そして一声吼え、腰から引き抜いた短刀を、むき出しになった配線の群れに思い切り突き立て、巨大な身体を滑り降りながら、したたかに引き裂いた。
『お、お、あ────』と、巨人が一際大きくうめく。
配電装置に加えて、太い配線を何本も引き裂かれた胸部の送風機がめぎめぎと音を立てて止まり、火花を撒き散らして黒煙を上げた。
(やった)
一帯を覆っていた錆の暴風が、止まり、晴れてゆく。
かすむ目で、かろうじて短刀でその身体を支えしがみつくミロ。一瞬、気を抜いてしまうと、もう、どんなにもがこうとしても、身体が動かなくなった。まばたきすら忘れてしまったように、目に流れ落ちる血が溜まって、涙と混じって頰へ垂れてゆく。
(あ、だめだ、まだ……!)
死ねない、その一念で、朦朧としかける意識を必死で繫ぎとめる。
もはや、それが精一杯であった。意識を押し流す激流の中で、かろうじて首の皮一枚止まるのが、ミロにとっての限界であった。目を閉じれば、そのまま逝ってしまいかねないので、必死でその眼を開き続ける、
その視界の隅に。
装甲が剝げ、むき出しになった胸部の錆の中に、光るものがある。陽光をにぶく吸い込むようなテツジンの錆の肌の中で、きらりと一際輝く、それ。
『ゴーグル』であった。
ビスコの一番のお気に入りで、いつも彼の額から離れることのなかった猫目ゴーグルが、錆の肌に半ば埋もれるようにして、風にたよりなく揺れている。
「……ビスコ!!!」
死に沈みかけていたミロの意識が、一瞬のうちに覚醒し、両目を見開く。
ミロは身体の奥の奥に残っていた最後の力を振り絞って、もう一度テツジンの身体をよじ登り、その錆に埋もれたゴーグルを引き剝がすように手に取った。
「……ビスコ。……そこに、いるの?」
ゴーグルの埋まっていた、錆の壁へ向けて。虚ろに、ミロが呟く。
ほとんど理性というものを残していないミロの意識は、あるいはそこに相棒の亡骸が埋まっている、その一念のみをもって狂ったようにそこへすがりつき、厚い錆を剝ぎ取ろうとして、何度も素手で搔き毟る。
「ビスコ。やっぱり、だめだよ……。一人っきりで。こんな、冷たいところで……。
帰ろう、一緒に。みんなのところに、帰ろうよ、ビスコ……!」
分厚い錆の肉は、いくら削っても砂のように崩れ、またもとの厚い皮膚を取り戻してしまう。それでも、爪が剝げ、指から血が溢れてもなお、ミロの手は止まらなかった。
「返せよ……。ビスコを、返せ……! ビスコを、返せ────ッッ!!」
喉から血を噴かんばかりに、巨人へ叫ぶミロ。巨人は返答がわりにミロを引っ摑んで、遠く岩肌へぶん投げる。もう、抗う力を持たず、そのまま岩壁へ叩きつけられるミロ。
何か、呟こうとして口を開いても、ただ血だけがこぼれ落ち、もう悲鳴すらでてこない。
必死に弓を構えようとするけれど、腕がもう、上がらなかった。せめて最後まで、自分の死を見つめようとして、ミロはありったけの力を込めて、テツジンを見つめる。大きな腕が、ゆっくりと、自分に覆いかぶさってくるのを、青い瞳は最後まで睨み続けていた。
透明で分厚い、あたたかい膜のようなものに包まれて、白い海の中で漂うのを感じる。
溶けてゆく自分の精神の隣に座り、それを眺めるような。不思議な安寧の中に、揺蕩うのを感じる。
音一つしない、静かな世界だった。その中の、無限に広がる平和を持て余して、《それ》は居心地わるそうにひとつもがいて、やがてその波紋も、平和のなかに吸い込まれていく。
このまま、わずかに残った心のかけら、一粒の逡巡すら、この白い世界に吸い込まれて、永遠の安息の一部になるのだと、予感が甘やかにささやいた。
抗う理由がなかった。ただ、《それ》の、奥の奥のほうに残った、最後の感情のひとつが、白い海へ溶け出すことを、やんわりと拒んでいるようであった。
静かに、砂のように。さらさらと、その心の最後が、海へ溶け出して……
《ビスコ》
ぴたり、と、そこで止まった。
何か、とても大切な、意味のある音が、静寂にヒビを入れるように、小さく聞こえる。
その、よく知っていたはずの、何よりも大事だったはずの音の意味をたぐりよせるように、
《それ》は脈打ち、大きくもがいた。
《ビスコ……!》
二度目の、その響きで、《それ》は、その音が、自分の名前であることを電撃的に思い出し、心の中で閉じた目を、かっと見開いた。
名前を取り戻した《それ》の意思に、脈々と力が流れ込んで、まず、眼が。腕が、足が形となって、溶け出したそれの身体を取り戻してゆく。自分を包む、あまりにも強大なまどろみの力に、意思のすべてを持って抗おうとする。
《ビスコ!》
三度目のそれで、ビスコは、誰が己を呼んでいるのか思い出した。
全身に力を漲らせ、空気を震わすような雄叫びを上げると、白い世界に次々にヒビが入り、誰もが求めるはずの死の安寧が、そこで完全に瓦解して、ビスコははじかれたように暗い世界へと放り出されていった。
「!!!」
深い水の底から、水面に浮き上がったようにして、大きく何度も息をつく。
麻痺していた全身の感覚が、俄かに戻ってくる。ビスコはその全身にまとわりつく錆の感触を感じ取ると、その歯を食いしばって全身に万力のような力を込め、その錆の肉を内側から引き裂いてゆく。
猛獣のような咆哮が、その口から漏れた。
ビスコを閉じ込めていた錆の檻は、その人ならざる凄まじい膂力に引き裂かれて、とうとう白日のもとにビスコの身体を晒しだした。
あれだけ濃い錆の中に閉じ込められながら、身体も、服も外套も錆びていない。熱く燃え立つような自分の身体にビスコは戸惑いながらも、自分を呼んだ声の主を必死で探す。
「ミロ! ミロ────ッ!」
ビスコの声に応えるように陽光がきらめき、岩山に、鮮やかな空色の髪を照らした。
息絶え絶えな相棒の姿を認めると、テツジンの身体を蹴って弾丸のようにそこへ跳び、ずうん! と轟音とともに振り下ろされるテツジンの手を、その身体に、人外の膂力をもって受け止めた。
「うううおお─────ッッ!!」
一声吼えて、ビスコがその身体を閃かせ、回し蹴りで蹴り抜けば、巨大なテツジンの手首がまるでおもちゃのように千切れ飛び、遠く岩山へ激突して砂煙を上げる。
「お……おおっっ!?」
テツジンが苦悶の咆哮を上げる中で、ビスコは自身の内に燃え立つ力の加減がわからず、空中で勢いをそのままにくるくる回って、どさりと地面に落ちる。
ビスコは立ち上がりながら、テツジンの全身に咲いた、無数のキノコ跡を眺める。その一つ一つが、自分の相棒の奮闘と勇壮さを讃えて輝き、ビスコの胸中を熱く濡らした。
「……。これを……ミロが、やったのか……」
「…………。びす、こ……?」
ビスコは震える声に振り返り、驚愕に目を見開く相棒と、そこで目を合わせた。
「おう」
ビスコが声をかける。
ほとんど死の中に溶け出していたビスコの意識をかき集めて、それにもう一度命を吹き込んだ、そのことが、当のミロ本人にはまるで理解できていなかった。目の前に立っているビスコの姿がとても現実のものと思えず、ミロはただ目を見開いたまま、ぬか喜びを怖がってわなわなと震えている。
「聞こえたよ、あの世の手前で。」
「…………あ……!」
「呼んだだろ?」
白い犬歯が、鮮やかに覗いた。
何度もミロが横で見た、悪童ビスコの不敵な笑みが、陽光に照らされてそこにある。
ミロはその眼に、みるみる涙を溜めて……
今までの怪我など全て忘れたように立ち上がり、ビスコへと飛びついた。