「……およそそういう、慈善の心、善行などというものは、金持ちのデブガキが、チーズバーガーのピクルスをそこらの犬に投げて悦に入るような、自慰まがいの遊びに過ぎない」
深い黒目の男は、被った鍔広の帽子の位置を直しながら、言葉を続けた。
「だが君のそれは違う、猫柳くん。貧しい君が、君自身を削って、所縁ない子供を助ける。映画なら、ありきたりすぎて退屈なほどに、美しい行為だ。この腐った街に咲く、一輪の花、といえる」
その、鍔広帽の男の周りには、数人の男達がぴったりと護衛し、周囲に目を光らせている。異様なのは、その親衛隊が被っている、忌浜マスコット『イミーくん』の覆面であった。肩幅の広い大柄なガタイに、作り物の笑顔を一様にへばりつかせたその様は、雑多な忌浜の下町においても一際異様に見える。
男が鬱陶しそうに手をひらひらと振れば、ウサギ面の親衛隊がわずかに引き下がる。
「いや、訂正する。自分の管理してる都市を、腐った街と言ってのけるのもな」
「黒革、知事……!」
「他人行儀はよせ……黒革さん、でいいじゃないか」黒革はミロへつかつかと歩み寄り、フードを剝ぎ取る。「いやはや美形だないつもながら。医者なんか辞めて、俳優になったらいい……いや、こっちの話だ。どうだ、その後……新しい調剤機は、役に立ってるか?」
「そのっ、調剤機の件は、御世話に」
ミロは、眼前の男が放つどす黒い気配に耐えかねて、一刻も早くそこを離れたがった。
「医院に、姉を待たせていて。早く、帰らないと」
「勿論だ。忌浜きっての名医の時間を無駄にはできん。ましてそれが、忌浜自警団長、猫柳パウーの治療のためとなればな」
黒革は、視線を決してミロから外さず、その低く落ち着いた声で続けた。軽薄な口調とは裏腹に、全く、笑い顔を見せない。
「しかし、考え方の問題もある。どちらが、無駄か? オレと、ナッツでもつまみながら、一番強い漫画の主人公について議論するか。それとも……どうやっても治らない姉のために、気安めにむなしく手を尽くすか?」
「……っ!」
ミロは自分の聖域にずかずかと踏み込まれて、その優しい眼にありったけの憎悪を込めて黒革を睨みつけた。しかし、ミロの中の恨みをいくらかき集めたところで、黒い海のように広がる黒革の深淵に、波紋ひとつたてることはできなかった。
「いい加減、聖人君子の真似事はよせ、猫柳……。」
黒革は、そこではじめて口の端を歪め、(それが笑顔と呼んでいいものならば)笑った。
「お前の行為は美しく、そして無駄だ。いくらお前が下町で奮闘しようが、金のない人間は死ぬ、さっきのガキもだッ! 無残に、この街にいたぶりつくされてな……!」
ほとんど泣きそうに引きつるミロの胸倉をひっつかみ、黒革が顔を鼻先へ近づける。
「県庁に務めろ、猫柳……! お前の技術があれば、県外からいくらでも患者を呼べる。金が、いくらでも入る……サビツキの、アンプルも買える。そうすれば……」
そこで、ミロの潤んだ瞳が、わずかに惑ったのを、黒革は見逃さなかった。
「お前の姉も、助かる……」
その、声の終わり際であった。
ネオン輝く大通りの映画館から群衆の悲鳴が響く。それとともに大量の客が流れ出てきたかと思うと、ネオンの『CINEMA』のEとMの間あたりを突き破って、巨大なキノコが、ばがん! と、咲き誇ったのである。
「知事!」
「何ぃ……?」
ミロを押しのけて、咄嗟に黒革の周りに群がる親衛隊達。
キノコは映画館、干物屋、屑屋、娼館と次々にその屋根を突き破り、色とりどりの傘から胞子をそこらじゅうに降らせ、人々に悲鳴を上げさせた。
そのキノコの傘の上を、素早く跳ね飛びながら、闇から闇へ駆けてゆく人影がある。人々は、ふとすれば幻のようなそれを指差して、
「き、キノコ守りだ」「キノコ守りが街に!」「胞子を吸うな、錆びるぞーっ」
などと思い思いに叫び散らし、逃げ惑い、大通りは瞬く間に大混乱に陥った。
その人混みをかきわけるようにして、大柄なウサギ面が、その脇に煤まみれの同僚を抱えて、黒革へ歩み寄ってくる。
「ちょっと! 離せよっ自分で歩くってば、ぎゃっ! 変なとこ触るなっ!」
抱えられた一際小柄なそのウサギ面は、高く可愛らしい声で、口汚く周囲に罵詈雑言をがなり立てながら、黒革の前にドサリと投げ出された。
「いってぇな! 少しは女の……あ、あはは、黒革のおじさま……その帽子、すてきですね」
黒革が感情のない顔で、そのウサギ面の耳を引っ摑み、乱暴に剝ぎ取る。
「ぷあッ!」
脱げるマスクとともに、三つ編みが跳ねて左右の耳の前に垂れた。
額と襟足を短く揃えた桃色の髪は、派手なくらげを思わせる。小狡そうな顔には、しかし猫のような金色の眼がきらりと光り、外見だけなら、なかなか可愛らしい少女である。
「えっと、そのお……例の、赤星、なんですけどお」
上目づかいに愛嬌を作るも、黒革の圧によって染み出した汗が、細い首を伝ってゆく。
「あの、えへへ、し、仕留めそこねちゃいまして……街に、入られちゃって」
「見りゃわかるよ、バカ。軍用機使って、人の一人も殺れないのか?」
「あ、相棒のじじいは、仕留めたはずですっ、機銃を直撃させた……げほっ、げほ!!」
黒革が顎で合図してやると、ウサギ面の一人が水の瓶を渡してやり、桃色髪のくらげ少女は貪るようにそれを飲む。
「……げふっ。問題は赤星のほうですよ。あんなの無理、話が違うもん! たかが弓相手って言ったって……エスカルゴの、どてっ腹に穴開けてのける弓ですよ。あんなの、もう、弓って言わないでしょ。雷とか、稲妻って言うんじゃないですか?」
「……おい、本気で言ってるのか? 赤星の矢は、エスカルゴを落とす威力があるのか?」
興味深そうに顎髭を撫でる黒革へ、近くの親衛隊が耳打ちする。
「あの様子では県庁から北へ抜けるつもりです。追って仕留めます」
「自警に先を越されると面倒だ。パウーに捕まる前に殺せ」黒革は言いながら、ふと言葉を止めて、やや考えた後、呟くように続けた。「……県庁へ、ねえ? ……。二隊へ分ける。県庁方面は七割、残りの三割には、下町を探させる」
「下町を、ですか」
黒革に、ぎろり、と一瞥くれられて、ウサギ面は怯んだように一礼すると、曲芸師のごとき身軽さで大通りの建物に跳び上がり、点々と続くキノコの後を追っていった。
「あのお。保険は、出るんですよね? あたしのエスカルゴ、あれ、私物なんですけどお」
「勿論だとも。香典に添えて出す」黒革は懐から拳銃を取り出して、少女へ放ってやる。「お前はそのまま下町のほうの指示へ回れ。二十人ぐらいつける」
「え、ええッ!? あ、あの赤星と、生身で、やれってのお!?」
「おいおい。給料は受け取っただろ。契約違反で絞首刑より、マシだと思うんだがなあ」
くらげ少女は一度強く唇を嚙んで、「ゴロツキめ……!」と小さく呟き、その身体を奮い立たせて下町へ走ってゆく。数人のウサギ面が、通行人を撥ね飛ばしながら後を追っていった。
「人事も、考えて人を雇えよ、全く……で、オレのお気に入りは、どこ行っちゃったんだ?」
黒革の言うそのミロはといえば、黒革の注意が逸れたのを幸いに、惑う民衆の隙間をすり抜け、すでにその魔手から逃れていた。去り際にミロは一度だけ振り返り、遠くからでも黒く吸い込むような黒革の視線を慌てて引き剝がして、大通りの突き当たりを右に折れていった。
「知事。追いますか」
「んや。ほっときな」口元を楽しげに歪めながら、黒革が言った。
「すこおし、からかっただけだ。にしても、あーあコレ」
黒革は振り返って、今やキノコまみれで屋根がめちゃくちゃの、お気に入りの映画館の惨状を眺め、「くくく」と喉の奥で笑った。
「やってくれたよなァ。明日から『スターウォーズ』の、シリーズ連続上映だったのに」
「……SF映画、ですか?」
「まあ、いいよ」機嫌を取って話を合わせようとした親衛隊に一瞥もくれず、黒革は帽子を被りなおし、歩き出した。「しばらくは、仕事のほうが……楽しくなりそうだしな」