気絶した弟の美しい顔を眺めて、その瞼を撫でるパウー。ポケットの通信機から警報が無粋に鳴れば、その内容すら聞かずにパウーは駆け出し、制服の裾をはためかせて、医院の玄関から外へ飛び出していった。
「……弟に、当身くらわす、姉なんて。聞いたことないよ!」
ミロが目覚めるまでに、さほど時間はかからなかった。開け放たれた医院の玄関を見て、パンダ医院の院長は物憂げにため息をつく。
確かに現状の投薬治療では、姉の症状には気休めにしかならない。パウーはそれを知った上で、弟のために残りの命を捧げているところがある。決定打になるような強力な抗体アンプルがなければ、医院に姉を引き止めることもままならないのだ。
(……でも、今日は!)
ミロは調剤室に駆け込み、二重に鍵をかけると、コートのポケットを漁った。
先のキノコテロの隙間をうまく立ち回って、目ぼしいキノコをいくつも採集してきたのである。色とりどりのキノコのかけらを机の上に並べて、ミロは目を輝かせた。
「見たことない、種類ばっかりだ……! これだけあれば、きっと!」
何やら使い込まれた、革張りの四角い鞄を机に置き、複雑な鍵を外してそれを開ければ、太い三本のシリンダから配線を複雑に伸ばす、無骨な調剤機構ががしゃりと立ち上がる。
加熱機に火を入れて、シリンダに手近なキノコと溶剤を入れたミロは、そわそわと慌てたような手つきでそれをかき混ぜはじめた。
県知事・黒革からの脅迫通り、ミロが姉を救うためには、政府支給のサビツキアンプルを継続投与する必要があり、莫大な金がかかる。到底、町医者のミロに捻出できる額ではない。
ただそれはあくまで、正規の手段で、としてのことではある。
ミロが行っているのはまさにその『サビツキアンプルの調剤実験』であった。国家機密製法の解明を無許可で試みることは、第一級の反逆罪であり、そもそも高度な薬学知識なしでできるものではない。
ただ、このパンダ痣の少年医師に関して言えば、これは天才である。
ただ唯一の肉親、姉のサビツキを治すその一心で行っている調剤実験は、長い時間をかけて無数の素材を試し続け、とうとう、世間一般の禁忌、錆の元凶とされる『キノコ』にそのヒントを見出したのであった。
「……できた。これで、どうかな……?」
薬管の中で、緑色に輝く粘性の液体が、こぼこぼと泡を立てた。手の甲に垂らしたそれの香りを、すん、と一度嗅いで、ミロは満足げに頷く。
(風を、ちょっと入れよう)
湿っぽい七月末の夜である。袖で額の汗を拭って、窓に歩み寄り、ふと。
(……開いてる……?)
夜風が吹き込み、空色の髪を撫でた。夜のわずかな光が窓から射し、カーテンが風に揺れている。ミロはわずかな違和感を覚えながら、静かに振り返って、
『ぎらり』
と、何者も竦ませる殺気のようなものに射すくめられて、総毛立ってそこに立ち止まった。
(……、……何か、いる!)
暗闇の中に、ぎらりと光る二つの緑色の光が、じい、っとミロを見つめている。殺気と興味をないまぜにしたその視線は、ミロの目線を真正面から捕まえて離させず、釘付けにし続けた。
「……。」
(……。)
「……シメジなんか調剤しても、大した薬効はない。食ったほうがマシだ」
「……っあ……!」
「調剤が、できるな? お前」
ずい、と、大股で歩み寄ったそれが、夜の明かりに照らされ、吹き込む風に赤い髪を躍らせた。まるで野生の獣のような威圧感に、ミロは身動きひとつままならない。
「ん」
「……え。え?」
「ヒソミタケだ。治癒力はこれが一番強い。調剤してくれ」
赤髪の男は、手に持った紫色のキノコをミロの胸へ押し付け、尊大に言い放った。
「名医なんだろ。三人脅したら、三人ここを推したぞ」
「だ、だめですよ、無許可の調剤は、は、犯罪でっ」
「今、してたろ」
「あ、う……!」
「時間がない。次、つべこべ言ったら、悪いけど、殺すぞ」
ざらついた声に滲む、ほんのわずかな苛立ち。ミロはその語気にぶるりと、震え……
ふと、その男の背後に、別の存在の匂いを嗅ぎ取って、言った。
「サルモ腐食弾の匂い……エスカルゴに、撃たれた? ダメだ、直に包帯なんか巻いたら……!」
「何だと……?」
「投薬だけで治そうなんて、考えが甘すぎます!」先ほどまで恐怖に喘いでいたミロの表情が、徐々に真剣な、医師のそれへ変わっていく。「サルモ弾の処置で半端をすると、腐食が残るんだ。薬だけじゃだめです、すぐ、手術をさせてください!」
「つべこべ言ったら、殺すと言ったよな」
「殺されるまで言います。そのままじゃ、そのお爺さんが、死にます!」
俄かに気勢を取り戻したミロを見て、赤髪の男は眼を見開き、見た目にも生っ白いガキと侮っていたであろうパンダ男の慧眼と度胸に、少し驚いたようであった。光のない部屋で、壁際に寝かせてある自分の連れが老人であること、僅かな火薬の香りから弾の種類まで言い当ててのけたのは、やはり意外なことであったらしい。
赤髪は少しの間考え込むように顎を搔き……やがて一度頷いて、言った。
「……うん、わかった。でも調剤が先だ。何分かかる?」
「材料によります、少なくとも、二十分は」
「十分でやれるな」赤髪は机に座るミロを見届け、窓から医院の周囲を窺う。「……県庁の方へ、陽動はしたはずだがな。妙に警戒が強い。こいつら、自警じゃないのか?」
ばぎゅん! と、呟く赤髪の言葉を遮るように、一発の銃弾が窓から飛びこんでドアに風穴を開けた。
赤髪は咄嗟に壁に寄りかかる老人を抱き抱えて、ミロの居る机のほうへ跳ぶ。その爪先をかすめるようにして、無数の銃弾が窓付近の壁に穴を開け、蜂の巣にしてしまう。
わあっ、と思わず声を上げるミロに、赤髪は人差し指を立ててみせ、軽く首をかしげた。ミロが、わけもわからぬままに口を結んで押さえ、とりあえずこくこくと頷くのを見て、赤髪は何が面白いのか、不敵に表情だけで笑った。
獰猛そうに光る白い犬歯が、どきりとするほど鮮やかに、その時のミロの視界に焼きついた。
『赤星ィッ、赤星ビスコーッ! キノコテロ前科二八犯を鑑み、抵抗するなら殺せって、忌浜知事様のお達しだーッ! 蜂の巣になる前に、投降しろ───ッ』
外からの拡声器越しの怒声に、その赤星ビスコが怒鳴り返す。
「人質が居るのに、考え無しで撃ってんじゃァねーッ! ボケども!」一度、ミロへ目配せして、ビスコが続ける。「次、撃ちやがったら、このパンダ先生の首、もぎ飛ばすぞッ!」
示し合わせたことといえ、その言葉に思わず身震いするミロ。二秒、三秒。返答のない外の様子を窺おうと、ビスコが身を乗り出した瞬間……
ばががががが!
無数の銃弾が嵐のごとく壁を貫き、調剤室に大小無数の風穴を開ける。老人と、悲鳴を上げるミロを抱えて跳ね飛んだビスコは、そのまま調剤室の鍵付きのドアを蹴破って、その先の待合室に転がり伏せた。
「迷い無しで撃ってきやがったぞ。医者のくせに、人望のねえ奴だな」
「そっ、そんな……」
しょげて俯くミロの胸には、土壇場でも手放さなかった調剤機がしっかりと抱かれている。
「じき、踏み込んでくるな。悪いんだけど、病院、ちょっと、吹っ飛ばすぞ」
「はい、…………え!? い、いま、何て!?」
「ジジイ持ってて」