「動くな」
うなじにひやりとした殺気を感じ、ビスコは思わず動きを止めた。
「人質を置いて、諸手を上げろ」
背後から狙われているらしい。熟練の敵の気配に、ビスコの表情が引き締まる。
パウーとの戦いでずいぶん時間を稼がれてしまい、他の自警団員が集まる気配を感じ取ったビスコは、蜘蛛の巣のような下町の道を走り、ジャビを置いてきた地下道へ急ぐ途中であった。
保険に、人質として眠るパウーの身体を抱えてはいるが、どうやら自分を狙う気配は相当な手練れのもので、小手先の駆け引きが通用する相手とは思えない。
ビスコは言われた通り人質を置き、ゆっくりと両腕を上げて……
だん! と、地面を蹴り砕いて飛び上がる。飛び上がりざまに引き抜いたとかげ爪の短刀を閃かせ、ぎゅるりと身体を捻り、殺気の主の首元めがけ振り抜いた。
ぎいん!
必殺の一刀を防いだのは、同じくとかげ爪の短刀であった。
短刀越しの覆面顔にぎょろりと光る眼を見て、ビスコは叫びかける自分を慌てて抑える。
「……っ、あ……!」
「ウヒョホホ! 病み上がりのジジイに、容赦ないのォ」
「ジャビっっ!」思わず目を見開いて、叫ぶビスコ。覆面を剝いでげらげらと笑う師匠に、ビスコははじめ言うべき言葉を見つけられず、口をぱくぱくと動かすのみであった。
「う……動けるのか!? 傷はどうした!?」
「んやあ、この通りよ。弾ァ六発、入っとったらしいぞい」
ジャビは言いながら、服の腹のあたりを捲り上げて、その縫い傷をビスコに指し示した。
「……てめえ、くそじじいっ! 結局、死に損なうなら、最初から元気にしてやがれッ!」
「ばかいえ、あんなん死ぬと思うわい。あのパンダ小僧の腕がなかったら、ワシもここまでじゃったろな。でもさあ、生きてるワシもワシで、すごくない?」
「……ばかやろう……あんな、遺言みたいな事、言うから。俺はっ……!」
強面をくしゃりと崩し、こみ上げるものを必死で堪えるビスコ。
猿のように裏路地を跳ね駆けるジャビを追いかけて、そこでようやく追いついてきたミロは、そのビスコの表情を目の当たりにして、思わずびくりと立ち止まった。
人喰い赤星の流す涙は、この凶暴なキノコテロリストの胸の奥に息づく、暖かく少年らしい優しさをミロに感じさせ、その頰をわずかにほころばせた。
「……ミロ。お前、やってくれたのか」
「いえ! できることをしただけです。赤星さんの、アンプルが効きました!」
「恩人に義理を返すのはキノコ守りの掟だ。俺にできることは、何でも言え」
「そんな、僕はただ……」
ミロは照れくさそうにビスコから視線を少し逸らして、すぐ近くに倒れている、長髪の女戦士に眼を止める。
「……ああっ! パウー!」
「知り合いか。やっぱ」ビスコはひとつ頷くと、女の身体を助け起こして、壁に寄りかかるようにしてやった。「すげえ暴れっぷりだったから、眠り毒を嚙ませてあるけど、寝てるだけだ」
「姉です。……眠り毒、って、赤星さん、勝ったの!? パウーに!?」
「こいつのサビにはまだキノコが効く。さっき、ジャビに打ったのを使え」
ビスコが言い終わる前に、ジャビがひょこひょこと歩み寄って、余ったヒソミタケのアンプルをパウーへ注射してやった。紫色の薬液が、錆びた肩口から身体に吸い込まれると、パウーは少し眉を寄せたが、ほどなくして静かな、楽な呼吸に戻ってゆく。
「っす……すごい……!」
キノコ守りの知識が作るアンプルの薬効は、ミロの才覚をもってしても調剤できたことのない、素晴らしいものであった。これまで苦しみを抑えつけるようにして眠っていた姉の、その安らかな寝顔を見て、ミロは自分の心に新しい決心が湧き上がるのを感じる。
「ビスコ。ぼーっとしてられんぞい。自警のイグアナ騎兵がこっちまで迫っとる、もう五分とかからんぞ。次、囲まれたら、流石に抜けきれん」
「わかった。北門はすぐだ。行こう!」
「うん。ワシが食い止めとく。行ってきんしゃい」
「おう、……ああ!?」
ビスコは駆け出そうとして、師匠の思わぬ返答に振り返った。
「何だ、食い止めるってのは!? てめえが来なきゃ、意味ねえだろ!」
「ちったあ考えろい。弾六発抜いたばっかりの老いぼれが、すぐ旅に出られるわきゃ、ねえだろう」
「考えるのはてめえだ、ジジイ! 調剤をどうする!《錆喰い》を採ったって、その場に、調剤できる奴がいねえと……!」
ジャビは白髭を撫でながら、いたずらっぽい眼で、ついと目線をビスコの横へ投げてよこす。
ビスコが、ゆっくりとジャビの視線を追いかける、その先に、緊張に身を固めて立ちすくむ、童顔のパンダ医師の姿があった。ビスコの視線を受けてミロは一度ごくりと固唾を吞み、それでも一生懸命に、その眼を逸らさないように受け止めた。
「っ、ボケたか、ジャビっ!」
「赤星さん! 僕も! 僕も、連れていって下さいっ!」
袖にすがりつくミロの思った以上の力に、ビスコはそれを払いのけることもできず、ただ驚愕に口を開いた。
「ッは、離せッてめえ、ジジイから何か、吹き込まれたなっ」
「聞きました、《錆喰い》のこと! お役に立てますっ、調剤もできる、貴方の傷も治せます!」
「バカ野郎っ、お前みたいな、ちょっと目離したら死んでそうな奴、誰が連れていくかよッ」
「いま、何でもお願いを聞いてくれるって、言ったばかりです!」
「俺はランプの精じゃァねェんだよォッ」
ビスコはそこで眼を剝いて、烈火のごとくミロに怒鳴りつけた。
「お前みたいな都市育ちのガキが生きていけるほど、壁の外は甘くねえんだッッ! その生っ白い腕の一本二本で、済む話じゃねえんだぞッ」
「それが、なんだ!」
ミロは勇気を振り絞り、その目に力をみなぎらせて、叫び返した。