『ぼおおおおおお』と大きく鳴いて、大蛸の巨大な肉壁がうねり、トンネルごと砕く勢いで膨れ上がる。ビスコは逆さ吊りのままげらげらと笑い、
「餌は選ぶんだな。俺には猛毒があんだよ!」
鳴き声に叫び返した。ただ、ビスコ自身、痛みに鈍い大蛸がくたばるまでの長い時間、生き延びられるかどうかということについては、これはもう賭けでしかなかった。
ビスコを摑んでいた触手が踊り、死に際の馬鹿力で天井へ思い切り叩き付けた。ビスコが血を噴く間もなく、返す刀で床へ。側壁へ。天井へ、狂ったように触手は全力でビスコを打ち付け続ける。その衝撃は線路や岩壁にヒビを入れ、地震のようにトンネル全体を揺らし続けた。
全身の肉が弾け、骨を砕かれ、即死級の衝撃を受け続けるこの状態にあってしかし、ビスコのその両の眼だけは、血まみれの顔に爛々と光り、燃えていた。
ビスコは、己の命を振り絞るように一声吼えて、決して手放そうとしなかった弓をもう一度引き絞り、決死の一弓を放とうと構える、その瞬間、何か一際大きな衝撃が大蛸の触手を揺らし、摑んだビスコを洞窟の床へ投げ出させた。
溶鉱炉のように赤熱する何か大きな鉄の塊が、その車輪をきしませながらも、線路を伝って凄まじい勢いで大蛸に突っ込んだのだ。ミロがもつれる足で必死に走り、血塗れのビスコを抱きかかえて、線路を逃げる。
「ああ、ビスコ、こんな、ひどいっ……」
「がはっ、み、ミロ、ま、まだだッ」
大蛸はどこまでも執念深く、またもその触手を壁に這わせて二人へ摑みかかってくる。もはや逃げ切ることは難しいと思ったか、ミロは背中の弓を抜き放ち、震える手で矢を引き絞る。
ミロが大蛸に突っ込ませたのは、アクタガワが怪力で千切りとった列車の骨炭炉そのものだった。炉は暴走し、今にも爆発せんと真っ赤に膨れ上がってはいるが、蒸気を噴き出す排気バルブがかろうじてそれを食い止めている。
(あれを、撃ち抜けば……!)
狙うミロの額に玉の汗が浮き、焦りが肺を締め付け、呼吸は荒くなった。その身体に何本もの触手が迫り、ビスコもろとも巻きとろうとする。
ふと。
震えるミロの左手に、ビスコの手が重なる。弓は不思議と、そこでびたりと止まり、引き絞る右手にも、真っ直ぐに力が込もった。
「二つ、だけだ、弓には。まず、よく見ること。」
ビスコの呟くような言葉が、乾いた砂に落ちる水のように、ミロの心に吸い込まれていく。
「それと……信じること。」
触手がいくつも迫り、身体を締め上げても、ミロは動じなかった。
ただ静かに、青い眼にしずかな炎をゆらめかせて、骨炭炉に狙いをつけている。
信じること。
(当たる)、と、そう思えた。
ビスコが添えた手の、血の温もりが、力となって流れ込み、全身に燃え広がるのを感じた。
「当たるか?」
「──うん。」
静かに、短く頷いて、放った。ミロの青い矢は、一筋の直線となって、骨炭炉のバルブに吸い込まれていき、狙い違わずそれを弾き飛ばした。橙色の光が、わずかにしぼんでその強さを増し始め、膨張する空気が触手を引き剝がし、二人の外套をはためかせる。やがてそれは強烈な閃光となって二人を飲み込み、轟音とともに弾けた。
凄まじい、衝撃である。ビスコとミロはまるで野球の球みたいにすっとび、そのままゴロゴロと転がってトンネルを抜けだして、青空の下、あわや線路の途切れた崖に落ちそうになり、そこでアクタガワのハサミに受け止められて辛うじて止まった。
美しい緑の萌える、渓谷である。可愛らしく鳴く鳥たちの声が、よく晴れた空に響いている。
爆発の炭やら、重油ダコの油やら、血やら汗やら疲労やらとにかくいろんなものに塗れた二人は、しばらくそのまま、アクタガワに抱かれるようにして寝っころがっていた。
「……うウォエッ」
突然、ミロが口を押さえ、アクタガワの足元に真っ黒な炭をびたびたと吐き出した。
「……っ、んヒヒヒ」
「な、何、だよゥ」
「つわり、かと思ってよ、クヒヒ、ん? ヴォエエッ」最後までミロをからかい切る前に、ビスコも炭を吐き出し、美しい緑の地面を真っ黒に染めた。その中に、一匹の重油ダコがぴちぴちと跳ね、ビスコの歯の欠片を宝物のように抱えると、逃げるように崖をすべり落ちていった。
「ビスコのほうが、産んでる、じゃん」
「……処女懐妊だ」ビスコは残った炭を吐き散らかすと、まじめ腐ってミロに向き直った。
「カマ掘られたことなんざ、ねえからな。……いや、掘られてたって、産まねえか……」
そこでミロも、堪えきれずに吹き出し、ビスコの背を叩きながら、涙すら流して笑った。
アクタガワが、よくわからない理由で笑いこける主人二人を、自分の背中へ放り上げる。
二人はなんとか鞍へ腰を下ろして……そして、崖の上から見下ろす景色に思わず息を吞んだ。
「ビスコ、ここが……!」
「うん。……子泣き幽谷だ。ジャビから聞いてた景色に、間違いない」
平原に青々と茂ったヒビキ麦の草が、人の背丈ほども伸び上がって、吹く風に撫でられて揺れている。風が起こるたび、それらは浜に寄せる波のようにして凪ぎ、陽光を規則正しく照り返して、まるで谷全体がひとつの宝石であるかのように、美しく輝かせていた。
「……。行こう、ミロ。もう一息だ」
しばし景色に見惚れた後、静かにビスコが言う。ミロは頷いて、手綱をとるビスコの横顔を、じっと見つめた。
そして、ざっくりと切り裂かれたビスコの首の傷に手をかけて……
「ビスコ。アクタガワの揺れ、ちょっと抑えられる?」
「おう。……これぐらいでいいか?」
「ん。動かないでね……」
蟹の上での治療もすっかり慣れたふうに、器用に消毒し、針で縫いはじめるのだった。