第一章 祓魔師①

 あの事件から数日ったけど、俺は赤ちゃんのままだった。

 しんしやされ、気を失った後に見ている夢ではなく、信じられないことだが……俺は本当に赤ちゃんになってしまったのだ。

 そりゃあ俺だって人生をやり直したいと思ったことは一度や二度じゃない。なんと言ってもかつての人生は単調そのもので、それをいやだとは思っていなかったが心の底からそれになつとくしていたかと聞かれると……答えは、ノーだ。

 だから、もう一度人生を歩みたいと思うことはあった。

 でも俺がやり直したかったのは中学、高校とかであって赤ちゃんからじゃない。

 しかも、名前も母親も変わっているので人生をやり直すというよりも全くの別人としてのスタートだ。これはちょっとちがうんじゃないのか。

 そんなもやもやした気持ちがどこに届くわけでもなく、俺は母親の胸の中でおっぱいを飲んでいた。

 味は……良く分からない。前にネットの記事で赤ちゃんは味覚が育っていないから、味の区別が付かないなんてことを読んだことがあるし、実際に生まれたばかりのこの身体からだは、舌がちゃんと育ってないんだと思う。

 早く育ってしい。

 あまりにもごとみたいな考えだけどこの身体からだだとる以外にらくが無いので、めちゃくちゃ退たいくつなのだ。俺だって、赤ちゃんになったばかりのころはテレビくらい見れるだろうと思ったこともあったのだが、その考えは早々にちがいだと気づかされた。

 この家、相当に大きいみたいで赤ちゃんである俺には俺だけの部屋が用意されているのだ。そして、その部屋にはテレビもスマホもタブレットも無い。教育熱心というべきか、育児熱心というべきか。情報過多に慣れきった現代人の俺からすれば退たいくつで仕方がない。

 テレビを用意していない代わり……なのかは分からないが、母親がる前に読み聞かせはしてくれる。してくれるのだが、いまさらシンデレラやしらゆきひめ、ヘンゼルとグレーテルの話を聞かされても……ねぇ?

 どれも知っているというか、『そんな話だったな……』となるので、そろそろ新しい話を聞きたい。

 なんて、そんな不満をいだきつつおなかいっぱいになったので、俺はおっぱいから口をはなす。

 母親は俺の身体からだを持ち上げると、やさしく背中をとんとんとたたいた。

「げっぷできるかな?」

 これが成人男性に向けられた言葉ならあおり以外の何物でもないのだが、赤ちゃんは自分でげっぷすらできない。というか、この身体からだはおっぱいを飲むときに、おっぱいだけじゃなくて空気もいつしよにおなかに入れているみたいで、すぐにおなかが空気でパンパンになるのだ。

 それを、げっぷとしてき出さないと、俺は気持ち悪くて泣いてしまう。

 そう、泣いてしまうのだ。

 この身体からだになってから性格というか感情みたいなところが、身体からだねんれいに引っ張られる。

 だから俺は母親に背中をたたかれながら、いつしようけんめいげっぷしようと努力すること数秒、

「げふ」

「げっぷできてえらいね!」

 げっぷするだけでめられてしまった。うれしい。

 しかも、母親にめられたことと身体からだが楽になったことが相まって、思わずきゃっきゃと声があふれる。そして笑った俺を見て、母親が笑ってくれる。

 なんて幸せな生活なんだ。

 前世だとこんな風にだれかとれ合う時間なんてなかった。

 だってコンビニ店員とか、会社の人とかとこんなやりとりしないし。

 こいびとでもいればちがうのかも知れないけど、俺はこいびとがいたことないからよく分からない。

 るだけの生活はたしかに退たいくつだけど、それでもげっぷしたり、笑ったりするだけでだれかにめられるんだから転生して良かったと思わず考えてしまう。

 ……でもなぁ。

 そんな幸せな生活を手に入れたのになおに受け入れられないのは、数日前に聞いた母親の言葉があるからだ。

『どうか無事に、三歳をむかえられますように』という、あの言葉を。

 確かに赤ちゃんの身体からだは弱い。病気にかかったりすれば、命が危ないこともある。

 だが、ここは現代の日本だ。それはちがいない。

 俺がねむったとかんちがいした母親が近くでスマホをさわっていたり、日本語で書かれた育児本を読んでいるのを見たことがあるし、何なら遠くからテレビっぽい日本語を聞いたこともある。

 だからこそ、不思議なのだ。

 なんで『無事に』なんてことをいのるのだろう、と。

 確かに赤ちゃんの死亡率は大人と比べれば高い。高いのだが、日本での赤ちゃんの死亡率は高い方ではない。むしろ低いほうだ。

 なんでこんなことを知っているかというと、印刷会社に勤めていたときの俺の仕事は地元ぎようのビラや広告、ポスターなどを印刷することで、その中に病院からの仕事があった。そこで乳児のとつぜんからめたポスターを作製し、その時に死亡率にれたのだ。

 入社してかなり初めの方にやった仕事だから、その数字をまだ覚えている。

 もしかして、この身体からだって持病とかあるのかな……と考えたりもするのだが、そうだったら入院しているはずだろう。家にはいないはずだ。

 さらに言えば、あのいのりが一度だけなら俺もここまで心配をしていない。気になるのは、母親が俺をかしつけてから毎回いのることだ。

 そんなことをされると流石さすがに気が気じゃなくなってくる。もしかしたら、こっちの世界でもすぐに死んでしまうんじゃないかと思ってしまう。そして、そんな不安がつのってくると、不安の気持ちをおさえられずに泣いてしまう。

 だから、なるべく母親にはいのらないでいてしいと思っているんだけど、

「……お願いします。どうか、無事にイツキが三歳をせますように」

 おっぱいを飲み終えて、うとうとしていたタイミングでそう言われて……俺はビビった。

「ふぇ」

 泣き声をらしてしまうと、ぱっと母親の顔色が変わる。その不安そうな顔色が母親に心配をかけているのだと思って、俺はぐっと泣くのをこらえた。

 すると、母親は横になった俺の頭をそっとでながら、

「わっ、泣かなかったの。えらいね。よくまんできたね」

 そう言って、めてくれた。

 いや、やっぱりこの生活も悪くないな。何だかんだ言いつつ、やっぱり何やったってめられるのだからうれしいに決まっている。

んねしようね」

「あぅ」

 母親にそっと頭をでられながら俺は目をつむる。そして、ふとあることに思い当たった。

 ……そういえば、父親の姿を見てないな。

 俺がこの姿になってから数日。俺のところにやってくるのは母親だけで、父親の姿を見ていない。この家には母親以外の人の声が聞こえてくることもあるんだけど、どれも女性の声。

 ちゃんとした大人の男の人を見ていない。

 ただ母親が仕事に行っているわけではなさそうなので、だれかが生活費をかせいでいるんだとは思うけど。

 そんなことをツラツラと考えていると、ようやくねむがやってきた。ひまめるにはるしかないので、目をつぶって意識を手放そうとしたしゆんかん

 下腹部から激しい熱がおそってきた。

 何だこれ……腹痛……?

 そんなゆうちようなことを考えたしゆんかん、ズンッ! と、腹の底にひびくような激しい痛みと信じられないほどの熱が俺の身体からだおそってきた。

「ほぎゃあ! ほぎゃあ!」

 痛みと熱にえかねて、思わず泣き出す。

 すると、そのしゆんかんに横にいた母親が血相を変えて俺をきかかえた。

「イツキ、だいじよう? イツキ!?」

「ふぎゃあ!」

 痛いッ! 痛い痛い痛いッ! なんだこれ痛すぎるッ!

 俺が死んだときに感じていたような痛みと熱。それにまさるともおとらない痛みが全身をおそう。

 呼吸が止まる。泣くために息をき出したから、酸素が足りなくて息苦しくなる。がんって息をしようとするのに、泣くのを止められなくてまる。酸欠になる。おぼれる。なみだと痛みで視界がれる。

 死。

 それが再び頭をよぎる。

だいじようだいじようだから! お母さんがいるから!」

 熱におそわれて、ぐるぐると回る視界の中で必死に俺をかかえる母親の姿が見える。

 見えるのに、かすんでいく。かかえられているのかも、横になっているのかも分からない。

 いやだ。死にたくない。死にたくない!

 せっかくあの苦しみからのがれたのだ。もう死なずに済むと思ったのだ。

「何で、あの人がいないときに限って……!」

 母親の言葉が頭の中を流れていく。

 腹の底からくる痛みからのがれるべく、身体からだのありとあらゆる場所に力を入れた。

 それしかできなかった。

 そして、かそれが功を奏した。

 ぶり、といういやな音とともに俺の全身をおそっていた熱がおしりからけていったのだ。

 次のしゆんかん、さっきまでの痛みと熱がうそみたいに消えた。視界も急に落ち着いた。呼吸もできる。まるで、さっきまで悪夢を見ていたようで。

 ……死んでない?

 俺がほっと息をらすのと、母親が俺の変化に気がつくのは同時だった。

「イツキ。だいじよう……?」

 心配そうに俺の顔色をうかがいながら、そっと俺を横にする母親。

 俺はそのタイミングで自分がかかえられているのだと分かった。

「……いをえたのね。良かった。本当に良かった……っ!」

「うゅ」

 母親はそう言いながら、ようやく俺のおむつがふくらんでいることに気がついて、え始めた。

刊行シリーズ

凡人転生の努力無双3 ~赤ちゃんの頃から努力してたらいつのまにか日本の未来を背負ってました~の書影
凡人転生の努力無双2 ~赤ちゃんの頃から努力してたらいつのまにか日本の未来を背負ってました~の書影
凡人転生の努力無双 ~赤ちゃんの頃から努力してたらいつのまにか日本の未来を背負ってました~の書影