「彼のプライドと、僕の首の骨の、どっちが先に折れるかってこと?」
「予想以上に、口の減らねえパンダだなあ」
ビスコは腕を組んで少し考え込んでいたようだったが、のんびり近寄ってきたアクタガワの、その肩の荷袋とミロの白衣を見比べて、ひとつ頷く。
「いずれにしろ、アクタガワに乗れなきゃ、炭鉱も通れない。よし。まず、形からだ。……そういや、アクタガワ、医者は嫌いだった」
キノコの菌糸を馴染ませた、ヒトデ革のズボンとチュニック、マムシ革のブーツ。腰回りには、キノコ毒の薬管を挿したアンプルサックと、とかげ爪の短刀を二本、雑多な道具を詰め込んだポーチが二つ。刀の鞘のようにしてベルトへ矢筒を差し、使い込んだなめし茸の外套を首から羽織れば、それが全身を錆の脅威から守る、いっぱしのキノコ守りの正装である。
ミロにこの一式を着せてやれば、白衣の時より幾分精悍に見え、ビスコから見ても存外、馴染んでいる。
実際のところ、ミロもビスコが思っていたほど虚弱なわけではなく、幼い頃からのパウーとの鍛錬のおかげもあって、蟹に乗るための体の基本はできている風ではあった。
それをその通り伝えてやると、ミロは満面の笑みで喜んで、アクタガワへ飛び乗り……
かれこれ三時間。
「うわああ──────っっ、止まって────っっ!!」
もう、何度目かもわからないミロの悲鳴が、広い浮き藻原にこだまする。
ビスコは拳大ほどの鉄壺を焚き火にかけながら、ミロを横目に見てアドバイスを叫ぶ。
「曲がるとき、ビビって逆に体重かけるから、アクタガワが怒るんだ! そいつを信用しろ、動きを強制するな」
「そりゃ、言ってることは、わかるけどーっ!」
「なら、あとは慣れだ。平気だ、お前の首の骨が勝つ……たぶんな」
ミロは、何度も地面に放り出されて泥と擦り傷まみれの顔に汗を滴らせて、それでもアクタガワの鞍に華奢な身体で這い上がると、なんとかもう一度手綱を取った。
(す、少しは、ちゃんと……隣で、教えてくれてもいいのに!)
ずっと遠くで何やら火を焚いている、あんまりにも放任主義なビスコをうらめしげに横目に見つつ、ふと、ミロが前に視線を戻すと。
何やら大荷物を背負った、小柄な行商人が道をてくてくと歩いているのが、すぐ眼前まで迫っていた。ミロは慌てて手綱を引きしぼり、大声で叫ぶ。
「うわっ! 人! 人がいるってば! アクタガワ、ストップ、スト──ップ!」
アクタガワの急ブレーキとともにミロは前方へすっとび、危うく石道に叩きつけられるところ、漂っていた浮き藻のひとつにぼふんと抱きとめられて、かろうじて勢いを殺して着地した。
「い、痛ったああ……! あ、アクタガワ、速すぎるよ……!」
ミロは打ち付けられた脇腹を摩りながら、先の商人の安否に思い当たって、慌てて跳ね起き……ようとして、自分の様子を覗き込む、小柄な少女と目を合わせた。
「あ、目え開いた。死んじゃったかと思った」
「っあ、ごめんなさいっ! ど、どこか、怪我しませんでした?」
「それ、こっちの台詞だよー? まあ、いっか」
商人はミロににやりと笑いかけ、背後のアクタガワの威容を振り返った。
「きみさあ、すんごい蟹、乗ってるね! こんな立派なの、あたし、初めてだなあ」
懐にするりと飛び込むように白い肌がすり寄り、金色の瞳がミロを見上げた。目に痛いようなピンク髪の、小柄な少女である。揺れる三つ編みが、深海で踊るクラゲを思わせた。
「よく見たら、か~わいい顔してる! ねえ、パンダくんって呼んでいい? こんな蟹、買えちゃうぐらいだから、稼いでるんでしょー。ねえねえ、奥さんいるの?」
耳元で囁かれる少女の声に、ミロはぶるりと震え、慌てて首を振った。
「わ、わあっ! 違います、アクタガワは僕の蟹じゃないんです! 相棒の……その、友達で」
「なあんだ、連れがいるの? ちぇー、つまんねー」
くらげ少女はあっさりとミロから離れて、アクタガワを見つめながら思案するように、耳の前の三つ編みをぐりぐりと指で遊ぶ。そして……憮然とした顔を、一瞬でにこやかな笑顔に変えて、不思議そうに自分を見つめるミロと目を合わせた。
「ねえ、パンダくん。こんな大蟹にさ、ただ乗って慣れようとしても身が持たないよ。乗りたてのころは、眉間のあたりに柚子の香を焚いてやるのが普通なの。そうすりゃ蟹だってリラックスするから、自然と、ご主人に懐いてくれるんだよ」
くらげ少女は懐の革バッグから黄色い瓶を取り出すと、その細い指で、ひらりとミロの前にかざしてみせる。蓋を開ければ、山柚子の爽やかな香りがそこから漂った。
「えっ! や、やっぱり、そういう方法があるんですね!」
「常識だよう。こんな無茶して、綺麗な顔に傷つけたらもったいないよ。ちょうど、香が余ってるからね。あたしがちょっとばかし、手本を見せてあげる!」
「わあ、本当ですか! あっ、でも今あんまり、持ち合わせが……」
「くふふッ……お金なんか取らないって!」猫みたいな金色の瞳が、にい、と笑った。
「困った時はお互い様。こんなろくでもない世界でしょ……あたしは、人情だけは大事にするって、決めてるの!」
その、アクタガワから半キロほど離れて。
ビスコは油断のない顔で、目の前の鉄壺を見つめている。くつくつと弱く煮える赤い液体に、頃合いを見て何やら緑色の胞子を少し、足す。しばらく様子を見た後、鉄の鏃を慎重に、一枚ずつ浸してゆく。
ミロのそれと比べ、極めて原始的に見えるこれが、いわゆるキノコ毒の調剤である。
傍目にはシンプルでも、少しでも加減を誤れば、調合中のキノコ菌が一気に発芽して大事故に繫がってしまうため、非常に繊細かつ危険な作業といえる。
特にビスコの調合するキノコ毒というのは、発芽威力を極限まで高めたとんでもなくピーキーな代物が殆どで、本人か師匠のジャビでもなければ、触れることすら危険であった。
危険度の見返りに、ビスコのキノコ毒は素晴らしく高品質で、独創的かつ豊富な種類も持ち合わせている。特にエリンギなんかは、発破ダケの発芽力にタマゴタケの弾力性を合成し、強力なジャンプ台として機能させた、ジャビをして唸らせるビスコの代表作である。
一方で、人間や蟹を癒したり、病を回復させるキノコアンプルについては、ビスコは才能のかけらも持ち合わせていなかった。薬は毒と違い、人体に効果的に作用させるための繊細なバランス感覚が必要で、いくらジャビがそのあたりを教えても、心肺の停止しかねない極端な薬ばかり出来上がるのである。これについてはジャビは早々にこの分野に見切りをつけ、それ以上のキノコ薬学はビスコに教えていない。
ビスコは菌が落ち着いた頃合いを見計らって、浸した鏃を壺から鉄箸で拾い上げ、試しにそこいらに生えた大木に向けて、鏃を素手でぶん投げた。
ばぐん、ぼぐん、ぼぐん!
鏃の刺さった大木から、連続的に赤く綺麗なキノコが咲き、平たく薄い傘をゆっくりと広げ、ふわりと胞子をばらまいた。骨炭の鉱脈も食い破って咲く、赤ヒラタケの毒である。
「……うーん。まあ、いいか」
ビスコは自前のキノコ毒の出来にとりあえず納得すると、焚き火を消し……
「うわ─────っっ! かに泥棒────っっ!」
しばらくぶりのミロの悲鳴を聞き流そうとして、その内容に、ぴく、と身を固めた。
「かにどろぼう……??」
思わず声のほうを見れば、方向も定めずめったやたらに走り回るアクタガワ、その鞍に、見知らぬ大荷物の少女が座っている。ミロはといえば、アクタガワの巨大な左のハサミに捕まって、ぶんぶんと上下に揺れている。
「だ、騙したなっ! 手綱を離せよっ、アクタガワ、返せーっ!」
「人聞き悪いなあ! パンダくん、悪いのはあたしじゃなくて、世の中なの! いいから諦めて、手ぇ離しなってば!」
当人達が必死なのはわかるのだが、遠目にはなんとも間の抜けた絵面ではある。
「……何、やってんだ、あのバカ!」