すっかり陽は沈んでいた。
俺は薄暗い列車に揺られながら、耳を塞いでいた。イヤホンの電池が切れたのだ。
はひゅーの歌声がなければ、イヤホンをしても、列車内の喧騒が通り抜けてきてしまう。
列車が空気を押し除ける音、線路を叩く音、車掌のアナウンス──そして何より耐えられないのが、鉄オタ勢による異常な人口密度と高揚した歓談の嵐だ。
その肉壁による圧力と生ぬるく湿気った空気は毒ガスみたいに不快で、伴うノイズのせいで鼓膜を鉛筆で直接撫でられているような鋭い痛みさえ覚え始めた。
地獄の数十分を耐え、ようやく列車が終点に到着した。ゾロゾロと降車する鉄オタ達の後に続いてホームへ降りる。そこも、高そうなカメラを首にぶら下げ談笑する人間だらけだった。
人混みを搔き分けて迅速に改札口へ。ICカードをかざして駅の外へ出た。
夜闇と鈴虫の合唱が出迎えてくれ、生暖かい風に乗って青臭い香りが鼻を突く。
俺は一つ息を吐くと、背後の喧騒から逃げるように、切れそうな街灯を尻目に獣道へ足を踏み入れていく。目的地は、線路を跨ぐ小さな橋。列車が終点駅へ辿り着く直前に通過する、吹けば飛ぶようなボロボロの橋梁だ。
そこから、列車へこの身を投げるために。最期の瞬間をそこで迎えるために。
それだけを考えて、ただひたすら、むせかえるような熱帯夜を突き進む。
山道を搔き分け進むこと二〇分。汗だくになりながらも、目的の橋に到着した。
電車を撮影するスポットとしては悪くないが、ここへ来る人間はいないみたいだ。
橋の欄干へ上半身を預け、ぼーっと夜空を見上げる。
満天の星だ。都会の喧騒から切り離された山奥の澄んだ空気は、星々の瞬きを阻害することなく地上まで届けていた。気温は相変わらず高いが、汗をかいているのもあって頰を撫でる風が涼しい。そして何より、あれだけ鬱陶しかったノイズは、その一切が存在しない。
やっぱり、ここだ。求めていた死に場所に、適している。
死ぬにしても、ノイズまみれの縁もゆかりもない地で終わるのは嫌だったけれど。
この静謐な場所で、子どもの頃から使っている路線と一緒に死ねるなら悪くない。
そんな、センチメンタルなことを考えて。
半ば無意識に、カッターシャツの下から、水晶が嵌められたネックレスを取り出した。校則で禁止されてはいたが内緒で常に身につけている、母親の形見だった。
途端に。耳元でシンバルがぶっ叩かれたような、爆音のノイズに襲われる。
鼓膜が破れるかと思った。俺はゴミ箱へ押し込むように、慌ててそれを服の中へしまう。ハウったマイクみたいな耳障りな残響だけを残して、怪音が薄れていった。
本当に、このネックレスはいつもうるさい。何度捨てようかと思ったことか。だけど、形見だから捨てられないのだ。だってそれは、過去を、母親を切り捨てるのと同じだから。
あぁくそ、気分がぶち壊しだ。
いつもこうだ。感傷的な気分になんか、流されるもんじゃない。
口直しに、はひゅーの歌を聴こうと思い立つ。ここなら、イヤホンじゃなくても誰の迷惑にもならないだろう。そんなことを思って左ポケットへ手を伸ばし、
「……あれ」
眉を顰める。ない。スマホが定位置に存在していなかった。
鞄の中を漁るも、目的の電子機器がどこにも見当たらない。
心当たりといえば、先程寄ったマックだ。あそこを出てから、一度もスマホを触っていない。
大きくため息を吐き、捜索を諦める。
死を前にして小さな未練が残ってしまったが、仕方ない。
きっと、俺は、どうしようもなく、世界に嫌われているのだから。
やがて、遠くの方から、列車が線路を叩く音が聞こえてきた。
そろそろだ。あと数分もしない内に、最終列車が橋の下を通過し、終点へ最後の停車をする。
そして、永きに亘る役目を終えた鉄道とともに、この腐った人生も幕を下ろすのだ。
俺は欄干へ足をかけ、一気に乗り越える。鉄柵の上へ座り込むと、木々の隙間から黄色い光が見えた。列車の前照灯だ。段々と強くなる光に、近づいてくる死を実感した。
震えはなかった。寧ろ、安らぎさえ覚えていた。
頭上を見上げる。天球を埋め尽くす幾億の星々は、この世界には自分一人しかいないんじゃないかと錯覚させてくる。いや、きっとその通りだ。俺には、この自殺を悲しむ人間も、寄り添い共感してくれる人間も、誰一人としていない。この世界の枠組みから、弾かれている。
思わず、乾いた笑いが溢れた。
──あぁ、これならきちんと死ねそうだ。
体を前のめりに傾げる。来るべき時が来たら、すぐに飛び出せるように。
「──ねぇ」
背筋に、電流が走る。
ふと斜め後ろからかけられた声に、弾かれたように振り向いた。
いつの間にか、一つの影が立っていた。
帽子を被り、目鼻立ちはよく見えないが、可憐な立ち姿だけで同年代の少女だと分かった。
俺がフリーズした数秒でそいつは欄干をよじ登り、隣に腰かける。
なんだこいつ。いつから? 何しに? ぐるぐる思考が回る。
「あんた、もうすぐ死ぬ前にさ、」
光が迫る。その時が迫る。
はっ、と正気に戻った。
俺は少女を拒むように腕を振り、しかし掠めて彼女の帽子を弾く。
腕を摑まれる。反抗を御される。
眩い光が、俺たちを照らした。
「──あたしとキスしなさいよ」
轟音を立てて、列車が通り過ぎた。
暗闇を取り戻した世界で、俺は少女と唇を重ねていた。……いや、重ねられていた。
すかさず少女は、俺の首を抱き込むように、橋の上へ共に倒れこんだ。
落ちた衝撃で我に返ると、横になったまま少女を突き飛ばし、砂まみれのまま立ち上がる。
「なんっ……だよ!! お前ぇッ!!!!」
怒号が、闇に滲みていく。
誰かに邪魔されるなんて思わなかった。俺を現世へ繫ぎ止める人なんかいないし、いたとしても、この暗闇では、きっと止められない。止められない、はずだった。──なのに。
「なんで邪魔した!! ふざけんなよ!!」
「……うふふ。あはは。へったくそなキス。もしかして初めて?」
怒りが突沸した。激情に任せて摑みかからんと、彼女へ勢いよく──「いいよ、殴る?」
ピタッ、と。右腕の動きを止める。彼女は、まったく動じていなかった。