「おそらく自警団にも、黒革のスパイが潜んでいるからな。今頃はやつも、錆喰いの薬効のなさに焦っているころだ。もし、私が完治した姿を見せれば、カラクリを暴くために、どういう手段に出るかわからない」
朝日に美貌を輝かせ、パウーがにこりと笑った。
「平気だ、ミロ。ジャビ老を治したら、私も打つ。二手に分かれて、黒革の目が私へ向くうちに、虚をついてお前達が仕掛ける形にもなる。そのほうが、黒革の手駒も減るだろう」
パウーはそこで、仏頂面で横を向いているビスコに向き直り、言う。
「赤星。本当に黒革を相手取るなら、甘く見るな。奴はとにかく臆病で……それゆえに、慢心のない奴だ。自警も、他県も、奴には手が出せない。あの手合いは、悪辣で手強いぞ」
「……錆喰いの秘密に気づかれれば、キノコ守りの血が狙われる。どっちにしろ討って出るしかねえ」ビスコは首を一度、ごきりと鳴らして、こともなげに答えた。「同族やらジャビやら、お前やらをいちいち守ってやるより、野郎を殺したほうが早いってだけだ」
「……認めたくはないが。今、ミロは、お前の隣にいるのが一番、安全だ。ミロは私の命だ。お前に託して、信じる。必ず、守ってくれ」
「……娘を嫁に出す関白オヤジか? てめーは」
ビスコはパウーの物言いに、なんだか妙に気圧されて、辛うじて言い返した。
「まあ、お前も気をつけろ……せっかく助かるんだ。こんなとこで死んでも、つまらねえだろ」
パウーはそこで、眼前の狂犬面をじっと見つめ……ミロがむずかるアクタガワの世話に向かった隙を見て、ビスコを手招きした。
「……これを、お前に」
手渡したのは、先ほど弟から受け取ったばかりの、輝く錆喰いアンプルである。
「何だ。こりゃ、お前のアンプルだろ! ミロが、お前のために……」
「あの子を守れるのは、もう私ではない。お前なんだ、赤星。これから黒革と決着をつけるなら、尚更だ。お前の、その、腹」
包帯の厚く巻かれた、ビスコの脇腹を見る。
「わずかな錆に見えるが、おそらく、自然のものより進みが速い。いざとなったら、使え」
「パウー、お前……」
「ようやく、名前を呼んだな」
戦士パウーの、滅多に見せない潑剌とした笑顔が、朝日にまぶしく輝く。
「さっさと、黒革を倒して。私を治してくれれば、それでいい。お前の強さを信頼している。それだけのことだ」
「……わかった。そこまで言うなら、受け取る」ビスコは頷き、戻ってくるミロに隠すようにして、すばやくアンプルを懐にしまった。
「まあ、でも。どうせすぐに俺が勝つ。ちょっと順番が変わるだけだからな。恩に着せようとしてるんだったら、カウントしねえぞ」
パウーはそこで、ビスコを見つめたまま、ちょっとぞくっとするほど艶美に微笑し、固まるビスコの顎に手を添えて、顔を近づけた。
「わたしとの、はじめの戦いを、覚えているか?」
吐息まじりの、囁くような声。
「錆びた私を見て、美人と言ったのは……お前ぐらいだ、赤星」
ビスコはあまりのことに驚愕し、目を逸らすことすらできない。
「お前もよく見れば、凜々しい……可愛い顔をしているよ」
「なぁっ!?」
思わず、飛びすさったビスコへ向かって、はははは、と美しい声が笑う。そのまま、パウーはアクセルを入れて、朝焼けの子泣き幽谷を走り出す。
「私の好みには、幼すぎるがな!」
去り際の捨て台詞に、完全に手玉に取られたビスコは歯嚙みし、なんとか言い返してやろうとするものの、もつれた舌はうまい言葉を吐き出せず、結局地平線の向こうへ消えるパウーを見送りきってしまった。
横で、なんだかニヤついているミロの気配を察し、絶対にそちらを向くまいとするものの、ミロのほうがくるくると回り込んでビスコの顔を窺いにくる。
「オウコラ! 何だてめえ! 文句あんのか!」
「ねえービスコさあ、彼女いるの? いないんでしょー。どう? うちのパウー」
「やだよ。あんなゴリラ」
「ドキっとしてたじゃん」
「してない」
「Eカップっす」
「うるッせえんだよ、なんなんだてめえ急にぃっっ!!」
アクタガワが暇そうに歩いてきたのを見て、ビスコは真っ赤な顔を見られまいと横を向き、強引に話を切り替える。
「パウーが言うには、あの飛びアンコウは霜吹駐屯地にしまってあったやつらしい。遠回りだけど、沼地を通って霜吹へ向かおう。そこで、錆喰いを取り戻すからな」
「うん、わかった……!」
ミロへ言って一度頷くと、ビスコはいつもの身軽さで跳ね、アクタガワの鞍へ飛び乗り……
そこで、ずるり、と。
足をもつれさせて転倒し、草の上に倒れる。ビスコは、自分でも何が起こったかわからないような顔で、数回、咳き込み、何度か血を吐いた。
「ビス……コ……!」
不思議そうに覗き込むアクタガワの前で、ビスコの瞳は、驚愕と落胆、その両方を示すように見開かれている。アクタガワに、乗れなかった。その、些細な、わずかなズレが、明確に自身の身体の衰え、蝕む毒を痛いほどビスコに自覚させた。
耐えかねてミロが走り、ビスコに肩を貸す。ビスコは少し笑って、口元の血を拭った。
「……くくく。悪いな、手間かけて」
「そんなこと、ない……」
「あのざまじゃ。もう、お前を、怒鳴れねえな」
「そんなこと! ないよっっ!!」
泣き出さんばかりのミロを元気づけるように、ビスコはミロの腕をどけ、今度はすばやくアクタガワの鞍へ飛び込んでみせた。追って乗るミロに手を貸して、呟くように、言う。
「平気だ、ミロ。俺は強い。どんなに傷だらけでも、熊が強いのと同じだ。身体が、毒に咬まれても。魂には、傷ひとつ、ない。俺の中で変わらずに、脈打つのを感じる」
「……。」
「行こう」
歩き出すアクタガワの上で、ミロは静かにビスコに寄り添い、ただ、想った。
(こんな事、言ったら……)
(怒るかな? ビスコ。)
(でも。)
(きみが、僕のかわりに受けた、傷の分だけ……)
(今度は、僕が、きみの盾になる。)
(きみの槍になる。)
(僕の、ちっぽけな身体と、こころのありったけを賭けて、)
(きみの道を遮る、すべてから、きっと……)
(きっときみを、守る……。)
子泣き幽谷に朝日が輝き、アクタガワをオレンジ色に照らした。陽光に照らされた二人の少年の顔は、傷だらけで、美しく……何かひとつを貫くような、尊い覚悟に染められていた。