錆喰いビスコ4 業花の帝冠、花束の剣

 ぬるりと暖かい、沼のようなものに浸されている。

 かすかに息を吸うと、濃密な甘い死の香りが、シシの鼻の奥を刺した。無意識のうちに眉を寄せて口呼吸に切り替えれば、ごぽごぽと沼が口に入り込み、びた鉄のような味にシシはたまらずむ。


(…………。)


 何度か目覚めようとするシシの思考は、そのたびに沼の香りにかき消されて、底へ底へ引きずられるように、死の安寧の中へ沈みつつあった。

 シシの心が、やがて全てを投げ出し、意志を手放そうとする……

 その、ほんの一瞬前に。

 じゅうっ!!


「……うわぁぁっ!!」


 何か、強烈な熱がシシの足の先に触れ、重いまぶたを一息に押し開けた。


「ここは……!?!? あ、熱い、うわぁぁっ、熱いっ」


 目覚めたシシの身体は、幾重に重なる肉のようなものに埋もれているらしく、爪先の触れる沼の底から、焦げ付く熱が襲いかかってくる。シシは必死にその肉の海をかき分けて泳ぎ、ようやくその表面に顔を出した。


「ぶはぁッ! はッ、はッ……。 ……あ、あ……!」


 そのぬめる沼の水面で、シシはあえぐように息をつき、そして……


「うわあああ──ッッ!!」


 周囲の惨状をたりにし、半狂乱になって叫んだ。

 シシがそれまでかっていた沼のようなものは、無数の死体が浮かぶ、血の海であった。

 ろうにやくなんによの区別なく、首をはねられた真っ白な身体が、その断面から滝のような血をこぼし続けている。

 それらが、鮮血の海に所狭しと浮かぶ様は、まさしく、誇張抜きの「地獄」といえる。


「ひいあああッ、あ、うわ、あ……」


 血の海面でごろりとこちらを向いた、生気のない生首と目が合ってしまい、シシは身震いして引きつった悲鳴をあげた。

 もっとも、シシの真っ白くしなやかな少女の身体も、いまやおびただしい鮮血にまみれ、悪鬼もすくむような壮絶な有様となっている。


(か、釜だ。ここは、死んだ囚人を焼く、地獄釜だっ! おれは、生きたまま、釜へ放り込まれたんだ!)


 恐怖に流されそうになる心を必死に奮い立たせ、シシは思考する力をなんとか取り戻す。


『地獄釜』なるその巨大な炉は、すさまじい熱をたたえてオレンジ色にまぶしく光り、まみれのシシの身体を容赦なく焦がしつけてくる。


(し、死ぬのか……ここで、おれは、生きたまま……灰になって……)


 いやだ! と、シシは必死に頭を振って、恐怖を心から追い出し、長い前髪からのぞく紅色の瞳を、地獄の底でぎらりと輝かせた。


(父上が言ってた。王たるものは! 死地にこそ勝機をいだすものだって!)


 シシは肺を焦がす熱風に血を吐きながら、ごうおんを立てて熱せられ続ける釜の中、沸騰しはじめる血の海を必死で泳ぎだす。


(灰やゴミを出す、はいしゆつこうがあるはずなんだ。なんとか、そこから……!)


 ざぶん! と血の海にもぐって釜の底を見回せば、はたしてオレンジの熱に照らされて、そのはいしゆつこうとおぼしき場所は見つかった。しかし当然のことながらその扉は固く閉じきり、開く気配などどこにもない。


(ああ、父上!)


 シシは一度血の海から顔を出し、ひとつ深く息を吸った。


(どうか、おれに父上の力を。……おれに、父上の「花」の力を!)


 シシがカッと両目を見開くと、意志力に応えるかのように、左耳の後ろから鮮やかなかん椿つばきがその花びらを即座に広げ、輝く花粉を振りまいて地獄の釜を照らした。

 シシは途端にあふす、所以ゆえんの知れぬ力を頼りにもう一度釜の底へ飛び込み、その焼け付くはいしゆつこうの蓋に向かって、その両手を、ばん! と打ち付ける。

 シシがその両手に全力を込めると、ふわりと髪の毛が浮き、輝く両目があらわになった。するといかなる呪力の技か、両の手首から青々とえるツタが次々と伸び、焼け付く熱をものともせずにはいしゆつこうの中へ潜りこんでゆくのである。


(錠を、はや、く……もう、意識が……!)


 シシの身体は煮えたぎる血の海にかれ、もはや限界であった。その意識がとうとう断ち切れようとした寸前、「がちり」「がちり」と連鎖的に鉄の錠がきしむ音がして、はいしゆつこうの扉が音を立てて大きく開いた。


(! 開い……うわ、あああっ)


 シシはそのまま転がるように穴の中へ落ち、ざぶん、と冷却プールの水の中に転がり込む。


「ぶはあっ!」と大きく息をするシシの頭上から、釜の中で煮え立っていた血の鉄砲水が滝のように落ちてくる。シシは血と水にころがされながらも必死にもがき泳いで、プールの手すりにしがみついて階段を昇ると、やっとの思いでそこからした。


「はぁっ! はぁっ! ごえっ、ごほォッ、ごぼっ!」


 荒い息をつきながら、シシは冷たい床に、血と水の混じったものをびたびたと吐き出す。


「逃げ……られる、今なら」


 腕で口元を拭い、ごうおんを立てて落ちる血の滝を振り返る。火傷やけどと血液にまみれた壮絶な有様の少女は、よろめく身体でなんとか立ち上がり、紅色の瞳をぎらりと光らせた。


「おれは、死ねないんだ……弱いままで。強い、『王の世継ぎ』に、なるまでは……」


 冷却室に響くただならぬごうおんに、見張り達の怒鳴り声で外が騒がしくなってくる。シシはとつに辺りを見回し、ゴミをまとめて流し込む排出用のスロープを認めると、血でぬめる身体をそこに滑り込ませ、そのまま暗黒のトンネルを転がり落ちてゆくのだった。

刊行シリーズ

錆喰いビスコ10 約束の書影
錆喰いビスコ9 我の星、梵の星の書影
錆喰いビスコ8 神子煌誕!うなれ斉天大菌姫の書影
錆喰いビスコ7 瞬火剣・猫の爪の書影
錆喰いビスコ6 奇跡のファイナルカットの書影
錆喰いビスコ5 大海獣北海道、食陸すの書影
錆喰いビスコ4 業花の帝冠、花束の剣の書影
錆喰いビスコ3 都市生命体「東京」の書影
錆喰いビスコ2 血迫!超仙力ケルシンハの書影
錆喰いビスコの書影