ミロの声にならない叫びが、吹雪の吹き込む部屋に響き渡った。泣きじゃくるミロは、そのままよろよろと立ち上がる黒革の前に立ち塞がり、ビスコの射線を塞いでしまう。
「とんでも、ねえ、矢を、撃ちやがる」黒革は息も絶え絶えに、ミロに寄りかかって、肩口を押さえながら言った。「一度、吹っ飛んだ腕で助かった……義手じゃなければ、死んでた」
「ミロに、何を、撃たせた、てめえ……!」
「こないだ、食らっただろ、赤星」黒革はこそこそと、ミロの後ろに隠れながら言う。
「錆び矢だよ……錆び風の毒性を凝縮した、毒矢だ。弾と同じで高いんだが、仕方ない。お前に、糸繰りが効く気がしねえからな」
黒革の言う通り、ビスコの腿と膝は、服ごとびきびきと錆に覆われて固まってゆき、その動きを奪っていた。弓を射ようにも、ミロを盾にされては、この射線からは手が出ない。
「うおお……やべえ、怖え……見てみろ、あの眼をよ。まだどんな手を持ってるかわからねえ……もう一発いっとこうぜ、猫柳……今度は、そうだな……腹……」
「うわああああッ! やめろっ、やめろおっ、撃たせるなっ! いやだ、いやだいやだあああっ、やめてっ、お願いだから、僕に! 僕に撃たせないでええ─────っっ!」
黒革が端末をいじれば、ミロはビスコの教えた美しいフォームで弓を引き、それをビスコへ向ける。矢の先端には、どす黒い錆の塊がじくじくと蠢き、饐えた悪臭を放っている。
「おいおい猫柳。撃たせないで、って、ガキじゃねんだからよ。頼み方があるよな。オレみたいな偉い人には。ん? どうするんだ?」
「撃たせないで、ください……黒革さん……!」
「黒革しゃま、撃たせニャいでくださいニャン、だ」
「ぐすっ……! ひ、ひっく……! く、黒」
「ターイムアップ」
ぱしゅん! と、放たれた矢は、そのままビスコの脇腹に突き刺さる。傷の重い箇所だ。ビスコの口から、びしゃ、と血が噴き出し、遠くミロの顔までも飛んで、その涙に混じった。
「うえ、え、うええ……! うえええ……!」
「なんだ。悲しいか? 舌が、嚙めないか。そりゃそうだ、そう作った……自殺なんて馬鹿げてるぞ、猫柳。赤星だって、必死で生きてるだろ」
「お願い。ビスコを撃たないで。僕を、どうしてもいいから。切り刻んでも、豚に食べさせてもいいから。ビスコを助けて……! おねがい、します……」
「だったら、お前に切り札があるよな、猫柳……錆喰いの、秘密を、教えろ」
「ミロ……! 言うなッ!」
「言えッッ、猫柳! 次は相棒の、脳天をブチ抜かせるぞッ」
ぎりぎりぎり、と、自分の手が弓を引き絞る。
さんざん泣き腫らしたミロの頰に、新しい涙が一筋、つ、と伝った。
「……キノコ守り、の、血だ」
「ミロ!」
「純血の、キノコ守りの血と、錆喰いを……ガーキューブ調合式で調剤する……それで、錆喰いは本来の薬効をとりもどす。錆を、喰い溶かす、キノコに……」
「よくできました」
ビスコが、唇を嚙んで目を伏せるのを見て、ミロの目から止めどなく涙が溢れた。
先程の、恐慌の涙とは違う、慚愧と悔恨の涙。ミロはこの数分で、彼の穏やかで優しい心が耐えうる、その許容量いっぱいの涙を、流しきっている。
「それで……猫柳」
黒革はミロの横に並び、その顔を覗き込んで、ややばつが悪そうに言った。
「当然……わかってたわけだよな? このまま、お前ら二人を、生かして……オレが、帰すわけがねえってことは。そりゃそうだろ? だって。こんな、危ねえ……見逃したら殺しにくるような奴らを。生かしとくわけねえよな?」
「う……ひっく……!」
「ならいいんだ。プレゼントだ、猫柳。赤星だけは、苦しませずに殺してやるよ。相棒である、お前の手でな。美しく悲しい、映画的なシーンだ。ほら、弓を引け……」
ミロは、涙で霞む目で、ビスコを見つめた。
黒い矢先が、ビスコの脳天に合い、ぎりぎりと引き絞られている。
その、眼光が。
その、全身を錆びつかされてなお、少しも衰えず光る、緑色の光が。絶望の淵にへたりこむミロの心に、ゆっくりと、あたたかく火を灯す。
(ミロ)
双眸が、言った。
(撃て)
そこで、黒革の絶望の罠に、九割九分まで浸かっていたミロの頭脳が、電撃的に閃いた。わずかに、ぴり、と、ミロに張り詰める生気を感じて、黒革が訝しむ。
「おい……ちょっと待」
ぱしゅん! と、放たれた矢がビスコへ向けて飛び、その脳天を吹き飛ばす、その寸前に。
ミロとの阿吽の呼吸で身体を捻ったビスコが、その歯で、襲い来る鏃を、がぎん! と食い止めたのである。ビスコは勢いをそのままに身体を捻り返し、錆び矢をブーメランのように口からブン投げて、黒革の右目を、こめかみごと抉り取った。
「!!?? ぎゃああッ、うお、おあああ──ッ」
黒革は、鉄砲水のように血を噴く右目を押さえながら狂い悶え、それでもその執念で、手に持った端末を離そうとしなかった。
喉から絞り出すような憤怒の雄叫びをあげて、握りつぶさんばかりに端末のボタンを押し込めば、ミロの手が弓を離して短刀を引き抜き、自らの喉笛をかき切ろうと、その切っ先をつぷりと肌へ食い込ませる。
「ミロ!」
がぎん! と鳴る鉄の音とともに、黒革が掲げた端末を、一筋の閃光がはじいた。
閃光は二、三と連続してひらめき、身体を翻して逃げる黒革を追って、床に突き刺さる。そこから真っ白なキノコが、ぼん、ぼん、と風船のように咲き誇り、黒革の視界を遮った。
「この矢は……!」
「逃げい、ビスコ! ここらは、こ奴の手駒で囲まれとるぞ!」
「ジャビ!」
外套をはためかせて部屋に飛び込んできた師匠の姿を認めて、ビスコが叫んだ。
ジャビが手早く、手製の小さな薬矢をミロに刺すと、まるで糸が切れたようにミロの身体は脱力し、悪夢のような糸繰り茸の呪縛から逃れた。
「っっぷはあっ! はあ! はあ……! じゃ、ジャビさん、ありがとう!」
「黒革め、外法の術だけは冴えおるの。……ワシの菌術にゃ、及ばねえがな。ウヒョホ」
歯をむき出しにして笑うジャビに、ミロが縋るように尋ねる。
「ジャビさん! 姉が、パウーが! どこにも居ないんですっ、手掛かりもなくてっ」
「そらそうじゃ、ワシがもう助けた。糸繰りがワシに解けぬと思うあたり、黒革もガキよ」
ジャビは言いながら、ビスコの膝に刺さった錆び矢の跡を見て、眉間に深く皺を寄せた。
「ただ、錆び矢はどうもならん。膝はビスコの羽じゃ、小僧、必ず生かして、治してくれるな」
「はいっ!」
「逃げろってのか……! ジャビは! てめえはどうする気だ!」
ジャビは次の矢を番えながら、そのぎょろついた目をくるくると回し、二人に「ニカッ」と笑いかけた。
「殿がおらんでどうする。わしゃ、最後に逃げるワイ……それにな」
いつの間にか部屋には、通気口や床下から幽鬼のように溢れ出した黒スーツ達で満たされつつあり、身構える三人へ、徐々にその間合いを詰めてきている。
「礼をしてやらにゃ。息子を傷物にされてよ。黙ってられる親が、いるか?」
「ジャビ!」