ミロの右手は、黒革の喉の寸前で、腕ごと凍ったかのように止まっていた。滝のような汗と、口から溢れる血を顎からぽたぽたと零しながら、ミロは全身の力を突っ張るようにして、腕に込める。それでも、短刀はあと一歩のところで、黒革の喉へ届かない。
(……何、か、毒を……!)
「糸繰り茸……というキノコがあって」黒革は静かに、ミロの見開いた目をやや冷めた目で見つめながら、言う。「名前通りのキノコ毒だ。お前の筋肉に根を張った菌に対して、オレの脳に埋めたチップが電気信号を送ると、思考を反映してその通り動く……オモチャみたいにな」
黒革が、何気なく取り出した小さな端末をいじると、ミロの右腕が徐々に降り、やがて自らの喉へ切っ先を突き当て、わずかに血を零した。
「う……あ……!」
「凄まじい技術だろ? 誰も褒めてくれないが……。そこに転がってる、オレの手駒もこれで作った。こんな便利な技術を、あの、キノコ守りどもは外法だと言って認めなかった」
黒革はミロへ向けて端末をひらひらと振り、何か考え事をするように部屋をうろつき回る。ストーブが骨炭を燃やす音と、ミロの小さく荒い息だけが、部屋にしばらく響いていた。
「……猫柳」やおら、黒革はぐいとミロの顎を摑み、その顔を覗き込む。「お前を尊敬するよ。オレから腹を割ることにする……まず、オレは、本当を言えば、錆喰いの薬効などというものには、興味はない。ただ、独り占めは、したいんだよ……。今、日本中の行政機関が、何の収入を当てにして予算を組んでるか、きみ、わかるか?」
「……っ」
「そうだ。政府支給の、サビツキアンプルだよ……。世界と金は、錆びた人間の、延命への欲求で回っているんだ。そこへ、君の作る夢の新薬が現れて、哀れな人々を救ってしまったら……。オレのような、旨い汁を吸って生きてる悪人どもは、どうなる? 困っちゃうよな? 当然ながら」
「外、道……!」
「よーしよし元気が戻ってきたな。そうでなくてはつまらん」黒革は、話の中で徐々に怒りを取り戻し、痛みを殺してもがくミロを見て、嬉しそうに「くく」と笑った。
「本物の錆喰いアンプルがオレの手にあれば。オレも中央政府の手駒、便利な悪徳知事ってだけじゃなくなる。錆喰いによって、忌浜が、政府と同等以上の交渉力を持つことになる……。いや、すまん、退屈だよな? 仕事の話は。まあいい。この際、赤星の首は勘弁しようじゃないか……。ひとつだけでいい、教えてくれ。錆喰いは、どうやって、変質する?」
「根こそぎ、狩り尽くす、つもりだな……!」
「聞いたことだけ答えろッッ! でなきゃ生きたまま豚に食わす。言えッッ、猫柳ぃッ」
ミロは歯を必死で食いしばり、震えかける身体を抑えて、ありったけの意志を込めて黒革を睨んだ。やや青ざめたミロの表情は、それでも決然と、死に向かって己を捧げるような、清廉な気風に満ちている。
それが、黒革の、逆鱗に触れる。
「姉貴と、同じ顔を、しやがる」それまで、余裕を崩さなかった黒革の口元が、苛立たしそうにひん曲がる。黒革は、自分の弓を構えて、ぎりぎりとミロの頭へ向けて引き絞った。
「では、人形になってもらうか。脳味噌に毒を咬ませれば……案外、うまく喋るかもしれん」
ミロは口を結び、矢を見据える。自分の生き様が、間違ったとは思っていない。ひとつだけ……大切な友達と、あんな別れ方しかできなかったこと。それだけが、心残りであった。
(ビスコ……)
最後に、できるだけ、ビスコの姿を思い描こうとして、ミロは目を閉じる。
ずがん!
轟音が響き、壁をぶち破って、何かが一直線に部屋を貫いた。
それは放たれた黒革の矢を横合いに圧し折って、壁に備え付けのストーブに風穴を開け、外から吹雪を部屋に呼び込んだ。
強弓である。
そして、そんな矢を放つ人間を、ミロも黒革も、一人しか知らなかった。
「お前が、ミロにもう一矢放つ前に」
崩れた壁を蹴破って、ぬう、と、赤髪の男が部屋へ入ってくる。吹き込む風に、外套がばさばさと揺れた。
「俺は、お前を矢ダルマにしてやることができる。今、ミロをこっちへよこせば、歯ァ全部折るぐらいで、勘弁してやる」
「ビスコ……っ!」
「出たぞー。タキシード仮面様が」
黒革は、ミロがそれまで見たこともないような、興奮と歓喜、恐怖の入り混じった表情で、ミロとビスコの間に立ちはだかった。
「こないだより顔色が悪いな、赤星。毒に咬まれてるのが、遠目に解るぞ」
「それが、何か関係あるか? 怪我したサメになら、イワシが勝てるとでも言いたいのか?」
ビスコは、こともなげに首を一度、ごきりと鳴らしてみせる。
確かにやや青ざめた顔をしてこそいたが、その眼光は決して萎えることなく、翡翠の色に輝いている。その身体が毒に食われていようとは、傍目には信じられないであろう。
(だが……!)黒革の黒い目が、興奮に歪む。
「今なら。今のお前になら、勝てるかもしれん……キノコ守り最強の男に、正面きって……!」
「なんだよ、その目のクマは。寝不足になるほど、俺が嫌いなのか?」
ビスコが不敵に笑った。
「理由はどうでも、好きなだけ恨めよ。でも俺のほうは、すぐにお前を忘れるぞ」
(こいつ……!)
相棒を人質に取られながらも崩れないビスコの余裕に、黒革が唸る。主導権を握れない苛立ちが、人喰い赤星への恐れとなって膨れそうになるのを、食いしばって抑える。
「ここ十年来の、キノコ守り迫害の原因が、オレだと言ったらどうだ……?」
汗ばみながらも、にやぁ、と笑みを作って、黒革はとっておきの言葉を繰り出した。
「キノコが錆をばらまくなんて迷信を、日本中にばらまいたのが、オレだと言ったら。国に、キノコ守りそのものを、売って。何の罪もないお前達を踏みつけて、美味い飯を食ってるのが、オレだと言ったら! それでも、お知り合いになれねえか、赤星ぃッ!」
ミロは、もうほとんど心臓を鷲摑みにされたような気持ちでその駆け引きを眺め、ビスコに視線を移す。
ビスコの表情は、何ら変わらない。
しばらく間を置いて、吹き込む風に寒そうに鼻を「ず」と啜り、やや鼻声で、こともなげに答えた。
「そうか。助かったぜ、言ってくれて」顎を上げて、嗤うように口を開ければ、犬歯がぎらりと覗いた。「知らねえうちに、片手間で仇討ちするとこだった」
「……シカの首、みてえに! 壁に飾ってやるぞッ! 赤星ィーッ!!」
黒革は、ビスコの言葉の終わらぬうちに弓を構えていて、それでもなお、ビスコの一弓が早かった。ビスコの矢はさながら真空のドリルのように空気ごと削りえぐって、黒革の左腕を肩口からまるごともぎ飛ばし、そのまま部屋の壁をぶッ貫いていった。
「ぎゃ、ああ、ぐおああーッ!?」
「気が済んだか? 俺に勝てそうかよ、黒革。ええッ!? どうなんだコラァッ!」
「ビスコ、避けてッ!」
どすん、と。鈍い感触が、ビスコの右腿を捉えた。
ミロの言葉に咄嗟に反応して飛び退ったが、その動きを読んだ一弓である。
「あ、うあ……うわああああ──っ!!」
ミロは、この世の全ての恐怖が自らに降りかかったかのごとく、慄き、叫んだ。
ビスコの腿を貫いたのは、まさしく、自分の撃った矢だったからである。
(糸繰り……!)
もとより、矢の一本で怯む男ではない。ビスコは咄嗟に体勢を立て直そうとするが、右腿を襲う違和感に、思わずバランスを崩し、膝をついてしまう。
その、逆の腿に、どすん、と、もう一本の矢が突き立つ。