一般的に、ひとつの都市の中で生まれ、その壁の中で死んでいく現代日本人からすると、忌浜県がおよそ文明の最北端であり、それより北の実態といえば、岩手にある万霊寺の総本山が有名なくらいで、ほとんど未開の地じみた認識がされている。
原因は、貝砂海・腐姫沼・おろち林道と続く難所はもちろん、それを越えた先にある霜吹県の存在も一要因であった。
錆び風を浄化する目的で設立された世紀の新技術、氷浄回路の実験施設が、稼働三日目を待たずに大事故を起こし、福島の県南に大規模な永久凍土を置き土産として残していった、そのなれの果てが、この霜吹という土地である。
周囲の県と全く関わりを持たないこの県は、関所はおろか、およそ県としての統治も存在しない。ただ、夏でも構わず日常的に吹きすさぶ吹雪のおかげか、錆び風の影響が少ないこともあって、雪の中で素朴に暮らす住人も少なからず居るのであった。
「や、はらぜらも。日貨、つれねが」
「日貨、つれねるど?」
「つれねが」
吹雪の中に、大きな荷車が一台停まっている。巨きく太った二頭の綿牛が、顔までほとんど覆う毛から赤黒い舌を覗かせ、顔に張り付いた雪を舐めて「ブルル」と一声鳴いた。
ミロはその前で店主としばらく霜吹の言葉で話していて、日貨の札束を持ってビスコを振り返り、困ったように首をすくめた。
「日貨は使えないって。東京爆災前のお酒とか缶詰とか、布団とかが欲しいって言ってる」
「けぇッ。あるかよ、そんなモン。サルベージ屋じゃねえんだぞ」
吐き捨てながら、ビスコは自身の瞳に滲むミロへの尊敬の色を隠そうと、横を向いて続ける。
「にしてもお前、霜吹語なんて喋れたんだな。俺には、熊が唸ってるようにしか聞こえねえ」
「患者さんに居たんだ、霜吹の人。何人か見てるとね、けっこう覚えちゃうよ」
「ふーん……。そういうもんか?」
「あと学校も出てますからあ」
「そこは、患者の話で止めとけ、ボケ!」
ミロが話している霜吹の旅商人は、ぷくぷくと柔らかく丸っこいホットスーツで身体を包み、顔もカプセルのようなもので覆って、その上から牛毛のフードを被っている。さながら寒がりの宇宙飛行士のようなその格好は、傍目にはなんとも可愛らしいものだが、外見とは裏腹にこの行商人自身はけっこうがめつい奴のようであった。
「蟹、へど。蟹、ゆるへど、に、おるつれ」
「ええっ!? だ、だめだよ!」
「おい、何だって!?」
「その、蟹が欲しいって……アクタガワくれれば、荷車ごと交換しようって言ってるよ」
「な、なんて野郎だ」ビスコは埒が明かないと思ったか、アクタガワの荷袋を乱暴に漁ると、虎の子の大ウツボの干し肉をいくつも取り出して、商人の目の前に叩きつけた。
「旅のために、狩り溜めといた肉だ。これで全部だ! これで足りなきゃもう用はねえッ」
商人は意気込むビスコの威圧もどこ吹く風に、しばらく雪上に並べられたウツボ肉を品定めしていたが、やがて立ち上がるとひとつ頷いて……
「つるよき」と言い、荷車の中から商品をごそごそと出してきた。
「本当? やったあ!」
「やってねえよ、ボケ」ビスコは憮然としている。「足元見やがって……また、狩りなおしだ」
商人から買い取った霜吹熊の大外套に着替えて、霜吹を北上する。
あまり雪や寒さが得意でないビスコにとって、長居したい場所ではない。ビスコはアクタガワに歩きを任せながら、タニシ少年、コースケから貰った地図をずっと睨んでいた。
「地下鉄はこの辺りのはずだぞ。とうぶしらかばせん、だろ? ええと……くそ、周りが雪ばっかりで、よくわかんねえ……」ビスコは目を細めながら、指で地図をなぞる。
「廃線を動かせれば、日数にかなり余裕が出てくるんだが。なんか、目印がねえかなあ」
ふとビスコが隣を見れば、ミロが遠くの雪原を狙い、弓を引き絞っている。その顔はなかなかに凜々しく、姿勢も様になっていた。狙う先は、どうやら中ぶりの霜ウサギのようである。
「しッ!」と、放たれた矢は雪をほじり返す霜ウサギの──わずか横へ逸れ、雪上へ突き立つ。
「くひひひ……惜しかったな、パンダ先生」ビスコは妙に嬉しそうに笑って、ミロの脇腹をこづいた。「風を意識しすぎだぜ。いいか、吹雪のときの弓ってのは……」
ビスコが皮肉まじりに講釈を垂れようとした瞬間、ウサギの横に突き立った矢を中心として、ばずん! と白い綿のようなものが弾け、周囲に降り注いだ。逃げようとする霜ウサギを、降り注いだ綿が幾重にもからめ取り、ウサギは身動きが取れずにそこへ転がってしまった。
「調剤機を使って、発破ダケに、ハガネグモの毒を調合してみたんだ」
ミロは呆気にとられるビスコを横目にしれっと言ってのけ、それでも嬉しさを堪えきれず、にこっ、と笑った。
「僕だって、矢が当たらなくても、やりようあるってこと! わかったかな、ビスコくん」
「認めね~~~~!!」
「え──! なんでだよーっ!」
旅のはじめは都市の青二才だったミロも、今では抜群の成長を見せ、ビスコを驚かせるような一面を覗かせることもある。
製薬や、独特なキノコ毒の調剤はもちろんのこと、先のおろち林道では、襲い来るハガネグモの群れを、張り巡らされた蜘蛛の巣に医療機の電気ショックを伝わせるという離れ業で撃退してみせた。人ほども大きい殺人トンボ・抱きヤンマ襲来の際にも、怯むことなくビスコの横へ並び、その成長した弓術で見事に相棒からとどめを奪っている。
ビスコに育てられた勇気が、もともと持っていた独特の知恵を閃かせ、ミロは少しずつ、無二のキノコ守りへの才覚を開花させつつあった。
(……う──ん。確かに、すげえ毒だ……)
地面に降り、蜘蛛の巣にからめとられてもがくウサギを、ビスコがつまみ上げようとすると。
「ぎにゃッッ!」
予想外に重い感触とともに、大きいものが、雪をかきわけてビスコの手元にぶら下がった。
二人には見覚えのある、ピンク髪。浮き藻原のくらげ少女、例の小柄な女商人である。
「あ、ああっ! この子!」
驚く少年二人を、うらめしげに金色の眼が睨む。逆さまになった髪が揺れるたびに、積もった雪がばらばらと落ち、その一つが小ぶりな鼻を直撃して、少女は大きくくしゃみをした。
「まずいよ、凍えてる! ど、どうして、こんな雪の中に埋まってるの!?」
「霜ヒョウから逃げるとき、雪に埋まる方法があるんだ。あいつら、鼻がそんなに良くないからな。それで、運悪くその場に居座られたかして……出るタイミングがなかったんだろ」
「ビ、ビスコ、いつまで逆さにしてんの! 降ろしてあげ……わあっ、振るなってば!」
先を急ぐ旅ではあったが、目の前で凍え死にそうな女の子を放ってもおけない。ビスコは不承不承、氷像みたいに固まったくらげ少女の身体を抱えて、ひとまず吹雪が凌げる程度の洞穴を探し、アクタガワを急がせるのだった。
「けぇっ、何で俺達が、こんな真似……こないだも今回も、悪運の強い女だな」
「ほんとに、運命としか言いようがないよ。あと十分遅かったら、危なかった」
浅い洞穴の中で、ミロが骨炭カイロ棒を数本、ぱきぱきと折ってやる。橙色に灯ってくるそれを服に押し込んでやると、少女はその身体に徐々に体温を取り戻し、かたかた震えながらもようやく人心地ついて、覗き込むビスコから悔しげに「ふん」と視線をそらした。
「……また、あんたたち? 余計なことばっかり……へっくし! よっぽど、暇なんだね」
「見てみろ、この態度をよー。ここまでされてなんでまた、命の恩人に、礼の一つも出てこねえかな? 人に頭を下げると、心臓が止まる体質なのか?」