そういうところも可愛らしい奴だった、と不思議な気持ちを嚙みしめつつ、ビスコはゆっくりと、がんじがらめにされた手に、万力のように力を込め出した。
「こ、こりゃあ、一体……!」
サメマスクを取り去ったナッツが、自分の口元を撫でると、そこには昔通りの艶やかな肌と、潤んだ唇が戻っている。ナッツは信じられないといった風に、何度も鏡を覗き込んだ。
「忌浜が、きみたちに売ってた薬は、見当違いの偽物だよ」
ミロが優しさの中に、忌浜への静かな怒りを滲ませながら、荷物の中から黄色い薬管をいくつも取り出す。紙に何やら走り書きをしてそれに添えると、手で軽くプラムを招いて、それを手渡した。
「おいで、プラム。これが、貝皮症の特効薬。特に侵食が深い子には、勿体ぶらずに治りきるまで使うこと。この量でしばらく持つとは思うけど、もし、薬が切れたら、ここに調剤方法が書いてある。ここ周辺で採れる材料でできると思うけど、採取には気をつけてね」
「あんた、天使様かなにかなの……? 噓みたい……ほんとに、みんなの病気を、治しちゃうなんて……」
「なあ、ナッツ。街の仲間、みんな治してもらったんだぜ。なんか、礼をしてやろうよ。カルベロの漁師には、仁義がなにより大事だって、大人達も言ってたじゃねえか」
「そうだよ、ナッツ! この人がいなかったら、あたしらいずれ、身体中かちかちになって、くたばってた! 何か、あたしらで、お礼しなくちゃ!」
「………。」
ナッツは、周りの少年たちの声を聞きながらその両腕を組んでしばらく、しかめっ面で立ちつくしていて、沈黙に耐えかねるようにして口を開いた。
「……何か、望みのもんが、あるのかよ。ここには、大したもんは、ねえぞ」
「……あるよ。ひとつだけ」
ミロは、それまでの優しい瞳に、すっと策士の色をひそませて、涼やかに、言い放った。
「僕の相棒、赤星ビスコ。彼を解放して、僕に引き渡してほしい」
「!!」
「あっ!」「そうだった……!」「赤星を……!」
そこで、周囲の貝帽子の子供達はお互いを見回し、一斉にざわめいた。この、癒しの使徒のような優男が、あの大悪党赤星の連れだということを、これまですっかり、忘れていたというふうである。とはいえ、
「赤星がおとなしけりゃ、それぐらいは……」「恩人の言うことだもの」等々、子供達の反応はすっかりミロになついていて、その場は肯定的なムードが大半を占めるようではあった。
腕を組むナッツに、プラムがそっと近寄り、「ね、ねえ」と、声をかけると……
「それは、できん」
「ナッツ!」
「赤星は、手放すわけにいかん! 他のもんにせい、パンダ!」
(……あ、あれっ? そうきたか……ちょっと、読み違えたかな……!)
子供の善性を信じ切っていたミロは、この返答にわずかに冷や汗をかいた。治療の過程で、ナッツの強面の内側に、素直で恩義に厚い部分を感じ取っていたのだが、今のナッツは何か別の使命感のようなもので、固く心を閉ざしてしまっている。
「ナッツ、このお医者の連れなんだから、赤星だってきっと、悪党じゃあないんだよ。ねえ、この人にとっちゃ大事な仲間なんだ、解放してあげなよ!」
「そんなこたあ、関係ない! 金の、話をしとるんじゃ!」
ナッツはプラムの声を無理やり振り払うように、乱暴に頭を振った。
「八十万日貨ちゅうたら、街全体の武装を、まるまる新調できる額じゃ。おれたちの銃も殆どがサビて、弾ァだってない。冬までに、武器を新調できんかったら、トビフグの群れに、街全体が喰われちまうんだぞ。そいでも、いいんか!」
ナッツの一喝に、黙り込んでしまう少年たち。
ナッツとしても、人並みの以上に情を持ち合わせる少年に間違いない。ただ、その、仲間の命を守りたいという一途な想いが、非情な決断を彼に強制していた。
「話が終わりなら、もう、行く。……カニには、たらふく食わせておいた。早めに、出てけ」
ミロの顔を見ないようにしながら、踵を返すナッツ。ミロは唇を親指の爪で搔きながら、何か次の手を考えている。
ナッツの足が、階段にかかった、その瞬間に。
「フグだぁ─────っっ! フグが出たぁ────っっ!」
「!? コースケ! 上か!」
テツジンの街全体に響くコースケの悲鳴が、再び少年たちをどよめかせた。台所の階段を駆け上がり、テツジンの胸ににせり出した広場へ登るナッツ。
見上げる視界の先、テツジンの頭部あたりに、いまにも食いかからんばかりに口を開いた、トビフグの膨れた体が大写しになった。
「何で、この夏まっさかりに! はぐれフグの、一匹か?」
「な、ナッツ……」銃を構えるナッツの耳に、プラムの震える声が飛び込む。
「はぐれじゃない……こ、こいつら、群れで。きょ、去年の、何倍も……!」
ぎょっとしてナッツがプラムの視線を追うと、低い雲の間から、トビフグの太った体がいくつも降ってくるのが見える。気象の変化で餌が減ったのか、その因果はともかく、先までの平和な事態は急転し、テツジンの街は未曾有の滅亡の危機に瀕しているようであった。
「わ、わああ、ナッツ! すげえ数だっ! おれたちの、銃より多い!」
「弾が、弾が出ねえ! くそっ、こんな時に、ちくしょうっ!」
仲間たちの悲鳴を受けて、ナッツの顔が歪む。いつもなら、落ち着けと一喝するが、この状況でそれは滅びを待てと指示するに等しい。ナッツを襲う深い苦悩が、とうとう彼の口から、「うう、どうすりゃいい……!」と、弱音を吐き出させた。
「……みんなを助ける、すごく簡単な方法が、ひとつだけ、ある」
場違いなほど落ち着いた声に、ナッツとプラムが、同時にミロを振り向いた。ミロは今度こそ真剣な面持ちで、ナッツの視線を正面から受け止めた、
「な、なんじゃ、どこに、打つ手がある!」
「この程度の動物の、百や二百、朝飯前に倒す人を知ってる。任せちゃえばいい。このぐらいの数、十分もかけないで、退治しちゃうよ」
「だ、誰じゃ、そいつは。どこに、そんな奴がおる!」
「捕まってるでしょ。きみの部屋に」ミロは不安げなプラムににこりと笑いかけた後、ナッツにずいと近寄って、わずかに語気を強めた。「ナッツ。ビスコを解放して! この状況を打破できるのはビスコだけだ。八十万日貨と引き換えに、仲間たちを、フグに食べさせる気!?」
ナッツが、額に逡巡の汗をにじませた、その一瞬の後、
ずがん! と響く轟音とともに、テツジンの頭部の一部が食い破られる。飛び散る破片に空を見上げれば、フグの厚ぼったい唇に、小さい人影が引っかかっているのが見える。
「わあ────っ! ナッツ─────っ!」
コースケの悲痛な悲鳴が、上空から一同の耳に突き刺さる。コースケはフグの唇にジャケットの襟を絡め取られて為す術もなく宙に浮き、今まさにその餌になろうとしていた。
「コースケェ──────ッ!」銃で狙っても、親友を撃ってしまいかねないプレッシャーにその手は震えてしまう。ナッツの指が引き金を引ききれず、思わず目を瞑る、そこへ、
ず、ばん!
晴れた空に、赤くなびく影が踊り、コースケを咥えるトビフグめがけて、流星のように突き刺さる。着地ざま、手に持った何か槍のようなものをフグの眉間へ突き立て、そのままその凄まじい膂力でもって、尾のほうまで一息に引き裂いてしまう。
トビフグを貫いたのは、ナッツ秘蔵の『銛』であった。
『ぼええええええ』
間の抜けた咆哮とともに、トビフグの身体がしぼんでゆく。赤い影はすばやくコースケを背負うと、トビフグの背を蹴って跳ね飛び、再び、テツジンの頭頂部へ着地した。
「サザエ。銛の使い方がわかったか?」ビスコの瞳が強く、どこか優しくナッツを射抜き、手にした銛を放りなげてよこした。「おやじの形見なら、なおさら。恨みで壁に塗り固めてねえで……さっさと使い潰して、あの世に届けてやるんだな」
「あ、赤星……!」銛を受け取ってよろけながら、ナッツが驚く。
「拘束はどうした、鉄格子は! 鍵は、おれしか持っとらんのに!」