昔から、いろんな音が聞こえた。
陽に焼け色褪せた古い看板からも。新品の服で学校に来て嬉しそうな女子生徒の横顔からも。通学路に転がっている煙草の吸い殻からさえも。
全部、特有の音がした。
いつからか、それらはノイズになった。
それから、世界はやかましくなった。
まるで、世界に嫌われているみたいで。
ノイズの海に漂いながら、一人ぼっちで遭難しているみたいで。
もう、耐えられない。
だから今日──全部、終わらせる。
***
「──本当に、辞めるのか。月城」
ノイズ混じりの声で問うてくる担任へ、俺は「お世話になりました」と軽く頭を下げた。
高校二年の夏休み明け。始業式後。空調の効いた職員室にいる生徒は、俺だけだ。
「親御さんを亡くしたのに、すぐ切り替えられる月城は凄いよ。昔と違って今なら色んな補助だってあるし、そういう制度を利用して学校に来続けることだってできるのに」
「いえ、やりたいこともあったので。良い機会です」
「お前は音ゲーでも日本一になりかけたんだったな。努力の男だ。……何かあったら、いつでも相談しに来いよ。俺はいつまでも、お前の先生だからな」
「はい。ありがとうございました」
職員室を出る。昇降口で上履きからスニーカーへ履き替え、グラウンドで部活動に精を出している生徒達の青い掛け声を横目に、門を出た。
これで、晴れて退学だ。
他人以上知り合い未満のクラスメイトも、突然級友を失ったことに一週間くらいは戸惑うかもしれないが、すぐにいつもの日常に戻るだろう。
別に構わない。こっちだって、あいつらとの思い出はノイズだけだ。
これで、終活も終わり。
爛々と輝く太陽が、首筋をジリジリと焼く。まだまだ夏は終わりそうにない。
俺は耳栓のようなカナル型のワイヤレスイヤホンを耳にねじ込み、校門を後にした。
***
今日は、ある特別な日だ。
八〇年にも亘って愛されたローカル線が、最後の運行となるのだ。
俺は、そんな記念すべき最終列車へ身を投げるつもりで、終活を進めてきた。
今日が、最後の仕上げ。決行場所は終点駅の直前に目星をつけてある。先回りしておくにしてもまだだいぶ時間があるため、それまで近くのマックで時間を潰すことにした。
注文の列に並ぶ。その間に、深呼吸して心の準備をしておく。
レジが並行して三つ動いていたため、五分と待たずに順番が回ってきた。
さぁ、ここだ。店員とのやりとり。俺は意を決してワイヤレスイヤホンを外し──その瞬間。
店内に溢れていた鋭いノイズが、堰を切ったように一斉に襲いかかってきた。
空調の駆動音、隣のレジを叩く音、奥でポテトが揚がる音、店内で談笑するイートインの客たちの声──それらが全て、歪んだ異音になって俺を刺し殺すべく四方から迫ってくる。
……いつにも増してうるさいな、コレは。ちくしょう。
いつからか俺を襲うようになった、共感覚にも似た謎の症状。
人の話し声や生活音なんかも全て周波数のズレたラジオみたいにノイズが混じり、そしてその姿を視認するだけでも、耳障りな金切り音が聞こえてくるのだ。
文字を見て色を感じる人がいるように。音に味を感じる人がいるように。
俺は、人類のあらゆる営みにノイズを覚える体質を持っている。
あぁ、くそ。雨のように降り注ぐ雑音に、頭が叩き割られそうだ。
俺はさっさと、ハンバーガーを二つとコカ・コーラのLサイズを注文した。
料金を払ってトレーに商品が置かれていく間に、レジ横の高校生テーブルの会話が届く。
「ねぇねぇ、星宮未幸、何で辞めちゃったんだと思う? 学業に専念って、絶対噓じゃん?」
「知らねーよ。妊娠したからとかじゃねーの?」
「ぎゃはは、流石にないない!! だったらクソウケるけどな!!」
あんまりキャンキャン喋らないでほしい。頭に響くから。
商品の揃ったトレーを持って、逃げるように壁際の一人席へ向かう。
「そういえば聴いた? 昨日、新しい歌YouTubeにあげてたよ」
「あー、『はひゅー』? 聴いた聴いた。めっちゃよかったよね」
道中、女子高生の会話が鼓膜をガリガリと搔き乱すも、一人席に到着すればこちらのものだ。
トレーを置き、荷物置きへ鞄をしまうと、世俗から隠れるようにイヤホンを装着した。
ひとまず、周辺のノイズが遠ざかる。ふぅ、とひとつ息を吐いた。
頭痛にも似た倦怠感が少し落ち着いた頃、ハンバーガーを片手にYouTubeのアプリを開いた。
──はひゅーの新曲、か。
はひゅー。アンドロイドシンガー──通称『ドロシー』という歌声生成ソフトを用いて作られた曲を歌い、ネットで配信している『歌い手』だ。年齢不詳で素顔も不明。空のように透き通る確かな歌唱力で、僅か三年ほどで若者のカリスマに上り詰めた実力派女性シンガーだ。
デビュー当時から、俺は彼女の歌を好んで聴いていた。
彼女の歌には、ノイズが一切なかったから。
はひゅーの歌声だけは、雨上がりの夏空のようにどこまでもクリアで、体の内側が洗われているみたいで、安心した。逃げ込める居場所の少ない俺にとって、彼女の声はオアシス以外の何物でもなかったのだ。
俺は登録チャンネルの欄から『はひゅー』を選択。一番上が最新の投稿だった。『邂逅FIRE FLOWER』という曲らしい。あぁ、男捨離Dの新曲か。
ピアニストやギタリストなどに倣って、ドロシーを使用して作曲活動をする人はドロシストと呼ばれる。彼らは、名前の最後にドロシストから取った『D』をつけて名乗ることが多い。
男捨離Dは、残酷な歌詞と激しい曲調が特徴のドロシストだ。
はひゅーを一躍有名歌い手に押し上げたのは、男捨離Dの影響が大きい。はひゅーは、男捨離Dの曲のほとんどで『歌ってみた』動画をあげているのだ。
はひゅーの伸びやかな歌声と男捨離Dのダークな曲調とのミスマッチさ、そして、負の感情を痛切に表現するはひゅーの歌唱力が、数多くのドロシーファンを惹きつけたわけだ。
再生画面をタップ。数秒のCMの後、ベースソロから始まる曲が流れ始めた。
心地よい低音に、ギターやシンセなどの楽器隊が合流。そして、化学反応を起こしたように激しい音が爆ぜた。空襲のような音の爆撃がひとしきり続いたあと、はっと一瞬の間が空いて、ようやくその声が紡ぎ出される。
『遠い所から貴方を見つけた 終わりへと向かう背中は小さいね』
透明感のある美しい高音。
ドロシー楽曲は、人間が歌うように出来ていない程キーの高いものが多いものの、はひゅーもまた人間離れしたハイトーンボイスが持ち味。
『何も得られずにただ終わり 誤魔化した心は何処へ行くの?』
美しい高音の中に、しかし確かに垣間見える苦悶の感情。
まるで、彼女が本当に思いつめているかのようだった。
『落ちて 落ちて 落ちて 落ちて 終わりからすらも見放され 幸も不幸も分からない』
顔も知らないのに、彼女の表情が脳裏にありありと浮かぶ。
きっと、涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら、それでも抑えきれない激情を吼えている。
『つまらない現実 叶わない願い もう要らない未来 目も耳も心も塞いだ夜空で』
ドラムが鼓膜を叩く。ベースもギターも迫ってくる。はひゅーが叫ぶ。サビに向かうべく、楽器隊が暴れ、躍り、雰囲気を盛り上げ……そして、不意に、音が止まる。
『花火が ばっと咲いた』
サビが始まる頃には、泣いた彼女はどこにもいなかった。
***