雲間から陽が射して、チョコレート色の鮮やかな泥を照らした。
見渡す限りの沼のあちこちには、苔むした岩が顔を出し、その上を青々とシダが這って、ささやかな花をつけている。
北霜吹湿地帯は、霜吹中央部に吹き荒れる吹雪の磁場から逃れて、比較的穏やかな気候を保っている。永久の冬から逃れ出た霜吹帰りの行商人達は、この羽虫の舞い踊る一面の沼地を見て胸をなでおろすというのだから、聞く人間によっては、面白い話といえる。
そこに。
行き倒れた旅人の亡骸が、ひとつ、伏している。俯せに倒れ込んだ身体はその大半を泥に覆われてしまっており、その表情を窺い知ることはできない。時折起こる静かな風に、思い出したように外套がはためくだけである。
ざばり、と、泥を泳ぐようにして、一匹の沼ブタが亡骸に近寄った。用心深く、その半身は泥の中に埋めたまま、忙しなく鼻を動かして亡骸の匂いを嗅いでいる。やがて、もう一匹の沼ブタが泥を搔き分けて浮き上がり、お互いを牽制しあいながら、獲物の周囲を周りはじめた。
一匹の鋭い牙が、ふとした拍子に亡骸の腕に引っかかり、その肉を薄く裂いた。露出したピンク色の脂肪から、真っ赤な飛沫が飛び散り、沼地に似つかない血の香りが、一瞬、そこにふわりと漂う。
そこでとうとう飢えた沼ブタ達は、一様に大口を開けて亡骸を食い千切りにかかった。
泥が舞う。
食いついてきた沼ブタの牙をひっ摑んで、亡骸が躍り上がった。
沼ブタの重いはずの身体が、綿のように宙を舞う。沼ブタの身体はそのままぐるりと弧を描き、手近にあった岩に金槌のように叩き降ろされ、その頭を強かに打って昏倒してしまった。
ブギィーッ、と、沼ブタの悲鳴が響く。半狂乱になり逃げ出すもう一匹へ向かって、亡骸だった少年が、すばやく背中へ手を伸ばす。
短弓が、ずらりと、少年の背から抜き放たれた。ぎりぎりとしなやかに、しかし力強く引かれる矢のその向こうで、青い眼がきらりと光った。
「しッ!」
少年は短く息を吐いて、放つ。泥に潜ろうと、沼ブタが一瞬跳ね飛んだその隙、そのどてっ腹に、空色の矢が閃光のように突き刺さった。沼ブタはそのまま泥の上をごろごろと転がってゆき、ぼぐん! と音をたてて、破裂した。少年の放ったキノコ毒の矢が、沼ブタの全身に瞬く間に回り、その肉を苗床にして、真っ赤な傘を咲き誇らせたのである。
少年は、矢を放った姿勢のまましばらく静止していて、鼻をひとつ「ず」と啜った。そうして、顔の泥を袖でぐいと拭って、そのパンダ顔に、元気いっぱいの笑みを見せた。
「やった! 二匹!」
子泣き谷を出て数日。旅は結末の見えぬまま、徐々にその終わりを近づけている。
旅を始めた頃と比べて、ミロの成長は目覚しいものがあった。弓、蟹乗り、自然術、そのいずれも元より才覚を備えていたであろう勘の良さである。加えて、もともと持っている医術の才が、キノコ守りの中でも傑出した戦士へとミロを変貌させていた。
「これなら……かなり、滋養がつくぞ。最近は、野菜ばっかりだったから……」
ミロは狩った沼ブタを綱で縛り、拠点としている旅小屋へ引きずっていく。子泣き幽谷からの帰り道では、細々と植物などを食いつなぐばかりで、ロクな栄養が取れなかったため、やっと相棒に滋養のあるものを作ってやれる、というのが、ミロの当面一番の喜びであった。
ビスコの傷は、悪い。
外見にほとんどその様子は見えないが、それはビスコの強靭な意志力によるもので、ただでさえ重症だった重油ダコ戦の後、筒蛇からミロを庇って牙で背中を裂かれており、そこから筒蛇の持つ遅効性の毒が染みて、今もビスコのはらわたを蝕んでいる。
その上、黒革が置き土産のように放った錆びの弾丸も、抜き取った跡の傷口を錆で蝕みつづけていた。動く度に、相当の苦痛が彼の中に渦巻いていることは、側で旅をともにしているミロにも、痛いほどに分かる。
ミロが料理をこしらえる度、ビスコは美味そうに食ったが、夜中にミロに気付かれないように起き出しては、そこらで血混じりの飯を吐いた。ビスコに鍛えられたミロの鋭敏な感覚は、否が応にも目を覚ましてそれを感じ取ってしまい、その度に胸を締め付けられ、医者としての自分の無力を思い知らされるのだった。
(退屈してるかな。また、出掛けてなきゃいいけど)
ミロは子泣き幽谷以降の旅路で、ビスコの身体の負担になるような作業は一切、させなかった。狩りや、キャンプの安全の確保、アクタガワの世話も自分でこなし、ビスコには一日四回の治療も欠かさない。
流石に、何もさせないというのもかえってストレスになりそうなので、ビスコには自分の調剤機を与え、ジャビが教育を断念したアンプル調剤の基本を教えている。ビスコは算数ドリルを前にした小学生のようにそれを嫌がったが、「一流のキノコ守りはみんなできるって聞いたけど」とミロが侮るように言ってやれば、ムキになって調剤の勉強にかかったりするし、ミロもビスコの操縦は慣れたものであった。
実際、ビスコとて、毒専門とはいえ菌術の達人ではある。
錆喰いの調剤自体は、ミロが突き止めた調合式(ほぼ、ひらがなで書いてあげている)をなぞって真面目に学べば、簡易なものなら習得できる技能のはずではあった。
「ただいま。ビスコ、ブタを二匹も取ったよ! 今日は、焼き豚にできるよ」
できるだけ元気な笑顔を作って、旅小屋を覗き込むミロ。そこに、相棒の姿はない。手洗いや、物置を覗き込んでも、気配はなかった。
(……まさか、留守に、狙われて……!)
さあっ、と、自分の血の気が引いていくのがわかる。
沼ブタの綱を放り出し、弾かれたように駆け出そうとする、ミロの背後から……
「おいおい。また行くのか? 二匹獲りゃ十分だろ」
「……ビスコ!」
アクタガワの背に揺られて、ビスコが拍子抜けするほど元気そうに現れる。
一方でアクタガワには、いつもの冷静な彼に似つかわしくなく、憮然とむくれた雰囲気が(蟹といえど一緒に過ごせばそれぐらいの空気はどうやらわかるもので)漂っている。
「こいつよー、沼ガニのメス見つけて、勝手に走ってっちまって」
ビスコは可笑しそうにげらげら笑うと、アクタガワの頭をはたいた。
「自慢の大鋏がねえから、フラれてたよ。百人斬りのアクタガワさんも……くく、さ、流石に、短小バサミじゃ、おなごは捕まえられませんかあ」
そこで、アクタガワにもビスコの嘲笑が伝わったらしく、再生しかけの大(中?)バサミでビスコをひっ摑むと、ミロの後ろの泥溜まりへと投げ捨てた。ビスコは笑いながら泥を払って、ふと、笑いもせずに自分を見つめるミロを振り返った。
「……あんなに、身体を動かしたら、だめって! 言ったのに! どうして、言うこと聞けないんだよ!」
「なっ、何だよお前。しょうがねえだろ、アクタガワが勝手に動いたんだ。第一、あんな理科の実験、三時間も四時間もやらされてみろ。身体の前に、脳味噌が腐れちまう」
「……心配、したんだよ、ビスコ」ミロは上目がちに、恨めしげな視線をビスコへ投げた。
「……どこかに、行っちゃったのかと思って……」
「あ──ん?」