さっきまでの痛みなんて忘れて、母親が涙を流しながらおむつを交換している光景に思わず笑ってしまう。
「……うん。ちゃんと魔喰いを乗り越えてる。これなら、大丈夫よ。イツキ」
笑ってしまったのだが、母親の言葉で思わず真顔になった。
聞き間違いじゃなかったら、母親は『マグイ』と言った。
なんだろう。一度も聞いたことのない言葉だ。それがあの激しい痛みと熱の症状の名前なんだろうか。
マグイ、真杭? いや、違うな。意味が分からない。
もしかして俺が知らないだけで、子育てだと一般的な言葉だったりするんだろうか。だとしたら俺だって聞き覚えがあっても良いと思うんだけどな。
調べようにも、スマホはないしパソコンだってこの身体だと使えない。そもそもパソコンがこの家にあるのかも分からない。
けれど、あれが相当ヤバいものだということくらいは分かる。
うんちが出なかったら間違いなく死んでいた。
ぞっとするような理解とともに、俺は『もしも』を考える。
もしも、さっきのが本当の赤ちゃんを襲ってたらどうなるんだろう?
中身が大人の俺だって無我夢中で全身に力を入れることしかできなかった。それ以外に抵抗なんて出来なかったし、そもそも抵抗なんてことも考えられる余裕がなかった。そんな痛みが本物の赤ちゃんを襲っていたら……死んだっておかしくないんじゃないのか?
だったら、母親が言っていた『三歳まで無事に育ってほしい』って毎回願ってたのは、このマグイが原因だったのか。
嫌だ。せっかく生まれ直したのに、すぐに死にかけるような人生は嫌すぎる。
もっと楽しい人生を送らせて欲しい。
「ちゃんと寝れるかな、イツキ」
「う」
おむつを片付けた母親に頭を撫でられて、俺はそう返す。さっき力んだときに汗ばんだ髪の毛が額に張り付いていたのを母親が剝がしてくれた。
それで最後の最後まで快適になったので目を瞑って眠ろうとしたのに……眠れなかった。
腹の底に違和感があるのだ。
「……うみゅ」
腹にあるのは痛みじゃない。
熱だ。腹の底に熱が溜まっているのだ。それが分かる。
さっきの『マグイ』が終わってから急に感じられるようになった不思議な熱だが、『マグイ』みたいに悪い感じはしない。むしろ、ぽかぽかと身体を温めてくれる優しい熱だ。
生まれたときからそこにあったぞ、と言われても納得してしまうほどに自然な温かみ。
「どうしたのかなー? まだ眠れないみたい?」
「ふみゅ」
温かいのは良いのだが、眠れない……。
冬になると足先とか手先が冷たいのに、身体の中心はむしろ熱いみたいな、あの感じ。身体の中心と端の方で熱の量が違うので、何とも言えない気持ち悪さがある。
だから、寝ようと思ってもお腹のあたりが気になって眠れないのだ。
……どうしよう?
とりあえず『マグイ』のときに熱を消したみたいに全身に力を入れてみるがダメ。何も変わらない。うーん。熱は消えなくても良いから、足先とか手先まで行ってくれると楽になるんだけどな。
そんなことを考えながら俺は熱そのものに意識を向けてみると、ぐ……っと、熱が動いた。
「ふぇ!?」
え、動いた! 動くのかよ、これ。
思わぬ動きにびっくりしてしまって、泣き出すところだった。
けど、熱が動くのならちょうど良い。俺はちょっとずつ、ちょっとずつ、熱を全身に溶かすことにした。まるで味噌汁を作るときの味噌みたいに。
それを繰り返すこと数分、お腹の中に溜まっていた熱が全身に回り始めるのを感じた。
……温かい。
思わぬ方法で解決策を見つけた俺は、ぽかぽかとする熱に包まれた。すると次第に眠気が戻ってきて、俺はうとうとしてゆっくりと眠りについた。
それからどれだけ経っただろうか。
「帰ったぞッ!」
急に玄関の方から大きな声が響いて俺は思わず目が覚めた。
あまりの大声に泣き出すかと思ったが、逆にびっくりしすぎて泣きもしなかった。
玄関からこの部屋まで結構距離あると思うんだけど……と、母親に抱っこされて回った家の構造を思い出しながら、声の大きさに改めて驚く。
「イツキはどこにいる!? 元気にしてるか!」
「向こうの部屋で寝てますよ」
ドタドタという大きな足音と共に聞こえてくる女の人の声は母親だ。
母親が敬語を使っているのを聞くのが初めてで、不思議な気持ちになった。
「そうか。顔だけでも良いから見たいものだ」
「見てあげてください。あなたの子ですから」
あなたの子、ということはこの大きな声の主は父親か。父親がいたのか。そりゃいるか。
そんな意味不明なことを考えていると、縁側と部屋を閉じていた障子が勢いよく開かれた。そして、大人二人が部屋に入ってきたのが分かった。
「おぉ……! この子がイツキか……」
「えぇ。抱っこしますか?」
「……う、うむ。随分と小さいな」
「赤ちゃんですから」
父親の太い声を聞きながら、俺はどうにかして父親の姿が見れないかと苦心した。
首は据わっていないから動かないので、どうにか目だけ動かして父親の姿を見ようとして……その姿が目に入った瞬間、思わず息を吞んだ。
そこにいたのが、めちゃくちゃ大きな男だったからだ。
身体は分厚くて、溢れ出さんばかりの筋肉があるのが服の上から分かる。さらに顔は傷だらけで、片目は潰れているのか眼帯までしていた。
ど、どういうこと?
なんで日本なのにそんな歴戦の軍人みたいな姿なの!?
俺の驚きはついに感情の堰を越えてしまって、涙に変わった。
「ふぇええええん!」
「むっ! な、泣いてしまった……」
厳つすぎる男が、泣く俺を前にして戸惑っている姿は面白かったが……それでも、衝撃の方が強かった。止まらぬ涙にあたふたし続ける父親から、母親にそっと俺が渡される。
いつもと同じその感覚に俺は安心感を覚えて、ゆっくりと感情が落ち着いていく。
「ほら、泣き止みましたよ」
「すごいな……」
「抱っこしてあげてください。まだ首が据わってないので、しっかり支えてくださいね」
「うむ……!」
単語でしか喋れなくなってしまったのか、父親はおっかなびっくりといった様子で俺の身体を再び母親から受け取った。母親とは違う、ごつごつとした筋肉質な身体。しかし、母親と同じくらいの優しさに包まれながら、俺はある違和感に気がついた。
……ん? 温かい?
父親の中心に、熱を感じるのだ。
それも、俺の腹の底にあったあの熱と同じような熱を。
「か、可愛いな……」
「私たちの子ですから」
すっかり泣き止んだ俺は、ほっぺをつんつんと父親にされるがままになった。しかし、俺のほっぺをつつくその指も太い。何をどうすればそんなに太くなるんだと言わんばかりに太い。しかも、指先まで傷だらけだし。どうなってるんだ。本当に。
ほっぺを触られることに慣れてないので俺がむっとしていると、
「あの、あなた……」
「どうした?」
「今日、イツキが魔喰いに……」
「何?」
母親の言葉を聞いて、父親の目の色が変わった。『マグイ』って、俺が知らないだけで本当は子育て家庭では一般的な単語だったりするんだろうか。
「まだ生まれて一月も経ってないだろう。まだ早すぎないか?」
「……で、でも。この子が急な熱に襲われて」
「しかし、今は普通に見えるぞ。魔力も落ち着いている」
……今なんて言った? 魔力、と言わなかったか?
流石にそれは聞き逃せない。『魔力』はいかに子育てに疎い俺だって知っている。
それは漫画やゲームで使われる言葉だ。間違っても、子育ての中で飛び出すような言葉じゃない。
だとしたら、『マグイ』の指す意味も変わってくるぞ。
マは恐らく……魔。
魔グイ、魔杭。いや、違うな。
……『魔喰い』か。
「でも、私だって如月家に嫁いだ者です。魔喰いを見誤りはしません」
「ふむ……。だが、むしろイツキの魔力は全身に行き渡っているように見える。まるで『廻術』を行っているみたいだ」
カイジュツ……カイジュツ……?
一つ疑問が解決したと思ったら、今度はまた知らない言葉がでてきた。
「そ、そんなこと! だって、あれは五歳から使う技でしょう!? 生まれたばかりの子が使うなんて。そんな話、聞いたことが……」
「ふむ……」
父親は顎に手を当てながらしばらく思案すると、
「それなら、イツキは天才なのかも知れないな!」
ぱっと笑みを浮かべて、父親は豪快に笑った。
もちろん、母親はそんな父親に納得いっていない様子で、
「変なことを言うのはやめてください! また魔喰いに襲われたら今度こそ死んでしまうかも知れないんですよ!? 今すぐ魔力の沈静化をしたほうが……」
「安心しろ、楓。今は安定している。下手に魔力に触る方が危険だ。それが赤子ならなおのこと。お前とて、それは知っているだろう」
へぇ。母さんの名前は楓っていうんだ。今の今まで名前を知らなかったので、なんか得した気持ちになった。
「もしかしたら、イツキは如月家始まって以来の祓魔師になるかも知れんな!」
……祓魔師?
何だそれ……と思うよりも先に、父親が俺を抱きしめた。その力が強すぎて思わず泣いた。
泣きながら心の中で思った。
ここ本当に日本かよ!?