富士山頂。
山肌に剝き出しの玉座に、一人の少年が腰かけている。
脚を組み頰杖をついた、尊大な様相。氷のような美貌に退屈そうな表情をたたえ、吹きすさぶ風の中でまばたきひとつする様子はない。
そして、その周囲を──
(かなえたまえ)
(かなえたまえ)
(錆神さま)
(錆神 ラストさま)
明滅する無数の人間の魂が、光の渦となって旋回している。
ひとつひとつはわずかな明かりにすぎない魂たち、しかし少年の周りに渦巻くそれは夥しい数で群がり、夜の山頂をまるで昼のように照らしている。
(かなえたまえ)
(富)
(才能)
(権威)
(かなえたまえ、かなえたまえ)
少年は……
いや、〈錆神ラスト〉は、渦巻く魂たちが放つ願いのうめきに、辟易したような溜息をついた。そして頰杖をついたまま、その細く美しい指をぱちりと鳴らす。
すると、
(おお!)
(金だ、金だ、)
(使い尽くせぬ、富だ!)
(あああっっ──)
渦巻く魂、その三分の一ほどが一際大きく光り輝き、念願の叶う喜びに打ち震えた。
錆神ラストの力で、死後のまぼろしの中でその願いを叶えたのである。叶えられし魂はおおいなる歓びとともに、ラストの体内へと吸い込まれてゆく。
(おお、われも)
(わたしも)
(かなえたまえ、かなえたまえ、)
「…………。」
少年はもう一つ溜息をつき、続けざまにぱちり、ぱちりと指を鳴らした。いちどき指が鳴るたびに、迷える魂たちの願いは叶えられ、歓びにふるえる。
(おお! この、溢れる才能!)
(見下ろすばかりの権威!)
(うれしい、うれしい──)
夢の中で願いを叶えた魂たちは、心から錆神への隷属を誓い、その体内に吸い込まれる。ラストが指を十回も鳴らさぬうちに、玉座に集った魂はすっかり喰われきってしまった。
「……けぷ。」
いつもと変わり映えしない〈食事〉を終えて、ラストが小さなおくびを漏らす。
満腹の歓びをたたえるどころか、胃の中のものを軽蔑しきった、冷徹極まりない表情だ。まさに、苦虫を嚙み潰したような……と、表現できる。
『ラストさま、ラストさま』
その耳元に、どこからか一匹の羽虫が、やかましい羽音を立てて飛んできた。羽虫は錆神の周囲をくるりくるりと舞いながら、やがてその肩口に留まる。
『お味は如何でございましたでしょう。小さな羽虫のこのンナバドゥ、腕によりをかけて、選りすぐりの人間の魂を集めましたれば──』
「マズイ。」
視線すら動かさぬ、一言である。
「泥でも啜っているようだ。いずれも俗の願いを抱えた、下賤の魂であった。」
『それでは、お口に合いませんで……』
「おまえの羽音はもううんざりだ。どこへなりとも、飛んでゆくがいい。」
美貌の少年神が言う残酷な言葉に、羽虫のンナバドゥはすっかり慌てふためいて、『おお~~っ!! お許しを、錆神さま!』と憐れっぽく泣き叫ぶ。
少年の手の甲に留まって忠誠の口づけを何度も落とし、なんとか機嫌を伺っているようだ。
『どうかお許しを。次はかならずうまくやりまする。この力なきンナバドゥ、錆神さまなくして、生きてはゆかれぬのでございます』
「おまえはそうでも、倭にはおまえはいらぬ。」
『そんなこと仰らないでェ~~ン』
必死に手の甲で愛嬌を振りまくンナバドゥ。
その小指の先ほどのボディには、純金のリングや首輪がきらめき、動くたびにやかましく輝いて、眼にうるさい。
(ふん……。)
自らに許しを請う蝿の舞いに、少年神は怒ることすら馬鹿らしくなってしまい、無表情のままもう一つ溜息を重ねた。
ラストの表情は氷のように変わらないが、この羽虫のンナバドゥからすると、微細な空気の変化で機嫌がわかるものらしい。羽虫は抜け目なく絶妙な間を取って、錆神の気分が直ったことを察すると、ふたたび図々しく羽音を立てて飛びはじめた。
『きゅふふっ。さあ、お食事が終わったら、運動したほうがよろしゅうございます。玉座からお立ちになって、少しお散歩なされませ』
「ん。」
ンナバドゥの案内に従って、ラストが立ち上がった。
華奢な身体の各所にあしらわれた歯車のモチーフは、錆神がその名の通り、無機的な神であることを示している。無限の力を持つ自動人形。未来を夢見た人間が思い描いた、機械じかけの少年ヒーローを彷彿とさせる。
『やあ、歩けば牡丹、ラストさまの御姿。こちらへどうぞ──ほうら、ここから下界が一望できます。あれに立ち並ぶ、錆の像がご覧になれますか?』
「うん。」
羽虫の言葉に従って山頂から見下ろせば、そこには。
『あれこそ、錆神さまの威光に自らひれ伏したものたち。魂を捧げた抜け殻でございます』
錆神に自らその魂を捧げた、錆の像たちが見える。その有り様はまさしく抜け殻、人間が錆神の奇跡に屈したことの証左である。
『いまや殺さずとも、人間のほうから魂を捧げてくるのですから、楽なものですなァ』
「……なぜ、こやつらは、倭に手向かわなかった?」
夥しい数の錆の像を、軽蔑したように一瞥して、ラストが疑問を口にする。
「これだけの数で向かってくれば、倭に一太刀ぐらいは浴びせられたろうに。戦うどころか、自ら隷属を選ぶとは……。」
『だって。魂の対価に、御身に願いを叶えていただけるのですぞ』
ンナバドゥは身振りもまじえ、饒舌に言葉を続ける。
『そんなサイコーな話はないでしょう。一方のラストさまは、魂を喰ってお腹いっぱい。まさに、ウィンウィン、ウィンウィンウィンの関係でございます』
「…………。」
この世界に、錆神が降臨した、はじめのころは……、
正々堂々、手向かうものたちを殺し、その魂を喰らうというのが、錆神のやり方だった。しかし次第に錆神の脅威が高まり、人間が絶望するにつれ、ンナバドゥはひとつの奸計をたくらむようになった。
〈自ら魂を差し出したものは、その願いを叶える〉──
そうした旨の布教である。ンナバドゥの目論見は見事にはまり、今や自らの意志で錆神に抗うものなど、数えるほどしか残っていない。
『ご覧ください、この布教アナリティクスを! 過去28日間に捧げられた魂の数は、じつに2億6000万魂。すでに世界の男性99%、女性98%が──』
羽虫がぶんぶんと飛び回って、空間にラストの支配率を示すグラフを描くが、少年は一目すら見もしない。静寂の眼下を見下ろして、腕を組んでつまらなそうに呟く。
「なにが、願いだ。倭の腹の中で、まぼろしを見ているだけではないか。」
『ラストさま。何がそのようにご不満なのです? 日々、御身に捧げられる魂の量は、増え続けておるというのに』
「捧げられた魂など、幾ら喰おうが何の味もせぬ。」
ラストはかつての戦いの日々をなつかしむように、わずかに目を細める。
「気高き魂は、自ら隷属などせぬものだ。最後まで抗い抜こうとする戦士の魂。それを折り、砕き、倭の力で隷属させて初めて、魂喰らいの愉悦はあるというもの。」
気骨ある強者を斃し、無様に這いつくばらせること。
その嗜虐の達成感が、錆神ラストにとってはよろこびであったということだろう。しかし数字ばかりを追いかける羽虫にそんな粋は理解できない。
『またまた、ラストさま。いまどきそんなアナログな──』
「あるいは、おまえが。」
『きゅひっ?』
「おまえが余計なことをするから、魂の質が下がったのではないのか?」
『ら、ラストさま、落ち着い……』
「下賤の蠅めが。」