで。パンダ医院、ここの通りを向こうへ抜けて、突き当たりを右、金物屋さんの隣だよ」
文明がその形をある程度取り戻してきたこの時代、この都市とはいえ、まだまだ人間は消耗品であり、一度身体を壊せばスクラップのように廃棄されるのが常である。そうした中にあって医術は非常に貴重なもので、どうやらそれの卓越したものを、このミロという少年医師は持ち合わせているようであった。
「お、おにいさん」子供はおずおずとミロを見上げながらその足に縋り、その丸い瞳でミロの顔を見上げた。「あの、こ、これ……」
差し出した饅頭の袋を、そっと押し戻して、ミロはもう一度子供の頭を撫でてやる。
「ワニまん、僕のいちおしなんだ。おいしいよ。ほら、もう行きな!」
ミロにけしかけられて、子供は何度も振り返りながら、大通りの向こうへ消えていった。
ミロはさわやかな顔でその子を見送って、ひとつ、満足げな溜め息をつき、フードを被り直して後ろを振り返る。
そこに。
真っ黒な、吸い込むような黒目が二つ、じい、とミロを見据えている。
ミロはいきなり心臓を握られたかのように、ハッと息を詰め、一歩、後ずさった。
距離にして、2mほどは離れているはずなのに、まるで鼻先に顔を付き合わされたような、そういう威圧感である。