北宮城大乾原に起きた、原因不明の軍事施設爆発事故、並びにキノコ森の大発生については、その因果関係や現場の実情などの一切を差し置き、世紀の大悪党、人喰い赤星の悪行として、日本政府から各県へ通達された。
またこの事件に乗じ、ゲリラ的に起こった忌浜新県庁の新知事パウーは、日本政府に対して一方的な独立を宣言。キノコ守りへ対する迫害の現状を厳しく糾弾し、自らの県を、迫害から守る壁として全国のキノコ守りに解放すると発表。
懐疑的だったキノコ守り達も、パウーの隣でヒゲを撫でる英雄ジャビの姿を認め、またたくまに全国から押し寄せた。忌浜の壁の中は県民とキノコ守りがおよそ半々の、かつて類を見ない街となり、今日この日も奇妙な繁栄を続けている。
建て直されたパンダ医院の監修によって改良された錆喰いアンプルは、暴利のサビツキアンプルに代わり、ほとんど無料で忌浜の街、また霜吹や岩手、秋田などの中立県にも行き渡り、サビツキに苦しむ多くの人々を死の恐怖から救った。が、当の奇跡の名医、パンダ医師の消息については、弟子入りを志願する医師達の願いもむなしく、一向に明らかにならなかった。
忌浜独立に日本中が沸き立つ、その同時期にひっそりと起こり、そのまま消えていった、ひとつの不祥事がある。
群馬南端、埼玉鉄砂漠に接する、県境の関所。
この小さな事件の顚末をもって、この話は、ひとまず結びとなる。
『人喰い茸 赤星ビスコ』
検問の壁に留められて、手配書がはためく。
棘のような赤い髪、ヒビ入りの猫目ゴーグル、鋭い右目を縁取るような、真っ赤な刺青。「捕縛礼金 八十万日貨」の、八十のところだけ、何回も赤線を引っ張って更新してあり、最終的には乱暴に「二百万ぐらい」と書きなぐられている。今となっては、日本のどこにでもあたりまえに見ることのできる、何めずらしくもない、紙切れであった。
ただ、その、手配書の隣に、どうやら比較的新しい、きれいな手配書が一枚追加され、丁寧に鋲で留められている。晴れた空のような青い髪、童顔ながら整った顔立ちと、きょろりとつぶらな瞳。ともすれば、女性と見紛いそうなその美貌の、右目の周りは丸く黒い痣で覆われて、さながら人懐こいパンダを思わせた。
手続き待ちの、二人連れの旅僧が、その手配書をずっと見つめながら動かないので、手持ち無沙汰の役人が身を乗り出して声をかけた。
「何だいあんたら。いまどき、赤星の手配書が珍しいかい」
「……いえ、この、もう一人の」
一人の旅僧が、震えそうな声を必死に堪えながら、冷静を装って、役人に振り向く。
「『人喰いパンダ』というのは。何故かな……と、思いましたので……」
「ンなモン、見たまんまじゃねェかァ」髭面の役人は、手配書の話ができるのが余程嬉しいのか、ブランデーの瓶をくぴくぴ呷って、楽しそうに答えた。「パンダ医院の猫柳ミロだろ。忌浜で、医者をやってたらしいんだが。その実がお前、患者を食っちまう、人喰い医者だったって話じゃねえか、え? 虫も殺さねえようなかわいい顔して、五十万日貨の札付きとはよ。おちおち安心して医者にもかかれねえってなもんだよ」
その、話の内容と、髭役人の饒舌な話しっぷりにとうとう堪えきれなくなったらしく、もう一人の旅僧が思わず吹き出し、「く、ひひひ……!」と俯いて必死に笑いを殺した。その、相棒の鳩尾に一発、肘をくれてやって、こほんと一つ咳払いし、やや憮然とした風に旅僧が答える。
「……仰る通り、悪人には見えませんが」
「がっははは! ……役人のおれが言うのもなんだがよ。今、手配書を真に受けて、文句通りの悪人と思ってる人間のほうが、少ねえよ。名医だったらしいよ、そのパンダも。お上に逆らって、タダで病人治して。挙句がその仕打ちって噂だ」
そう言って笑い、認証の済んだ手形を一人目の僧に渡しながら、髭役人はふと、なつかしむように空を仰いだ。
「その、隣の赤星だって……そんな、人でも喰いそうなツラしてるけどよ。おれは、そんな悪ぃ奴じゃあねえって、思うんだよ。ちっとばかし、やり方が派手なだけでさ……」
旅僧は、その髭役人の、昔を夢見るような表情を見てすこし表情を緩め、相棒へ向けて少し微笑んだ。相棒はといえば、特に感慨もなさそうに肩をすくめただけであったが。
「門、開けェ」
ぎりぎりと音を立てて上がる群馬南門の、その周囲には、今や壁や砂地の上をやわらかなシダが這い、細かな草すら、ところどころから顔を覗かせている。およそ一年の前、死そのものへの入り口のように錆と砂ばかりだったこの場所が、わずかな時間でここまでの自然を取り戻したのは、驚くべきことであった。ただ、半年に一度通る者がいるかいないかのこの場所で、それを知っているのは、この髭役人と、助手の太田ぐらいのものであったのだが。
一礼して、犬車を引き、門を過ぎてゆく僧をつと離れ、相棒のほうがつかつかと関所の窓口に寄り、懐から無造作に、オレンジ色に輝くアンプルを二本取り出し、受付へ転がした。
「何だい、こりゃあ」
「忌浜で噂の、錆喰いアンプルです」
僧は緑色の目をたじろぐ髭役人と合わせて、こともなげに言った。
「あなたと、助手さんの分。ほんの、お気持ちですが」
「こんな……高級品……!」髭役人は流石に驚いたようだったが、きゅっと口を引き締めて、強気に言い返した。「バカヤロウッ。坊主から賄賂は取らねえ! おれは役人だぞ!」
「毎週健気に、エリンギにカバの糞を撒いた」
旅僧は蘇りかけている自然を楽しそうに眺め、ぎらりと笑い、髭役人を振り向いた。
「そのご褒美をくれてやろうってんだよ。つべこべ言わず、とっとけ、ヒゲブタ」
「……あ、あ、あ!」髭役人の目が、次第に大きく見開かれる。忘れようのない、その不敵な笑み、覗く犬歯。「おまえ、お、おまえは───ッ!!」
げらげらと笑いこけながらひゅるりと駆け、犬車に飛び乗った旅僧は、その荷台にまたがって、荷物を覆う麻布を一発こづいた。一瞬ののち、麻布はぶわりと舞い上がり、二人の旅僧をつかまえて、巨大な蟹が、どすん! と地面へ飛び降りる。
「太田ぁ、太田ぁ────っ! 赤星だあ、赤星が出やがったァ──ッ」
大騒ぎの関所を振り返って、旅僧二人が顔を覆う包帯を剝げば、真っ赤な髪と、空色の髪が風の中に踊った。怒っているんだか喜んでいるんだかわからない、髭役人を遠く見送って、ビスコがミロに笑いながら呼びかけた。
「人喰いパンダ」
「うるっさいなあ! 食べないよ、人なんか……!」
ミロは正面の鞍でアクタガワの手綱を取り、膨れながら背後を振り向いて、ぱっと顔を輝かせ、ビスコの背をばしばしと叩いた。
「ビスコ! カメラで狙ってくれてる! ほら、ピースして!」
「はあ───!?」
「早く!」
はるか遠く、自分たちを狙う太田のカメラに二人して振り向いた瞬間、アクタガワはひとつ跳ねて大きな丘をまたぎ、それきり関所は見えなくなってしまった。
「ねえビスコ、本当に、その身体、治しちゃうの?」
「当たり前だ。不老不死に憧れた覚えはねえ。ジャビが治し方を知らねえんじゃ、もっと年かさの、長老どもを探して……キノコ守りの集落を片っ端から、当たるしかねえな」
「もったいないなあ! 無敵の、錆喰い人間なのに!」
「他人事みてえに言うな! 気味悪いだろ、キノコと人間の混血なんて。それに、ほっとくと、すぐキノコが生えやがる……あっ、また、髪の中に」
「あっ、取っちゃだめ! それ、めっちゃかわいい!」
「何だそりゃ!?」
「まあ、いいよ! 僕だけ歳とるのも嫌だし。でもきっと、長い旅になるよ」
「かもしれない。でも最後には、必ず上手くいく。……なぜなら……」
「なぜなら?」
「……俺達が、無敵のコンビだからだ」
「……えへへ……そのとおり……」
「お前、いま、誘導したな。今日このくだり、何回言わすんだ!? もういいだろ!?」
「よくないよ! 普段ぜんぜん褒めてくれないし。溜めとかないと」
「……そんな器用なことできんの。……いや、溜めるな、そんなの! 病むぞ、お前!」
若き関所役人太田の、誰も知らない才能が捉えたのは、赤星と猫柳、二人の人喰いが、並んでこちらを向く奇跡のワンショットであった。猫柳の天真爛漫な笑顔と、へにゃりと指を折ったピースサインの横には、ぎらりとこちらを睨んで中指を立てる、赤星の狂犬面が写っている。
手配書にお誂え向きのその写真はしかし、結局県庁に提出されることはなかった。白い額に納められて、太田のデスクの隅のほうに、お守りみたいにしてこっそりと置いてある。