風のない、八月はじめの、静かによく晴れた早朝である。
細かい貝砂に薄く張った水面は日差しを照り返してきらきらと光り、まるで鏡面のように空をそのまま写し返している。色とりどりに鮮やかな貝砂の美しさと相まって、さながら宝石の空を歩くようである。
カルベロ貝砂海。
忌浜北壁より北へ50㎞ほど。浮き藻原を抜ければ、栃木県北部から霜吹県南部にかけて、美しい貝の砂で敷き詰められた広大な湖が見えてくる。
もとはカルベロジュエリーとかいう福島の大会社が、掘りつくされた天然鉱物の代わりに、合成された美しい貝を使って新世代の宝石とした、その工業地域がこのあたりであったらしい。
それらが例によって跡形もなく錆び風に削り取られ、宝石貝だけが細かい砂となって地表を成し、時折ぽつりと、高いビルの亡骸が貝砂の上に傾く、そういう土地であった。
埼玉の鉄砂漠と異なるのは、貝砂が排出する微細な塩分と水分が、絶えず一面に水の薄膜を張っていることで、それが期せずしてこの滅びの地に、えも言われぬ美しさを体現していた。
とはいえ。
それを行く大蟹の背に揺られる、二人の若いキノコ守りは、そうした景色を楽しむ余裕もなく、空腹と焦燥にその身を焦がされているようであった。
「アクタガワ、なんとか餌を見つける……頼む、頑張ってくれ」
足尾鉱脈のトロッコルートを塞がれた一行は、貝砂海を迂回せずに、霜吹県方面に渡りきるルートを選んだ。ジャビの残り時間を考えれば、他に方法がなかったのである。
(うう、お、お腹、減った……)
口の中で、ミロが呟く。見た目の美しさと裏腹に、貝砂海を行く行程は厳しい。一面に広がる美しい水面には、およそ人間の食料になりそうなものは何一つ見えない。
食用のキノコを生やすにしても、キノコそのものはほぼカロリーを持たないので、結局腹の足しにはならない。歩きながら何でも食べて栄養にするテツガザミも、この地形ばかりは餌となるものがないため、流石の健脚も鈍り、速度を落としてしまうのである。
期せずして、浮き藻原でくらげ少女に押し付けられた保存食が役に立ち、二人の命を繫ぎ止めたが、それもほとんどはアクタガワの餌となり、しばらく前に底をついてしまっていた。
(……ビスコ……。)
ミロは横目で、ただえさえ鋭い眼をさらに焦燥にぎらつかせた、相棒の横顔を窺う。
空腹のことも勿論あるだろうが、何より師父・ジャビの命の刻限が、彼の心を焦がし、火傷するような熱を漂わせているのだろう。
旅慣れないミロもまた、厳しい飢えに苦しんでいる。ただ、そんなビスコを横に見て、そうそう弱音を吐けるものでもなく、なんとか気丈に振舞ってみせてはいた、が。
「……。ミロ。腹、減ったか?」
「……う、うん!」
べちん! と、後頭部に一発。
「次言ったら、二発だからな」
「聞かれなきゃ、言わないよっっ!」
「……おい、ありゃ、何だ……?」
ビスコが指差す先に、貝砂から大きな葉を広げた背の低い植物が、その葉を水面にくねらせていた。
中央部には、大ぶりの真っ赤な果実が四つほど、瑞々しく輝いているのが見える。
「す、スイカだっ」
「スイカ!」
先ほどまでの、死体みたいな顔を一気に輝かせて、ミロが喜んだ。ビスコもようやく、まともなものをアクタガワへ与えられる喜びで、手綱を操る手に力を込める。
そこへ。
何か、小さな影がちょこちょこと走り、その、スイカ……ベニダマウリに近づく。
呆気に取られる二人の前で、その小さい奴は器用に大ぶりの四玉を刈り取ると、背負ったカゴにぽいぽい放り込んで、そのまま、てくてく来た道を戻ろうとする。
何か大きな巻き貝のようなものをメット代わりに被って、簡素なシャツとズボンに身を包んだ出で立ちは、どうやら、年端もいかぬ子供である。
「子供だ、こんな所に。近くに街があるのかな? ねえ、ビス……」
振り向くミロが、相棒の形相に思わずぎょっとし、固まる。
「おらガキぃぃ───ッッ! カゴ置いてけェェ────ッッ!!」
飢えた修羅となったビスコはアクタガワを思い切り駆り立て、その子供を追いかけた。
巨大な蟹に跨った、真っ赤な鬼みたいな奴が、凄まじい勢いで向かってくるのであるから、子供の側からすればたまったものではない。子供は「きゃーっ!」と悲鳴とともに一度跳ねて、脱兎のごとく貝砂の上を駆け出してゆく。
「び、ビスコ! やめなってば! あんまり驚かしたら、かわいそうだよ!」
「メシを取り上げられた俺は、かわいそうじゃねえのか、コラ!」
ミロが諫めても、なおさら勢い込んで手綱を取る、ビスコの、その目の前に。
ばぎゅん! と、一発のライフル弾が空から貝砂に突き刺さり、アクタガワの足を止めた。
「……!」
ビスコはさすがに表情を引き締め、逃げる子供から、銃弾の飛んできた方に視線を移す。
「子供でもお構いなしに連れてく気かよ、ヤクザども!」高所から、声が響く。力強く覇気に満ちてはいるが、その声は高く、どうやら年若い少年の声である。
「今日こそ、お前ら穴だらけにして。黒革んとこへ、送り返しちゃるからな!」
眼前にそびえる、巨大な人形を思わせる奇妙な建造物のそこらじゅうから、銃口がビスコとミロに向けられている。空腹に周りが見えなかった赤星一行は、期せずして、一触即発の状況に飛び込んでしまったらしかった。
「そのガキをどうこうする気はねえ。メシが欲しかっただけだ」ビスコは、青ざめてすっかり怯えるミロの頭を、隠すように鞍へ押し込む。「言ってることはよくわからんが、俺はお前らの仇じゃないぞ。ここだって、偶然、通りかかっただけだ」
少し、間を置いて、少年の声が返ってくる。
「なら、そんまま回れ右して、帰れ、よそもんが。変な真似しよると、脳天、ぶちぬくぞ」
「物騒なガキだな。何か、食うもんが欲しいんだよ。譲ってくれ」
ビスコが食い下がる。
「この蟹と、こいつ、医者なんだが、とにかく二人に飯を食わせたい。多少の金は、出せる」
「いいから、さっさと、帰りゃがれ! カルベロの漁師は、撃つったら、撃つぞっ!」
「反抗期らしいぞ」ビスコはやや呆れたように、ミロに背負わせていたポーチから、何か紙きれを一枚、取り出した。「まあいい。一枚取っておいて、よかった」
「一枚、とっといて、って……」ミロが、おそるおそるビスコのその紙に目をやると、あろうことか、顔の横に掲げたそれは、ビスコ自身の、賞金首の張り紙であった。
「赤星ビスコ。人喰い赤星! 今、一番ホットな賞金首だぞ。生きたまま、忌浜に持ってきゃ、八十万日貨の大金だ。こんな、辺鄙なとこじゃなくて、壁の中に家が十軒建つぞ!」
「わ、わ、わあああっ、なにしてんの、ビスコっ!」
ミロは恐怖もどこかへ吹き飛ぶほど色を失い、ビスコの首根っこを摑んで振りたくった。
「何、考えてるんだよっ! もし、つ、捕まっちゃったら! 旅もなにもないよ、全部だめになっちゃうじゃないか!」
一方、穴ぼこ人形の街もそれはそれで、ずいぶんと騒ぎになっているようである。
「赤星?」「人喰い茸の、赤星!」「本物なの?」「八十万日貨だって」
等々、街のそこらじゅうから声が飛んでいる。気になるのは、それら声の殆どが、おそらく少年少女のものであるということだった。
「アクタガワに飯を食わせるには、他に手はねえ」
先ほどまで、悪童の笑みを見せていたビスコが、この隙を見て、ミロに囁いた。
「街を構えるぐらいだから、食糧の備蓄はあるはずだ。アクタガワの腹が満ちたら、頃合いを見て、逃げよう。あるだけ持ってければいいが、見たとこ、ガキの寄せ集めの集落だ。あんまり盗りすぎてやるのもな」
「……うん、わかった」
一度ビスコと目を合わせてしまうと、無茶が無茶でなくなってしまう気がするのが、ミロは不思議だった。
「ねえ、僕はどう動けばいい? 何か、作戦はあるの?」