子泣き幽谷。
幽谷の名は、平原の草に隠れて、巨人の爪痕のように幾筋も走る深い谷に由来する。また、谷深くを風が吹き抜ける際の、赤子が泣くような不気味な音を「子泣き」と呼んだと思われる。
時折、澄んだ青色の煙が谷から吹き出して、谷全体をほの青い霧で薄く覆っており、その景色が一層、幽谷全体をミステリアスな秘境として二人に感じさせた。
「……綺麗だけど。寂しい、ところだね」
「そうか? おい、谷を見てみろよ」
ビスコはアクタガワの手綱を取りながら、器用に谷を覗き込む。
絶壁の所々に、美しく青色に光るキノコが群生し、底の知れない谷をわずかに照らしている。
「ああっ、き、キノコだ! じゃ、この青い煙は……」
「胞子だな。キノコ守り達が、来たんだ。んで《錆喰い》を取ってった……十五年前に」
「ジャビさん達のこと?」
「あのジジイの、見栄から出た噓でなけりゃあな」
ビスコは振り返り、いつもの悪童じみた顔で、笑う。一見して、健康そのもののビスコの顔にはしかし、わずかな青みが差しているのをミロは見て取ってしまう。
ミロは、できるだけ自分の心情を悟られまいとして、にこりと笑い返した。
ビスコの傷は、重い。
タコの脅威を打ち破って洞窟を抜けた後、ミロも懸命に処置をしたが、何しろ、骨を数本ではきかない数折っており、筋肉は勿論、内臓へのダメージもひどい。
常人ならとっくに死んでいる傷で、到底、まともに動ける身体ではないはずなのだ。
「《錆喰い》は因子が強すぎて、どんなキノコ毒を刺そうが、《錆喰い》として発芽するらしい。だからあとは、釣るだけだよ。図鑑の言う、「おおきなエサ」も手に入ったからな」
「ねえ、もう、今日すぐ狩りにかかるの? もう少し、ビスコの治りを待って……」
「バカ言うな。餌が腐っちまうだろ。よし、アクタガワ、そのへんだ」
ビスコは言って、それまでの道程を延々引きずってきていた、巨大なタコ(一度引き返して持ってきた、先に倒した重油ダコの親玉)の丸焼きをアクタガワから下ろした。青々と茂る草木の香りの中に、場違いな焼きダコの香ばしい香りが、ふわりと漂う。
「これで、待つだけだな。十五分で気配がなかったら、場所を変えよう」
「……ねえ、ビスコ。やっぱり心配だよ。どう見たって、血が足りていないもの」出来るだけビスコの意気を削ぎたくはなかったが、それでも心配を隠しきれずに、ミロがビスコの外套を引っぱる。「せめて、輸血したいんだ。型が合えば僕の血で……ねえ、ビスコ、血液型は?」
「……? なんだ、血液型って。血液は、血液じゃねえのか?」
「冗談言うなよ! 自分の、血液型ぐらい……」
そこまで言ってミロは、忌浜でジャビの治療をした時の事を思い出し、考えこんでしまった。
あの時の輸血は、白衣に詰め込んでいた濃縮血液タブで行ったのだが、ジャビの血は不思議なことに、いずれの血液型にも全く拒否反応を示さなかったのである。ジャビ自身も、血液型というものをそもそも知らない風であった。
(……キノコ守りの人には、血液型の概念がない? というより、血そのものが──)
「……ミロ、後ろだ!」
油断していたミロをかばって、ビスコが横っ飛びに飛ぶ。赤い体に黒ぶちのとてつもない巨鳥が、谷からぐわりと羽ばたき昇って、二人をその爪でかすめたのである。
「うわあっ! すごい、鳥!?」
「まずい、タコをもってかれるぞ!」
巨鳥の狙いは、自分にしたら豆粒ほどにすぎない人間二人ではなく、やはりその大蛸であった。その強靭な爪で獲物をわしづかみにし、飛び上がってゆく巨鳥を、さすがのアクタガワも留めることはできない。
「くそ、やらせるかよ……!」
ビスコの瞳がぎらりと光り、抜きはなった弓矢を構え、その重い弦をぎりぎりと引いてゆく。必殺の一弓が、巨鳥の脳天を捉えようとした、その瞬間に。
ごおおおおお、と、凄まじい風を起こして、何か、長く白いものが谷底から伸び上がり、はるか空まで浮いてその腹を露わにした。つるりと光沢を帯びた皮膚の横には、人間の手指そっくりの足が無数に生え揃い、身体の脇でうごめいている。長く白いものは、そのまま渦を巻くように宙を一回周り、ぐばり! と、その白柱のように生え揃った歯をあらわにして、巨鳥めがけて食いかかった。巨鳥はなすすべもなくその強靭な歯に砕かれ、飲み込まれてゆき、焼きダコもついでのようにちゅるりとその腹の中におさまったようであった。
呆気にとられる二人の前で、その巨大な白く長いものは一声『ぼおおおおお』と鳴き、その身体をくねらせてまた別の谷へ、轟音を立てて飛び込んでいく。
二人は、今の何かが起こした風に髪を逆立てて、しばらくぼうっとしていたが、慌ててビスコは頭を振り、白いものが潜った谷を指差した。
「あれだっ、筒蛇だ」
「お、おおき、すぎる……!」
たしかに、トンネルの中で見たキノコ守りの図の通り、巨大な、双頭の、目も鼻もない蛇である。ただ、図にある幼児的な絵とは裏腹に、実際のものを目の当たりにすれば、そのスケールの巨大さだけで、全身が竦むような迫力があった。
「あ、あんなの、蛇じゃないよ。もう、龍でしょ!」
「龍だろうが虎だろうが、矢が通りゃ一緒だ。追うぞッ」
ビスコは筒蛇が飛び込んだ谷へアクタガワを走らせ、腰からワイヤー矢を弓に番えると、谷の対岸目掛けて撃っぱなした。
「ええっ、ビスコ、どうするのっ!?」
「どう動くかわからねえ、俺は対岸から狙う! ミロとアクタガワはここから追え!」
ビスコは言い終える前に対岸へ向かってワイヤーを巻き取り、すっ飛んでいく。
ミロが対岸へ抗議を叫ぼうとしたその瞬間、ずわり! と、白く巨大な身体が、ビスコを隠すように谷から山なりに飛び出して、ミロの外套をはためかせる。
ミロの言葉どおり、まさしく、龍の貫禄であった。体側の触手をでたらめにのたくらせ、谷の土を削り取りながら、白い筒はずいぶん長い時間をかけてまた同じ谷底へと潜っていく。
ミロは、恐怖に怯みかける自分の体を、抑え付けるように抱きしめ……そして、自分を抱きしめる姉の眼差しと、ジャビを想って物思いに沈むビスコの横顔を、脳裏に描く。
(……狩れる。なんだってやれる。ビスコなら。僕たちなら!)
ぎん! と、ミロの優しい目に力が籠った。その、決然とくれるムチがアクタガワに伝わったのか、大蟹も気合一閃、大物狩りに奮い立ち、白い筒を追って猛然と駆け出していった。
「なんつー、デカさだ……!」
ビスコにも大物狩りの経験は数多くある。が、目の前の筒蛇はビスコの狩猟人生の中でも、最大の敵と言ってよかった。先ほど、通りすがりざまの背中に二矢撃ち込んだが、その毒は小さなキノコを僅かに咲かせただけで、筒蛇の巨体からすればかすり傷にも満たない。
「鱗が厚くて、肉まで毒が咬まねえ。口の中か、腹か……、くそ、どうやって!」
思案するビスコの耳に、ふと。
何か地面をを抉るような、ぎゃりぎゃり、という音が聞こえる。
背後を取られないよう、切り立った岩壁を背にしているビスコの視界に死角はないはずなのに、その『ぎゃりぎゃり』は次第に近く、猛獣のような唸り声を伴って、どうやらまっすぐにビスコへ近付いてくる。
(何だ? 筒蛇じゃねえ。これは……単車の音……?)
ビスコがそこまで考えてぎくりと肝を冷やし、背後の崖を見上げる、その瞬間に。
「あァァかァァぼしィィィィ─────ッッ!!」
女修羅のごとき雄叫びが、ビスコの耳を貫いた。
白色の単車が、垂直に近い岩壁に嚙みつくようにして、凄まじい勢いでビスコへ降り迫ってくる。銀色の鉢金から伸びる黒髪が、中空に真っ直ぐな黒線を引いている。
引き抜いた鉄棍を殺意に光らせるその姿は、忌浜自警団長、パウーその人であった。