そこで、どうやらそこそこに機嫌を損ねたアクタガワがのしのしと歩き出すのを、慌ててビスコが追いかける。
「ちょっとビスコ、狩りに行くつもり!?」
「アクタガワが怒ったら、たらふく食わしてやらねえと、許してくれねえんだ。ちょっと、沼溜まりで、ハゼでも漁らせる!」
「だめだよ! バカっ! 帰ってきてっ!」
「十分かからねえって。焼き豚にするんだろォー。皮剝ぎめんどくせえから、任せるぜ」
それでビスコは、自分の身体を思い悩むミロの気持ちなど全く存ぜぬ風で、怒れる大蟹をなかなか器用に操って沼地の向こうへ走っていった。
「……っ、っ、バカやろーっ……」
ミロは、唇を嚙み、目尻にわずかに涙すら滲ませてそれを見送った。それで、帰ってきたらしばらく口を利いてやらないことと、その詳細なルールをあれこれと頭の中で決めながら、沼ブタを旅小屋へずるずると運び込むのだった。
旅小屋に他の旅人はなく、貸切であった。小屋の隅に備え付けのテレビが点灯し、東北放送の一つしかないチャンネルを映している。
ミロは短刀を器用に操って豚の皮を剝ぎながら、横目でぼんやりそれを眺めている。画面では、灰色の猫が小さいネズミを追いかけるアニメをやっていて、猫は哀れにも悪賢いネズミの奸計にはまり、その尻尾をネズミ取りにはさまれて悲痛な悲鳴を上げた。
猫贔屓のミロがそれに顔をしかめて、電源に手を伸ばす、それと同時に……
雑音とともに画面にノイズが走り、映像が急に切り替わった。
『えーテステス。割れてるぞ、おい。下げろ。あ。白飛びしてるじゃねえか、バカ。自動にしろ……そうだ素人はそれでいいんだ。えー失礼。忌浜県庁の公式放送、知事の黒革です』
びくりと手を止める。聞き覚えのある、落ち着いた、しかし肝を底冷えさせるような声。
『手配犯赤星ビスコ、並びに猫柳ミロへの、定時勧告だ。東北放送の圏内にいるのは、間違いないと思うんだがなあ……届いてることを祈る』
黒革は言いながら画面の中央に立ち、咳払いとともにネクタイを締めなおす。
『猫柳くん。きみの姉は美人だが、バカなので、赤星のジジイのほうをオレが張ってるとは想定しなかった……随分暴れられたが、自慢の棍術も、人質に銃を向けられれば、これだ』
黒革が、何か人を縛り付けた十字架のようなものを、カメラの前へ引き出す。そこに縛り付けられているシルエットにミロの目は釘付けになり、声にならない悲鳴を喉の奥で上げた。
『バカの特徴の一つに喧嘩が強いというのがありまあこの女は余程バカなのかめちゃくちゃ強いんだ。オレの頭なんか、一息にカチ割りそうなもんだが……不思議なことに、憎きキノコ守りの老いぼれの命が、惜しかったらしい。……おい、何か言いたいことがあるんだろ?』
近づけられるマイクに、パウーが顔を反らす。口の端から血の筋が垂れ、手指も、爪を剝がれたのだろうか、目を背けたくなるほど痛々しく腫れ上がっている。あまりにも、惨い拷問の跡が、パウーの全身のそこかしこから見てとれた。
『なんだよ。ないのか? おかしいな。そんなはずはない……』
黒革は言いながら、燃える骨炭ストーブの中に突っ込んである鉄の焼きごてを摑み、何の躊躇も、何の前触れもなく、それを肌着の上からパウーの脇腹に押し当てた。
『うあああああ─────ッッ!!』痛烈な悲鳴と、肉の焦げる音が、ミロの心臓を殴りつけるように響き渡る。黒革はなんの表情も浮かべずに、淡々とパウーに問いかけた。
『なあ、本当にないのか? 言いたいこと。いや、あると思うぞ。思い出してくれ』
『ミ……ロ……!』
『おおよかった。ありました』
『赤星と、逃げろ……! ジャビ老は、私が必ず、逃がす! 私にかまうな、赤星なら、あいつなら! 必ず、お前を……があああァッ! あ─────ッ!!』
『出たぞ~~アドリブが。台本通り、やってくんねえとさ。困っちゃうだろオレが』
『黒革は、外道だッ! 忌浜は腐敗の坩堝だっ、おまえたちの、生きる場所じゃないっ』
『うるせえなあもう。なあ、頼むからブック通りにやってくれよ。オレだって、美人のツラぁズタズタにするような真似、したくないんだ』
言いながら、じりじりと焦げる焼きごてを、錆びていない滑らかな頰へ近づける黒革。パウーは荒い息を二度、三度と吐いて、俯いたまま……
口をにやりと歪めて、くくく、と、低く、笑ってみせた。
『台本、通り、だと? ははは。その、お前の台本通りに、赤星も、死んでくれると。本気で、思っているわけだ、お前は? こんな、錆び腐れた女一人、思い通りにできないで……』
『……。おまえ、それ以上……』
『逃げるべきなのは、おまえの方だよ、黒革』
傷だらけのパウーの、挑むような視線が、黒革のそれとぶつかりあう。
『赤星は強い。おまえごときの考えること、すべて、突き破って、お前を殺すぞ』
『うるッッせえんだッこのアマはーッッ! オラアッ! 錆びメスがっ、死ねッ、死ねェッ』
黒革の拳が、肉を殴り抜ける鈍い音が響く。
音はしつこいほどに長く続いて、パウーがぐったりと項垂れて苦悶の声すらあげなくなったころ、ようやくおさまった。
黒革は荒く息をつき、震えながら、卓上にあった錠剤の瓶を手にとってざらざらと口に流し込んだ。ぼりぼりとそれを嚙み砕き、水で流し込んで、ようやく人心地つく。
『ふう。ふう。なんて、ひでえ女なんだ。眠れなくなるようなこと、平気で、言いやがって……あっ、おい見ろこの袖んとこ。血が……あーあ。アルマーニが。まあ、あんな調子だ。大した女だよ、お前たちの場所も……《錆喰い》の正体ももちろん、吐かなかった』
黒革はそこでカメラの前に、橙色に輝くアンプルを取り出し、きん、と爪で弾いた。
『素晴らしいアンプルだ。知ってるってことだよな? 猫柳。本当の錆喰いの秘密をよ。あんな申し訳程度の薬効で、幻のキノコのわけがねえもんな……』
そこで黒革は声のトーンを落とし、その真っ黒な瞳をカメラへ近づけて、囁くように言った。
『今月末日の日曜、おお、なんと大安吉日だが。その日にこの女を殺す。わかるよな?
交換条件は……①、錆喰いの薬効の正体。②、隣にいる、赤い髪のチンピラ。
それで、お姉ちゃんとトレードしよう……おお、あれだ、オレの秘蔵の漫画コレクションもつけるよ! 火の鳥とか……ほら、スラムダンクもあるぞ。あ、これ9巻までしかねえのか。え? もう終わり? なんだ。つまらん。
そういうわけで。相棒との次のデートは、忌浜自警の、霜吹駐屯地で頼むぜ。頼むから早く来てくれよな。娯楽もなんにもねえ霜吹まで、わざわざ出張してきてやってんだからさあ。
来てくれるまで、何度も再放送する羽目になるからよ~。早く来てね。
ほんじゃ。』