「てめえは撃てねえ。その豆粒みてえな度胸じゃ、じじい一人に啖呵きるのが精一杯よ」
「老いぼれェ───ッ!!」
鼻血を噴いて怒り狂う黒革の前に、一人の黒スーツが進み出て、ジャビを思い切り殴りつけた。二度、三度、殴りつけるたび血が飛んで、そのウサギの覆面にべったりと張り付く。
「おい、おいおい、バカ。もういいよやめろ、死んだら困る。……そうだ」黒革は、そのウサギ覆面のあまりの暴威に怒りを削がれて、半ば呆れたように言うと、懐から短刀を抜いてそれを床へ放った。「弓を引けねえようにしてやれ。勲章がひとつ減りゃ、多少は堪えるだろ」
ウサギ覆面は、床に転がされた短刀を緩慢な動作で拾い上げると、ジャビの手を床に叩きつけ、そこへ宛てがった。
「ジャビ。キノコ守りにその人ありと言われた、弓聖の指だ。落とすにゃ惜しいだろ。うんと言えば指は無事だぞ。十数えてやる……十、九」
「やれや、黒革。老いぼれ一人の指切って、今日だけでも、ぐっすり眠りゃいい」
「ゼロだ」
黒革の声で、ウサギ覆面は短刀を振りかぶり、思い切り振り下ろす。
ばづん!
短刀が一息に断ち切ったのは、ジャビの両手を繫いだ、手錠そのものであった。瞬間、覆面とジャビはそれぞれ逆の方向へ飛び、壁際に並んだ黒スーツ達へ飛び掛かった。
黒革が怯んだ数秒の隙に、ウサギはその身体と短刀を閃かせて瞬く間に五人、六人と黒スーツの喉元を切り裂き、一方のジャビは老人と思えぬ脚力で既に三人の顎を蹴り砕いている。
ようやく体勢を整えたスーツ達の、摑みかかるその腕をすり抜けてウサギ面の短刀が閃くたび、血が鞭となって床を、壁を叩き、前衛芸術のように部屋を彩った。黒革を守るように飛び出した一人を回し蹴りで弾き飛ばし、ウサギ面はそのまま短刀を黒革目掛け振り下ろした。
がぎん! と、拳銃の背で短刀を受ける黒革。外法とはいえ黒革も熟練のキノコ守り、咄嗟の蹴りでウサギ面の身体を撥ねのけ、飛び退るそれへ向けて、がん、がん、と撃っぱなす。
ウサギ面はわらわらと群がるスーツ達を足場代わりに蹴り飛んで弾のことごとくをかわし、獲物に嚙み付く蛇のように身体をしならせて、黒革の爪先へ思い切り短刀を突き立てた。
「がああッ」
黒革ががむしゃらに振り払った右腕が、ウサギ面の耳をひっ摑み、覆面を引っぺがした。
覆面の中から、ざあ、と真っ赤な髪が燃える。
不敵な笑みに光る犬歯、一度見たら目に焼きつく両目の眼光が、黒革の心臓を鷲摑みにした。
「ばあ」
「赤星ぃぃッ」
拳銃がビスコの脳天を捉え、引き金を引く前に、ビスコの足刀が一直線に黒革の鳩尾へ突き刺さり、黒革の身体を管理室のガラスへ思い切り打ち付けた。
ガラスはその威力を支えきれずに粉々に砕け、ガラス片を散らしながら、黒革もろとも赤く煮える錆の炉へと落ちていく。
主人の危機に慌てふためく、糸繰りのスーツ達は、ジャビの相手もそこそこに、我先にと炉に組まれた足場へ向けて飛び降りてゆき、黒革の救出に向かう。
黒革は足場の端っこにつかまってもがいており、走り寄った一人の黒スーツに摑まってなんとか這い上がると、苛立ちに任せて吠え、そいつを炉に蹴り落とした。
「はッ。しぶとい野郎だ」ビスコはそれを見下ろし、慣れないスーツとネクタイを脱ぎ捨てながら、血塗れの顔で笑った。「殴って悪かったな、ジジイ! でも、俺もガキの頃、よく殴られたから……これでチャラってことで、いいだろ?」
「ビスコ、お前……!」
快活に笑うビスコと裏腹に、ジャビは息を吞んだ。ビスコの身体が、その理由である。錆び矢に蝕まれたその身体は、右肩から首、もはや頰までを錆で覆われている。腹や、膝、他の部分も服で隠れていこそすれ、酷い有様であることは想像に難くない。
「ばかな。こんな、こんな身体で……! なぜ来たビスコ、ワシなんぞの為に!」
「はッ! そう簡単に死なせてたまるか。まだまだ働いて、もらわねえと……」
びぎ、と、錆が身体を蝕む痛みに、わずかにビスコの動きが止まったのを、ジャビが素早く助ける。ビスコはその手を優しく払って、にい、と笑ってみせた。
「俺は黒革を仕留める。……ここで、ケリをつける。その間にジャビはその、ガネーシャ砲とやらを壊しに行くんだ。錆喰いも、俺たちの里も、それで助かる」
「バカ言わしゃんな。お前を置いてか!」
「俺は誰だ? ジジイ」
緑色の光が、強く、穏やかに、ジャビと目を合わせた。
「俺はビスコだ。あんたが、全てを注いで育てた男だ。俺を信じろ。俺があんたを、信じるように」
ジャビがよく知る、苛烈で、自信家なビスコ。ただひとつだけ、違った。もう、ビスコは飢えていなかった。ビスコという渇いた器が、温かい水で満ちていることを、そこで初めて、ジャビは悟ることができた。
「……ビスコ。恨むか、わしを」
ジャビは震える声で俯き、ビスコに問いかける。
「おまえを、修羅道に引きずりこんで。こんな、死地の際の際まで、お前を、呼び込んでまで。これまで、愛というものに気付かせなかった、わしを。恨むか……ビスコ……」
ビスコはしばらくそこへ立ち尽くして、小さく震えるジャビをじっと見つめている。そしてしずかに屈み込み、その震えを抑えるように、錆びた両腕で父の身体を強く抱きしめた。
ジャビは、思わぬことに両目を大きく見開き、息をつめて身体をこわばらせたが、ビスコから伝わる体温と心臓の鼓動を聴いて、少しずつ緊張を緩め、やがて小さな身体に溜め込んだ息をまとめて吐き出した。
ビスコは静かに目を閉じ、すっかり瘦せてしまったジャビの身体が、落ちついて震えを止めるのを感じると、その軽い身体をひょいと持ち上げて、エレベーターめがけてぶん投げた。
「行けッ! ジジイ!」
「死ぬな、ビスコ!」
ジャビが去り際に投げてよこした、キノコ守りの外套を纏ったビスコは、隠し置いていた手荷物から自分の弓を拾い上げた。
もう、あとは、やることをやるだけだった。
錆び付いた人喰い茸は、死地を目前にして奮い立ち、ぎらりと犬歯を光らせて、割れたガラスを越えて錆の炉へ飛び込んでいった。
格子状の足場は、隕石のように落ちてきたビスコの身体を受け止めてわずかにたわみ、ぎしぎしと悲鳴を上げた。
辺りには、炉から噴き出す錆に巻かれて、錆の像と化した黒スーツの亡骸や、折れた手すりに串刺しになってびくびくと震える者、錆びた腰やら脚やらを折って身体をずるずる引きずる者と、およそ悪の根城の本丸としては、いささか拍子抜けの有様になっている。
ビスコはひとつ、ごきりと首を鳴らして、手すりに寄りかかって荒い息をつく黒革へ向かい、獰猛さを剝き出しにして笑いかけた。
「おいおい。こっちゃ一応、命賭けてきてんだぜ。本丸が半壊してるじゃねえか。悪の親玉なら、でっかく構えててもらわねえとよォ、ねえんだよなァ、張り合いがさァ」
「ガラクタ同然の身体で、ノコノコ、出て来やがって……!」
黒革は息を必死で整えながら、震える手で銃をビスコへ構える。