大体の状況を察したビスコは、背中の弓を抜き放って、ぱしゅん! と一弓放ってみせる。
ビスコの矢は、走るアクタガワのちょうど鞍あたりの高さを漂う、大きな浮き藻に突き刺さって、ぼぐん! と、一瞬で勢いよくシメジの群れを咲かせた。
「ぎにゃッッ!」
くらげ少女はシメジの凄まじい発芽の威力に、潰れたような悲鳴を上げて吹っ飛んで、アクタガワから転がり落ちた。それに追い打ちをかけるように、ビスコの二の矢、三の矢が少女すれすれの地面に突き立っては、爆発するシメジで少女を逃げ惑わせる。
「誰の蟹に、手ェつけてんだ、コラ! そのまま、餌になりてえかァッ!」
「ぎゃーッ! わーッ!」叫び散らすくらげ少女の逃げ足はすさまじく、ビスコの脅しが聞こえたのかすらわからないほど、すでにはるか遠くへ走り去っていた。
ほどなくして、鞍に主人を失ったアクタガワが、ビスコの元へゆるりと走り戻ってくる。
ビスコの前で、ようやっとアクタガワの大鋏から転げ落ちたミロは、泥や浮き藻ですっかり汚れた顔を拭い、ごほごほと咳き込んだ。
「この、バカ! 何がどうなったら、あんな……」
ビスコはミロに怒鳴りつけ……ようとして、それはもう見るからにすっかりしょげかえって俯く、生傷まみれのミロの顔を見て、そのあまりの不憫さに何も言えなくなってしまった。
「び、ビスコ、ごめん、僕……!」
「いい! 謝るな。……今日はもうお前が持たねえ。先に進もう」
「だ、大丈夫! 時間がないよ、はやく、乗れるようにならないと……」
「その、産まれたての鹿みてえな足でかよ。訓練はまた明日だ。怪我だけ、治してこい」
「……うん、わかった」
言いながらビスコは、少し眉間に皴を寄せて、次の手に考えを巡らせていた。
ミロの才能云々よりも、本音を言えば、キノコ守りでもない素人にすぐに蟹に乗れなんて、そもそも無茶な話なのだ。
キノコ守りにしてもそのすべてが自在に蟹を操るわけではないし、中には、薬物による催眠状態を利用して、半強制的に蟹を操るキノコ守りも存在する。
(急ぐ旅とはいえ、アクタガワに、薬は使いたくねえが……)
ビスコが思いを巡らせながらミロを眺めていると、ミロは自分の少ない荷物を抱えて、てくてくと……どうやら、アクタガワの方へ歩いてゆく。
「アクタガワ。無理させちゃって、ごめん。薬、塗るから、じっとしててね!」
ミロが懐から紫色に輝く薬管を取り出し、アクタガワへ歩み寄ると、さすがにアクタガワも不気味がったのか、ぐわり! と大鋏を掲げて威嚇する。アクタガワの威嚇の迫力といったらすさまじく、他の動物はおろか、兄弟分のビスコをしてたじろがせるほどである。
それへ、
「強がってもだめ! ほっといたら、筋肉が弱くなるよ! はい、きをつけっ!」
少しの怯みもみせずに、ミロが声を張った。驚いたのはビスコで、それまで大鋏を掲げていたアクタガワが徐々に警戒を解き、ゆっくりと、威嚇を解いたのである。
「そう! いい子だね。はい、おすわり!」
アクタガワの白い腹を撫でて、笑顔のミロがささやけば、とうとうアクタガワも全身の緊張を解いて、足を折ってそこへ座り込む。ミロが、手にした薬液をアクタガワの関節に吸い込ませてゆくと、ほのかに香草のような香りが辺りにただよった。
呆気にとられて自分を見つめるビスコに、アクタガワを撫でながら、ミロが声をかける。
「ごめん、あんな無茶な乗り方されたから、ずいぶん筋肉に傷をつけちゃった。でも、ツキヨモギの再生薬を使ったから、アクタガワなら、歩きながらでも治るよ!」
(……俺は、自分の傷を治せって、言ったんだがなあ)
ビスコは隣まで歩いていき、不思議そうな顔で、落ち着いたアクタガワとミロを見つめる。
「おまえ、これができるのに、なんで、背中に乗れないんだ?」
「……? これがって、どれが?」
「……。く、ひ、ひひひ……。まあ、いいよ」
ビスコはそこで愉快そうに笑って鞍へ飛びのり、ミロの手を引いて、右の鞍へ上げてやった。手綱に反応して走り出すアクタガワの上で、ビスコがつぶやくように言う。
「予定変更だ、蟹の訓練はやめる。おまえ、蟹に関しちゃ、才能がある」
「ええっ!? あんな、有様だったのに……?」
「でも、アクタガワと話した。俺も初めて見たよ、蟹に乗るまえに、蟹と話せる奴なんて」
巨大な八本足で走るアクタガワの気性は、ふしぎと穏やかで、右肩に乗っている異物感も、先の一幕でずいぶんと柔らいだようであった。
崩れかけた巨大な寺の屋根をぶち破るようにして、巨大な戦車砲が一対、空へ突き出ている。社を囲むように折り重なった自走砲や戦車の残骸の上には、藻やシダが生え積もって、昼間に溜めた陽光を柔らかく夜に灯していた。
「日光戦弔宮、って言うんだ」アクタガワの上で、ミロがビスコ越しに言う。「昔にね、もう錆びちゃった戦車とかを一斉廃棄するときに、このお寺で弔って、祀ったんだって。だからほら、鳥居も、何かの主砲みたいな、筒でできてるでしょ」
「あの、像はなんだ? 鳥居んところの。猿が、三匹並んでるぞ」
「見せざる、聞かせざる、言わせざる、っていう神像なんだって。自警団の速攻三原則だね。当時の栃木の軍規を、像にしたんじゃないかって言われてる」
「ふうん。詳しいじゃねえかよ」
「学校出てますから」
「そうか。…………誰が、偏差値ゼロだ、コラ!」
忌々しげに唸るビスコが改めて寺の佇まいを眺めれば、長い間人の手は入っていないように見えるものの、鉄は綺麗で濃い錆の気配もなく、仮にも寺なのであれば武装山伏のような輩に絡まれることはないように思えた。
「よし。ここで一旦、寝る。ちょうど、足尾の鉱脈も目と鼻の先だ。お前、アクタガワだけじゃなくて、自分の傷もしっかり治しとけよな」
「これぐらい平気だってば。僕だって男だよ!」
「血の匂いで、岩ダニが寄ってくるだろ。傷口に潜り込まれたら、死ぬほど痒いぞ」
「……う。ちゃんと、治します……」
アクタガワを中庭に寝かせ、本殿に入る二人。ふと、暗闇で覆われた本殿の中に、何やら煙の香りと、ほのかに薪の燃え殻が、小さい光を放っているのが見てとれる。
「……先客がいる。ここで待ってろ」
びくりと緊張するミロを片手で制して、ビスコが弓を構えてゆっくりと歩を進めると……
闇の中に、見覚えのあるピンク色の三つ編みが、不規則に揺れているのが目に入る。
「……なんだ。さっきの蟹泥棒じゃねえか? おい、よく会うな、この野郎」
「う、うぐ、う……かひゅう、かひゅう。う、げえっ……」
「んん? そういやお前、忌浜でも見たな。てめえ、何かの差し金で、俺達を尾けて……」
ビスコはそこまで言って、のそりと振り向いた少女の異様に、思わず言葉を詰めた。
見開かれた両の眼はドス赤く充血しきって、顔中に玉の汗を浮かせ、喉から絶えずごろごろと異音を立てている。どう見ても、尋常の様子ではない。
「こいつ……!?」
「ビスコ、どいて!」ミロが弾かれたように少女へ駆けより、その背中を強く叩いた。「ぎゅぼおっ」と、粘着質の音を立てて、口から血混じりの白液がびたびたと吐き出される。
ミロは数回、その白液を吐かせて気道を確保すると、腰のアンプルサックから緑色の薬管を取り出し、少女の白い喉へ向けて躊躇いなく突き刺す。薬液が吸い込まれていくにつれて少女の呼吸が荒くなり、震えも一層激しくなってゆく。
「気ぃつけろ、ミロ! そいつ、なんか憑いてるぞッ!」
「胃の中に、何かいるんだ! ちょっと、荒っぽくなるけど……っ!」
弛緩剤の注射を終えたミロは、一度大きく息を吐き、思い切って少女の唇に口付けした。