ビスコは意識を失っている老人を、へたりこんでいるミロへ放った。思いがけないほど軽い老人の身体をミロが受け取る間に、ビスコは背中から抜きはなった弓に赤褐色の矢を番え、先のドアへ向けて一弓、続けて医院のあちこちへ向けて二弓、三弓と撃ち放った。ほどなくして、壁に突き立った矢の付近から鮮やかな赤色のものがふつふつと湧き出し、ばき、ばき、と天井や柱を砕き始める。
「おし。行こう」
「あ、待って! 車椅子があります! せめて、この人を……」
「だめだ。もう咲いちまう」
「咲く……?」
「「突入ゥ───ッッ!」」
玄関のドアを破って、重武装の覆面の大男達が一斉になだれ込んでくる。ビスコが戸惑うミロをひっ抱えて窓を蹴破り、医院を飛び出した、その瞬間、
ばっ、がん!
凄まじい轟音とともに、医院から巨大な赤いキノコが伸び上がって、建物ごとぶっ貫いて咲き誇った。キノコがすくすくと傘を広げると、その上から建物の瓦礫がばらばらと溢れ、地面に落ちて砕ける。突入してきたウサギ面たちは、キノコの咲く勢いそのままに、口々に悲鳴を上げて空へ舞い上がった。
「き……キノコ……!」
ビスコに抱えられて忌浜の街の屋根を跳ね飛びながら、ミロは眼前の光景に、半ば陶然と見惚れた。つい先まで何もなかったその空間に、巨大なキノコが赤々と咲き誇り、今なお天へ伸び上がっている。この、死の風の恐怖に覆われた現代にあって、これほど強力な生の奔流を目の当たりにするのは、ミロには初めての経験であった。
(きれいだ)
不思議と吞気にそんなことを思いながら、ミロはふと、空中に跳ね飛んだ「パンダ医院」の看板が、地面に吸い込まれていくのを見つけ……徐々に、その表情を引きつらせてゆく。
「あ……ああ────っっ!」
「なんだよ。うるせえな」
「びょ、病院っっ!」
「うん」
「僕の!」
「だから、そう言ったじゃねえか」ビスコは悪びれもせずに、首を一度こきりと鳴らして、ばたばたともがくミロを屋根の上へ下ろしてやった。
「悪かったけど、しょうがねえ。ああしなきゃ、お前だってくたばってた」
あんまりにも尊大なビスコの物言いにミロも二の句が継げず、ただぱくぱくと口を動かすのみだったが、ビスコが素早く自分の身体を倒して屋根へ伏せさせれば、空中を舞うヘリのサーチライトが、危うく二人の身体すれすれを通り過ぎる。
「動くな」
鋭い囁きに、ミロは恐怖に細かく頷くばかりで、とても文句を言うどころではない。
ビスコは屈んだまま数本の矢を口に咥えると、遠く東側の街へ向けて弓を引き、続けざまに矢を撃ッぱなした。矢は特大のアーチを描いて、遠くのビルの壁へ突き刺さり、ぼぐん! ぼぐん! と轟音を立てて真っ赤なキノコを咲かせる。
囮のキノコへ、ヘリのサーチライトが一斉に向かうのを、目で追って……
「すぐばれる。行くぞ」
ビスコは一言呟き、老人とミロを同時に抱えて路地裏へ着地する。そして下水道へ続くマンホールの蓋を持ち上げてミロをその中に転がし、自分も老人を抱えてそこへ滑り込んだ。
「危ねえとこだ」
マンホールの上を通過する無数の足音に聞き耳を立てて、ビスコが呟く。
「面倒だな。県庁の特務部隊みてえなのが出てきやがった」
下水道の中は、ややカビ臭い匂いが鼻をつくものの、さほどの悪臭もなく、等間隔に設置された白色灯のおかげでけっこう見通しもきいた。ビスコは先ほどからやけに大人しい例のパンダ医師が気になって、その様子を窺いに梯子を下りていく。
(……。)
ミロへ歩み寄ろうとして、ビスコはその少し手前で歩みを止め、目を細めた。外套と白衣が冷たい下水道の足場に敷かれ、その上に服を脱がされた老人が、身体を横たえられている。
傍らでは、ミロが真剣な眼差しでその身体を見つめ、脈を取り、身体を触診している。その表情は、先ほどまでビスコの腕で震えていた少年とは思えない、真剣なものだった。
「どうだ」
「六発……二度、即死する威力です、普通なら」ミロはやや興奮気味に、ビスコを振り返りもせずに言う。「どういう人なんだ……!? この怪我で、呼吸も、脈も変わってないなんて……」
「助かるか」
「この、アンプル次第です」ミロは大事そうに抱えていた調剤機から、紫色の薬液に満ちたアンプルを取り出し、それを明かりの中へかざした。
「切開して、弾と、腐食を取り除きます。その後……これを打って、この人の身体が持てば」
ビスコはしばらく、ミロのその横顔を眺めていて、どうやら何かに納得したようにひとつ頷いて立ち上がった。それへ、慌ててミロが追いすがる。
「ま、待って! どこへ行くんです!?」
「ここにただ居るだけだと、すぐ囲まれちまう。ちょっと行って……連中を撹乱してくる。その間に、ジジイを頼む」
「駄目ですよっ!」
女みたいな優男が、予想以上に声を張ったので、ビスコも少し驚いてその顔に向き直った。ミロはじろじろとビスコの顔、首を眺めた後、その細腕で外套を剝ぎ取りにかかる。
「な、な、何しやがる、てめえ!」
「そんな、ひどいケガで。自殺しにいくつもり!? 処置します、そこへ座って!」
「俺はいいんだよ、バカ! ジジイを治せ、おいッ手を離せ」
「よくない! こんな血塗れの人、放っておけるわけないでしょう!」
もみ合いの末に荒い息をつきながら、ミロはその優しい目に「ぎん!」とできる限りの意志をこめて、ビスコを睨んだ。
「じゃあ、せめて! せめて、顔のケガは縫います! さっきから、血がずっと目に入ってる。それじゃ、出てっても、そのまま死んじゃいます!」
その妙な気迫に、思わず怯むビスコの返答を待たず、ミロは無理矢理そこへ座らせると、懐から取り出した医療キットをそこらへ広げる。
改めて見るビスコの顔は、その印象から元気そうには見えるけれども、切り傷やら擦り傷やらでいっぱいで、額の深い切り傷から左目に血が入り続けていた。
ミロは慣れた手付きで、ところどころの血ぶくれを熱メスで切って血を抜き、一際深い額の傷を素早く縫いとめる。軟膏を塗って、包帯はビスコが犬のようにして嫌がったので巻けずじまいだったが、それでも一応の処置を終えて、額に浮いた汗を袖でぬぐう。
そこでようやく、その童顔を輝かせて、にこり! と、笑った。
「はい! おしまいです!」
「……。」
「……あの、痛かった、ですか?」
「お前、名前は」
「あ、猫柳……猫柳、ミロです」
「ミロ。その」
ビスコは、自分を不思議そうに見つめる、その丸い青色の瞳としばらく目を合わせていて、そこで言うべき言葉を探して何度も逡巡し、
「ありがとな」
なんとかぶっきらぼうにそう言い切って、さっさと立ち上がり、梯子に足をかけた。
「あ、あの!」
「うるせえな、何だ!」
「患者さんの名前を、まだ」
ミロは、目の前の少年に命まで脅されたことをすっかり忘れて、問いかける。
「それに……あなたの、名前も……」
「そこのくたばりかけは、ジャビ。俺は……」
「……。」
「……ビスコ。赤星ビスコだ」
そこでビスコは梯子の上から、もう一度、ミロを見下ろした。
緑色と、青色の瞳が、お互いを引き合う不思議な何かを、探るようにして見つめ合った。しばらく二人はそうしていて、やがてふと、ビスコのほうからその視線を引き剝がし、そのままマンホールを開けて忌浜の夜へ飛び出していった。
「……赤星。ビスコ……。」
ミロは、その、吹き抜けた赤い嵐のような少年の名前を口の中で呟いて、しばらく明かりに揺れる下水の水面を見つめていた。そしてほどなく、夢から覚めるようにハッと息をついて、慌ててジャビの元へと駆け寄っていった。