埼玉鉄砂漠。
巨大な蟹の八本足が砂を咬み、のしのしとその巨体を前に運んでいく。その鞍上に風が吹き荒れ、細かい鉄の砂がびしびしと打ち付ける。
東京が、きらきらと虹色の胞子を放つ様を、横目に見て……
少年たちは外套で身体を覆い、アクタガワを駆ってさらに南へと急いだ。
東京を過ぎるともはやそこは前人未踏、ウツボも鉄鼠も住まない黒鉄の海である。
晴天のはずだが、黒く煙ったような鉄砂が空中を覆って陽光を遮り、砂漠一帯を夜のように変えてしまっていた。
ただ、その荒涼の景色の中で一際、ぎらぎらと生を漲らせる相棒の瞳を……
ミロは楽しそうに時折眺めた。ビスコはしばらくしてその視線に気づき、何か妙に気恥ずかしくなったらしく、すぐに猫眼ゴーグルで瞳の輝きを覆ってしまった。
『瞬火剣・羊羹の言い伝えというのは、あにゃがち創作神話という訳ではないのぢゃ』
「では、大僧正さま。ぼくら人間の国の裏に、猫の国が本当にあると?」
「おめでてえジジイだ。サンタさんが未だに来るらしい」
「ビスコ!!」
『人国と猫摩国。本来それは分岐した別可能性の位相に存在し、お互いに観測はできにゅ。でも、こないだ神奈川に落ちた奇跡の矢が、人と猫とを門で繫げてしまった』
「「奇跡の矢……?」」
助手席で揺られながら、ミロと視線を合わせるビスコ。
二人の眼前、ポータブルディスプレイの向こうから『おほん』と咳き込むのは、白いモコモコの中から猫耳を生やした万霊寺・大茶釜大僧正その人である。
『おヌシらが黒革を倒した、超信弓の矢のことぢゃ』
「ええっっ」
「つ、つまり。今回の猫病の原因はっ」
『おヌシらのせいじゃ、このすかぽんたんっ』
いつもはぼけっと温厚な大茶釜大僧正も、さすがに世界のコトワリを乱されてはたまったものではないのか、ぷんぷん! と蒸気を噴いて珍しく怒っている。
『別の可能性、アナザー日本と門を繫げてしまうなんて、出鱈目もいいとこ。今後あの弓は禁止ぢゃ。超信弓禁止!!』
「んなこと言ったって! あそこで黒革を撃たなきゃ……」
「うみゃぁ~~っっ……」
「チロル!」
手綱を預かるミロは、先ほどからしきりにバックパック中のチロルを気にしている。
「大丈夫? またアンプルを打とうか?」
「だ、だいじょぶ……暇なだけ……」
チロルは手慰みに持っていた鼠のおもちゃを壊してしまったらしく、猫の身体にすっかり退屈を持て余していた。内側をやたらと引っ搔くので、バックパックも傷だらけである。
(爪も牙も鋭くなってる。もたもたしてられない)
一方忌浜に残ったパウーの方は、チロルより猫病への耐性が強かったため、ひとまず服薬によって正気を保っている。今頃は自警の指揮を執っているはずだが、とはいえ猫と化した民衆がいつ暴力蜂起するか知れたものではなく、それも心配の種だ。
「ねえビスコ。まだ門は見えない?」
やや焦りにとらわれて相棒を振り向くミロに、
「…………。」
「ビスコ!」
「焦るな。近づいてる」
猫眼ゴーグルのメモリをいじりながら、ビスコが答える。
先ほどから猫眼ゴーグルは、鉄砂の嵐の中にきらめく、またたく火の粉のような粒子を観測し続けていた。大茶釜僧正曰く、
『瞬火粒子』
と万霊寺に伝わるそれは、アクタガワの歩みに合わせて、着実に濃く、強くなっているようであった。
どうやら、それに誘われてか……
「火鰤が泳ぎ出したな」
黒い空にほむらのような背びれが揺らめき、物珍しそうにアクタガワを見下ろしている。
大ぶりの空中魚たちであった。
それに興味が移りがちなアクタガワを制して、ビスコが呟く。
「背びれの元気がいい。場の生命力が強い証拠だ。近いぞ」
「瞬火粒子を吸わないように気を付けてね。いちおうアンプルは打ってるけど、僕もビスコも、いつ発症するか……」
「! 見えたぞ」
ゴーグルの倍率を上げて、ビスコがわずかに身を乗り出す。
「な……何だよ、ありゃ!?」
「ビスコ、僕も見たい!」
「待ってろ。今晴らす」
ビスコは背中の弓を引き抜き、前方の砂漠に向けて一筋の矢を放つ。
ぼぐんっっ!
錆喰いが伸び上がる。急成長した錆喰いは周囲の砂を喰って鉄の嵐を晴らし、火鰤の群れをそこらに追い散らして、暗かったアクタガワ周辺に陽光を呼び込んだ。
そして……
「う、うわあ……!」
ミロの眼に飛び込んできたのは、小規模な山のように盛り上がった、巨大な、
『猫の顔』であった。
都合、猫の鼻は天を向いているわけであるから、アクタガワから見れば、ちょうど鉄砂から頰のあたりがヌオウと生えてきている格好になる。
猫の顔は突然差し込んできた太陽の光にわずかに目を細め、寝惚けたように、
『んマ───────────────────────────────オ。』
と、間延びした長い声を上げた。
音波は風となって少年たちの外套をばさばさと揺らし、驚きやら呆れやら、とにかく圧倒的な存在感でもって二人の口をあんぐりと開けさせた。
『出よった。あれが『猫門』ぢゃっ!』
「門っていうか、猫そのまんまじゃねえか!?」
『チロルっ!』
「あいさいっっ!」
チロルの声に二人が振り返る。バックパックから飛び出たチロルは、おじいちゃんの映るコンピュータをしゅばりとかっさらい、猫眼を金色に輝かせて猫門を睨んだ。
「あれに経文を流し込めばみんなの猫も治る。鼻の頭まで、あたしを連れてって!」
「常識外れだぜ。どうしてあんなモンが、砂漠に生えるんだ?」
「あんたたちのせいだってば!」
「急ごう。アクタガワ!」
ミロの手綱に応えてアクタガワは勇んで走りゆくも、ちょうど猫の頰に八本足を喰いこませた時点で、
『くにゃあ』
と、その思わぬ不気味な柔らかさに体勢を崩してしまう。
「うげえ。気味わる!!」
「アクタガワ、がんばって!」
アクタガワにしても、強固な岩盤やぬかるんだ沼地こそ得意とすれ、さすがに猫の顔の上を歩いたことはないだろう。手綱を通していかにも困惑した有様が伝わってきたが、それでもなんとかアクタガワは猫門をよじ登り、その鼻っ柱に登頂することに成功した。
『んマ───────────────────────────────オ。』
「これが……」
「「瞬火の元凶!」」
猫の声にびりびりと身体を震わされながら、三人は鼻の上から猫の顔を覗き込んだ。大きく開いた猫の口の中には、銀河のように渦巻く瞬火の粒子が渦巻き、それが中空目掛けて噴き上がっている。
「この口の向こうが、猫の国に繫がってるのか?」
『門を見てはにゃらぬっ。無用な干渉は避けるのぢゃ。汝が猫を覗き込むとき──』
「猫もまた僕らを覗いていると。なるほど、流石のお言葉です」
「どこがどう流石なんだ。普通の話だろ!!」
「猫の真上でべちゃくちゃ喋んなっ! いい!? あたしがこれから万霊寺の経文でこいつを閉じる。あんたたちは、しっかりあたしを守って!」
チロルは猫のしなやかさでもってアクタガワから飛び降りると、携帯コンピュータから何やらカラフルなケーブルを伸ばし、猫の鼻の頭に突き刺す。そして、爪の伸びた両手で器用にキーボードを叩き、万霊寺に伝わる呪言を打ち込んでいった。
「おじいちゃん、準備できたっ!」
『接続確認ぢゃ。今こそ万霊寺僧百人の仙力にて、ホープ様秘伝の真言を振るうとき!』
大茶釜僧正が「しゃんっ」と錫杖をかざせば、その背後に控えた百人の禅僧が、額に赤い梵字を浮かび上がらせ、口々にマントラを唱え仙力を練り上げる。