錆喰いビスコ

2 ①

 夜、八時を回っていた。

 半ばスラムに近いいみはまの下町は、「じんせいだつ」「かんらくおうじよう」等、宗教しようかんの品のないネオンがそこらじゅうに光り、てんで焼かれる肉のあぶらと、しようの安っぽいこうすいかおりがないまぜになって、せまい通りに満ちている。

 人工のこうりようがえぐいほどかおる、やまや、へびかんかごえんかつぎの鏡屋、達磨だるま。いかにもまゆつばな、まじない用のどくつぼこう。そのとなりには、そこらのはいきよからこしてきたまん雑誌がずらりと並び、表紙で笑顔の少年が宙をって、百万馬力をうたっている。

 それらををさばくてんしようの声が飛び交い、行き交う人々の話し声をいやおうにも大きくさせる。治安が良いなどとは、おにも言えない場所である。

 それでもミロは、このやかましくさわぐ下町の夜が、決してきらいではなかった。

 フードを深くかぶり、慣れた足取りで人混みをするり、するりとすりけて、通りを歩いてゆく。大きなしようかんをひとつ、ふたつ横切り、不意に横道にれると、そこに小さな荷車式の屋台が、『まんじゆう』の暖簾のれんを出して、ぽつねんとたたずんでいた。もうもうと上がる湯気とともに、ふわりとかおまんじゆうにおいが食欲をてる。

 ミロはそこでひとつ息をつくと、ポケットのこうを確かめて、暖簾のれんに顔を突っ込んだ。


「今晩は」

「いらしぇい。……おう、先生!」


 店の主人は、ひまそうにくわえていた煙草たばこをもみ消して、みの来客に喜ぶ。


「今日はおそかったじゃないの。ワニ、ふたつ、とってあるよ」

「今日は、……そうだなあ。シャコもふたつ、下さい」フードの下から、ひかえめだが、やさしくすずやかな声が言った。「姉さんの具合がいいんです。入るうちに食べさせてあげたい」

「そりゃ、何よりだァ」主人がを開けると、白い湯気がふわりと辺りにただよう。


「先生がてる上に、うちのまんじゆう食ってんだもの。治らない病気なんざ、ありゃしないよ……ほい、ワニ肉と、シャコだあ」


 ミロはフードの下で、ちょっとさびしげに笑うと、熱々のまんじゆうの入ったふくろを受け取り、そして周囲を気にするようにやや声をひそめて、店主の耳元に語りかける。


「今日は、その……ありますか」

「はいよ。先生も、よくわかんねえお人だね……。まあ、あたしなんかは、医の心得なんぞねえからね、先生にわたすのが、まあ一番いいやな」


 店主がつぶやきながら屋台から取り出したのは、数本の『キノコ』であった。ちらり、とそれをかざすようにミロに向け、ミロがうなずくのを見て、紙へ包んでわたす。


「見つからねえでくださいよ。先生がパクられちゃ、この街はおしまいだからね」

「ありがとう! これ、少しだけど」

「だめだ。先生から金は取れねえ。こないだだって娘を、タダで……」


 しーっ、と、指を口元に当ててミロは笑うと、店主の胸ポケットにこうをねじこんだ。


「薬がなくなったら、また来てくださいね。いつもの、水曜の閉院後に……」


 その言葉の終わらぬうち、突然裏通りのくらやみから小さなかげが飛び出し、ミロの持ったまんじゆうぶくろに飛びついて、強引に引ったくった。ミロは反動でくるくると回り、去りざまにかえる小さなかげと目を合わせた。

 子供であった。ボロ布のような服を身にまとい、ぼさぼさのかみをして、目だけをらんらんと光らせている。子供はそのまま大通りに飛び込んで、人混みの中へ消えていこうとする。


「あの子……!」

「ひったくりだァ。だれか、そのガキつかまえてくれェ」


 主人がさけぶのを待たず、ミロはがいとうをはためかせてするりと人混みに入り込み、子供の後を追った。子供は、相手の思わぬ身のこなしに面食らったのか、かんかごくずし、屋台の屋根をびながら派手にげていき、裏路地のすきへ入り込んだ。

 ミロが、ややおくれて、その暗い路地裏に追いつく。


「……行き止まり?」


 ミロが、やや目を細めて、その暗い路地をのぞんだ、そのしゆんかん


「りゃーッ」


 先の子供が、路地裏にめぐらされた電線の上から、木棒をりかぶって飛び降りてきた。

 ばこん! としたたかに、頭頂部を木の棒でたたきつけられるミロ。突然の痛みに目の前に星が散り、思わず頭を押さえてかがむ。


「痛っっ……たぁ───っっ……!」

「……! 女の、人……!?」


 いつしゆん、迷った子供のすきのがさず、ミロはとつに手をばして、まだ幼い子供のうでをつかむ。


「女の人をなぐる男は、最低だよ……!」


 その顔にり、じろりとうらめしげににらんで……


「あはは! よかったね、男の人で!」


 フードをいで表情をくずし、はじけるように笑った。

 じやつかんのあどけなさを残す、美しい少年であった。

 ややおくびようそうだが、深いやさしさと、豊かなせいたたえた、きょろりとつぶらなあいいろひとみ。白いはだに、きぬいとのようにやわい空色のかみ

 年のころは一六、七であろうか。たよりなく細い身体に、すずやかな声も相まって、その子供の目線でなくとも、女とまがふうぼうである。その美しさに水をさすように、左目の周りに黒いあざが強く残っており、白いはだと相まってさながらパンダを思わせ、不思議とアンバランスなあいきようかもしている。

《パンダ先生》のつうしようで下町に愛されるねこやなぎミロの、それが由来であった。


「きみ、サソリアブにされたところ、放っておいたでしょう」


 ミロがその細い指で子供のまえがみを上げると、まゆの上で青黒くれたかんあらわになった。


「やっぱり。さっき、かんが見えたもの。きずに針が残ってる、毒がみきったら、失明しちゃう……ほら、おいで」

「う、うわっ、はなせっ、何すんだよっ!」


 ミロはを言わせず子供をせると、そのかみをかきあげて熱メスのスイッチを入れ、かんうすく切ってうみ混じりの血をいてやる。に食い込んだサソリアブの針を口ですばやく吸い取って、固形状のクラゲ油を一つぶ、熱メスでかすと、それをかんみ、日光よけの黒エイドの上から包帯を器用にくるくると巻いてやる。

 的確で、ばやじゆつ。その若さには似つかぬ、あざやかなぎわであった。


「おしまい!」子供の頭をポンとはたいて、ミロは笑った。「もしまたれたら、うちへおいで。パンダ医院、ここの通りを向こうへけて、突き当たりを右、金物屋さんのとなりだよ」


 文明がその形をある程度もどしてきたこの時代、この都市とはいえ、まだまだ人間はしようもうひんであり、一度身体をこわせばスクラップのようにはいされるのが常である。そうした中にあって医術は非常に貴重なもので、どうやらそれのたくえつしたものを、このミロという少年医師は持ち合わせているようであった。


「お、おにいさん」子供はおずおずとミロを見上げながらその足にすがり、その丸いひとみでミロの顔を見上げた。「あの、こ、これ……」


 差し出したまんじゆうふくろを、そっともどして、ミロはもう一度子供の頭をでてやる。


「ワニまん、ぼくのいちおしなんだ。おいしいよ。ほら、もう行きな!」


 ミロにけしかけられて、子供は何度もかえりながら、大通りの向こうへ消えていった。

 ミロはさわやかな顔でその子を見送って、ひとつ、満足げないきをつき、フードをかぶなおして後ろをかえる。

 そこに。

 真っ黒な、吸い込むような黒目が二つ、じい、とミロをえている。

 ミロはいきなり心臓をにぎられたかのように、ハッと息をめ、一歩、後ずさった。

 きよにして、2mほどははなれているはずなのに、まるで鼻先に顔を付き合わされたような、そういうあつかんである。



刊行シリーズ

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錆喰いビスコ9 我の星、梵の星の書影
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