ミロは咄嗟の反応で地面を蹴り、ビスコを庇うように跳ね飛んでその矢を肩口に受ける。その驚くほどの威力に軽い身体は吹っ飛び、地面に数回、飛び石のように打ち付けられた。ミロは吹き飛びながらも弓を引き絞って、老人の脳天目掛けて撃っぱなす。
「ジャッッ」
老人はキノコの生えた右脚を、その手刀で腿から千切り飛ばし、片足で跳ね飛んで、間一髪ミロのキノコ矢を躱した。そのまま老人は高らかに笑い、丘を飛び下りて夜の街の屋根を伝い、六塔へ向けて跳ね飛んでゆく。
「な、なんて、奴なんだ……!」
「ミロ! 早くワクチンを打てっ、咲いちまうぞ!」
ビスコの声にミロは慌ててアンプルサックからキノコワクチンを抜くと、射抜かれた肩口に向けて突き刺した。そのまま三度、四度と荒い息をついて、はっと相棒の容態に思い当たって跳ね起き、腹を押さえて夜を睨むビスコへ駆け寄った。
「ビスコっっ! 何をされたの!? 血、血が、こんなに……!」
腰の錆喰いアンプルをビスコの首筋に刺しながら、ミロが声を震わせる。
「げはっ、がはっ……。吐ききったら、多少は頭が冴えてきたぜ。野郎、俺の……胃を、抜いていきやがった」
「胃……? 何を……言ってるの、ビスコ!?」
「見てくれ。お前の専門だろ」
ビスコは口の中に残った血を吐き捨てて、服を捲り上げてその腹をミロに見せた。
たくましい腹筋を突き破って、ぽっかりと拳ほどの穴が開いている。
その傷の縁は血と錆の混じったもので固まっており、出血はないようだったが、その穴の奥にあるべき臓腑は、影も形もない。
「こ、こんな……こんな、ばかなことって!」
ミロは絶句する。それは、先に山賊のアジトで見た変死体のそれと、全く同じ様相であった。
「どうなってる? いや、おおかた、予想はつくけどな」
「胃が、ないんだっ! そ、そんな、あんな、一瞬で、こんな……っ!」
「勿体ねえ。せっかく、美味いもんが詰まってたのに」
「言ってる場合かよっっ!! なんでそんなに、元気なの!?」
「アンプルで、目が覚めたのがわかる。……錆喰いが俺を、生かそうとしてる」
言葉どおり、ミロの注射をきっかけに、ビスコの身体からにわかに火の粉のような胞子が吹き出し、あたりを照らすのがわかった。ビスコの髪が明るく揺らめいて、青ざめた顔に血の色を取り戻してゆく。
胃へ繫がる管や血管を、胞子がつなぎ合わせるようにして補っている。驚くべきことに、もとの胃に似た気管を、錆喰いの胞子が再生しようとしているらしかったが、腹の中に渦巻く錆の粒子に阻まれてそれは叶わないようであった。代わりに錆喰いの胞子が集まって、少しでもその錆を分解しようと努めているのが見てとれた。
「……胃を、再生しようとしてるらしいな。ちょっと、気張って……」
「ええっ!? ビスコ、どうするの!?」
「ぐぎぎぎ……!」
ビスコはその全身に力を込めて、己の腹に意識を集中する。すると、にわかに橙色の胞子が腹の中に湧き出して、まるで抗体のように錆を蹴散らしはじめた。
「え、ええっ!? ビスコ、自分で胞子を出せるの!?」
「怪奇キノコ人間みたいな言い方すんな。でも、これで……」
輝く錆喰いの胞子に包まれて、ビスコがわずかに表情を緩めた、その瞬間。
ずどんっっ!
「んぐわァッ! な、何だ!?」
豪快な炸裂音とともに、大ぶりな錆喰いの幹がビスコの背中を突き破って、大きく咲き誇ったのだ。続いて二本、三本と、腕から、脇腹から、輝く錆喰いがビスコ自身を食い破り、ぐんぐんと咲き育とうとしている。
「ビスコ! だめだ、胞子を抑えてっ!」
「んな、急に言われても、お前!」
ミロは咄嗟に、アンプルサックからキノコワクチンを抜き出し、ビスコの首筋めがけて突き刺した。薬液がビスコの身体に吸い込まれると、それまで暴れ狂うように吹き出していた錆喰いの胞子は、徐々に落ち着きを取り戻していった。
「うおお……び、びびった。ちょくちょく小さい錆喰いは、今までも咲いたけど。まさか、肉を食い破ってくるなんて……」
「……錆の食べすぎで、錆喰いが暴走してるんだ……!」
ミロは短刀でビスコに咲いた錆喰いを切り落としながら、必死にビスコの治療法について頭を巡らせ、額に脂汗を浮かせた。
「ビスコの再生力が、よりによって仇になるなんて。こ、このままじゃ……」
「おい、ブツブツ言ってねえで、俺にわかるように言え。天下のパンダ先生が、患者より狼狽えてどうすんだよ」
白い顔を一層蒼白にしてぶつぶつと呟くミロに、ビスコが他人事のように言ってのける。ミロはその眼前に詰め寄って、声を震わせながら、半分は自分の考えをまとめるために、ゆっくりと言った。
「ビスコ。いまビスコは、胃を抜かれた代わりに、濃縮された錆を詰め込まれたみたいなんだ。ビスコの錆喰いの胞子は、その錆を餌にして、すごく活発になってる」
「じゃあいいじゃねえか、そのままにしときゃ。錆を喰ってくれるんだろ?」
「よくないっっ! それまで持たないんだよっ、ビスコが! ビスコが治る前に錆喰いが咲いて、身体中、キノコに食い破られちゃう!」
ミロは悲鳴に近い声で、ビスコの肩を揺さぶった。
「……どうしよう。こんな症例、見たことない。そうだ、僕の胃を移植して……!」
「飛躍しすぎだ、バカ! 取られたんなら、取り返しゃいいだけだろ」
ビスコは言って、遠く明かりを灯す出雲六塔の門を顎でしゃくった。ミロがそちらへ視線を移せば、跳ね飛んでゆく黒い影が、飛び出してくる護衛の僧兵を蹴散らして、門を跳ね越えてゆく様が見て取れる。
「あいつ……っ!」
「案外、お目当ての不死僧正ってな、あいつのことじゃねえのか? 片腕片足捥ぎ飛ばされて、あの動きだ。それに、俺の腹……」
自分の腹に開いた穴の、胞子の薄膜を撫でて、ビスコは顔をしかめる。
「錆喰いで喰いきれない錆なんて、確かに、得体の知れねえ仙力だ。取っ捕まえて締め上げれば、俺の不死身も、取っ払ってのけるかも知れねえ」
「それは、そうかもしれないけど……ビスコ、どうしてそんなに、冷静なの!? いま、ビスコの中で、錆と錆喰いが暴れまわってる。いつまたさっきみたいにキノコが咲くか、わからないんだよ! もっと危機感持ってよ!」
「持ってるよ、バカ野郎。てめえが慌てすぎなんだ。敵が俺達の心理を読まねえわけがねえだろう。そこを狙われる。手負いが危機感だけで行動したら、必ず罠に引っかかる」
正論であった。だとしても、ミロは相棒の鉄の意志力に驚嘆するほかない。
いかなる状況においても、泣いたり喚いたり、死を覚悟したりするでもなく、ただ強靭な集中力をもって、弓に番えられた矢のように狙いを定めることができる。この意志力は、肉体より、あるいは弓よりも強力な、赤星ビスコの武器であった。
「落ち着いたら言え。作戦立案は、お前の担当だぞ」
「……うん、わかった。追いかけよう! 今なら関所も混乱して、あいつに意識が向いてる」
「よし。なら、正面から行くか?」
「極論すぎだってば! 目につかないのが、一番だよ。おいで、アクタガワ!」
主人の声に走り寄ってきたアクタガワに、ミロが小さく何か囁く。アクタガワは小さく泡を吹くと、準備運動のように、どすん、どすん! と大鋏を地面に打ち付けた。
「おい、ミロ、まさか……」
「うん。投げてもらう。エリンギだと、キノコ守りが出たって、すぐばれるから」
「……おい、バカ言うな! トルネード投法は、ジャビが乗ってねえと無理だ! こいつ一人の力加減じゃ、どこへ飛んでくかわかんねえぞ!」
「そういう、可能性を限定する考え方が、カニの伸びやかな成長を妨げるんだよ」
しれっと言ってのけるミロの表情を、啞然として見つめるビスコ。その身体を、ミロごと大蟹の鋏がくわえ込み、その頭上へ高く掲げた。
「アクタガワ、よろしくね! あの、橋の向こうを狙って!」
「うわあ! ぜってえこっちのが無茶だ! 考え直せよ、騎手がいないアクタガワにブン投げられたら、胃がひっくり返るって!」
「丁度よかった。ないでしょ、今」
「おま……」
ビスコの抗議の文句が終わらぬうちに、アクタガワはその素晴らしい跳躍力で夜の闇へ舞い上がり、竜巻のようにその身体を回転させる。そして、その溢れる膂力の全てでもって、摑んだ主人二人を、夜の街を越えてはるか向こうへぶん投げた。
赤と青、二色のキノコ守りはそのまま風を切り裂いて、巨大な五角形の六塔の中へ、吸い込まれるようにすっ飛んでゆくのだった。