2 セフレ -FWB-④



 俺たちはただ付き合うだけではなく、恋人らしく振る舞わなければならない。恋人らしく振る舞わないカップルだって世の中にはいるはずだが、俺たちにはそういった付き合い方は許されない。もっとオーソドックスなカップルを、例えば人前で愛情表現を躊躇ためらいなく行えるようなカップルを目指さなければならない。

 の細部を考え出すと、また頰が熱を帯びてきそうだった。だから俺はなるべく考えないようにしたが、目の前には満開のアサガオのように俺に笑いかけてくるルインがいた。思考の世界も実在の世界も、俺の平静を失わせるものでいっぱいだ。もう二度と冷静な自分には戻れないかもしれない。

 その時だった。ルインは突然、俺の手を握った。

 ルインの指が触れ、そこから氷がけるのに似た官能が体中に広がっていった。ルインの指は細くて柔らかく、造り物みたいだった。こうして俺たちは「手をつなぐ」という姿勢になった。

「ちょ、ちょっと……ルイン」

 俺は思わず口をとがらせた。でもどこか腰砕けな声色になった。指先にはルインの柔らかくてひんやりとした指の感触があった。思ったよりも体温が低いんだなと俺は思った。

「手をつなぐだけで奇声を発してたら、全然カップルに見えないよ?」ルインはそう言って、白い歯を見せた。「むしろ『藤代瑠音は彼氏がへっぽこで満足していないから、青崎先輩とうわをしているんだ』って思われるかもよ?」

 ルインはからかうように言った。それは軽口のつもりだっただろうけれども、そう言われると青崎先輩への対抗心が湧いてきた。俺が手をつなぐくらいでドキドキしている一方で、ルインのもっと深いところに当たり前のように触れている人間がいるのだ。

 その嫉妬に似た気持ちは俺の指を突き動かし、ルインの手をがっしりと握らせた。

「おお、力強い」

 とルインは言った。彼女は急に手を強く握られたことに少し驚いていたが、俺がやる気を見せてくれたのだとおおむね好意的に解釈してくれたらしい。

 それからルインは俺の手を適切な強さで握り返した。それに合わせて俺も、彼女の手を握る力をすこし弱く、自分にとって自然だと思えるくらいの強さにした。

 ルインは俺とつないだ手をぶらんぶらんと揺らした。俺は肩の力を抜いて、彼女の好きにさせた。ちょっとした共同作業を行っているような気分だった。小さなブランコになった気分だった。それを二、三回ほど繰り返すと、ルインは楽しげに俺を見上げて言った。

「なんか楽しくない?」

 素朴な発言だった。いつもよりも無防備な、子供らしいほほみもついてきた。だから俺も率直な返事をした。

「うん、楽しいね」

 するとルインはまた、つないだ手を前後に揺らした。俺もゆるく加速度をつけてみた。二人の手は風に揺れるハンモックのように軽快に動いた。

「ワタって意外と才能があるかもね」

「才能ってなんだよ。でもありがとう」

「あんまり照れてないね」

「手をつなぐまでがピークで、つないでみると意外と大丈夫かも」

 ルインと手をつないでいるのだと意識をしてしまうとたぶん駄目になるから、なるべく俺は考えないようにしていた。ただ右手側に、ルインと俺の体をつなぐ結び目があるのだと思えばいい。この考え方にも照れくさいものがあるが。

 ルインはふうん、と言った。恋人ごっこが円滑に進み始めたことはいいことだが、俺にはもっとドギマギしていて欲しい、そっちの方がからかいがいがあって面白い……という相反する思いを持っているように見える。

 だからだろうか、ルインは俺の手を引き寄せると、ピンク色の舌を見せた。

 何をするつもりだろう、といぶかしがっている間もないうちに、

 彼女は俺の手の甲をぺろりとめた。

「何何何!?」

「いや、手汗がすごいから、めたらどんな味がするのかなって」

 と言ってルインは笑った。いたずら好きの子供が日常的にたたえるような笑みで、俺の手の甲をめた後だとは思えなかった。

 ただ俺の心臓は激しく脈打ち、呼吸も浅くなっていた。先ほどまでの自然さは失われていて、さっきまで普通にできていた行動ができなくなった。ルインの顔が普通に見られなくなったし、つないだ手を握る力にも確信が持てなくなった。手の角度がすこし変わり、ルインの手の感触が変わるたびに、不安と快感の混ざったものが指の間を走った。

 だからかルインはぱっと手を離して、

「はい、また挙動不審」

 と言った。

 手を離されると、なんだか大波の中に放り出されたような、寄る辺ない気持ちになった。

 端的に言って寂しかった。でも手を離されただけで寂しい気持ちになっただなんて、そんなセンチメンタルな内心をルインには悟られたくなかった。だから逆に強い口調で言った。

「手の甲をめられて、挙動不審にならない方が難しいだろ」

 ルインはその言葉には返事をせず、全く別のことを言った。

「私、人の汗とかめるの好きなんだよね」

「変態なの?」

「それくらいの変な趣味なら、きっと皆持ってるよ」知らないけど、とでも続きそうな、適当な口調でルインは言った。「青崎先輩の腹筋の汗をめてあげるのも好きなんだよね。体のゴツゴツに合わせて味がちょっと変わるんだよ」

 俺はすこししゆんじゆんしたが、結局はこういう言い方しか思いつかなくて言った。

「そういうこと、恋人の前で言う?」

「お、早速恋人ヅラ?」

「……だって彼氏だもん」すこし恥ずかしくなりながら俺は言った。

「しょうがないな。今度ワタにも青崎先輩の体をめさせてあげるよ」

「俺がめたらさすがにおかしいだろ」

 とまで話したところで、ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 ルインがふたたび、

「んー」

 と言いながら手を伸ばしてきたので、俺はその手を握った。

 今度は自然に握れた。つないだ手を見つめながらルインは言った。

「うんうん、私がふざけない限り、恋人のふりは順調みたいだね」

「一応、ふざけている自覚はあったんだ」

「教室の近くまで手をつないで歩こ?」

 ルインはそう言って俺に笑いかけた。そして俺たちは中庭を出た。

 手をつないで教室に向かいながら、俺は思った。

 ルインはとてもわいくて、よく笑って、気が合って、一緒にいて楽しい女の子だ。

 彼女と話すのは二年ぶりで、長く話すのは小学生の時ぶりだったけれども、そうは思えないくらいに自然で、肩ひじを張らない会話ができたと思う。

 もちろん内容的には引っかかる部分はあった……というか、ありまくりだったけれども、楽しさの方が上回っていた。否定しようもないくらいに、ポジティブな感情の方が上回っていた。

 ルインはやっぱり、俺にとって魅力的な女の子なのだ。

 高校生になっても変わりなく。

 ただ──。

 彼女にはセフレがいる。

 日常的に性交を行う、体格のいいイケメンがいる。そいつにお掃除フェラを、たぶん常日頃から行ってあげている。

 そう思うと、つないだ手の向こう側にいるルインがすこし遠く思える。

 恋というものはよくわからない。

 だって俺が恋をしたのは人生で一度きりで、ルインが最初で最後だったからだ。

 失恋についてもよくわからない。それも人生で一度きりで、ルインが最初で最後だったからだ。

 ただ、その一度きりの失恋の経験から、俺が個人的に採っている説が一つあった。

 それは、失恋というものはもしかすると、それでは、大してつらいものではないのかもしれないということだ。

 本当につらいのは、だと思う。相手が独り身の時とは違って、どうしてその男が俺ではないのか、どうしてその男に俺がなれなかったのかということを、嫌でも考えさせられてしまうからだ。

 俺はまだルインが好きなんだろうか?

 わからない。

 自分の感情は、自分でもわからない。

 うれしさ、楽しさ、怒り、悲しみ、それらは毎日経験する身近な感情で、にもかかわらず時たま、自分がどれくらいうれしいのか、楽しいのか、悲しいのか、わからなくなることがある。身近ですらない恋愛感情が、よりわからなくなるのは当然だと思う。

 ただ、それにしたって、自分の中ではっきりと確信できている感情が一つある。

 その感情は胸から引っ張り出して手に取れそうなくらいに具体的で、表面をなぞって感触を確かめられそうなくらいに確かなものだった。

 俺は青崎先輩に、はっきりと嫉妬していた。

 顔も知らない男のことが、とても羨ましく、憎らしく思えた。

刊行シリーズ

宮澤くんのあまりにも愚かな恋の書影
宮澤くんのとびっきり愚かな恋の書影