品評の矛先がとある女子に向けられた、その瞬間。お構いなしに動き続けていた男達の舌端がぴたりと止まった。つられて治の瞼が開き、視線が最前列中央の席へと吸い寄せられていく。
院長──今上月子は、今日もそこで分厚い本を読んでいた。
彼女に関しては今更品評など必要ないだろう。今年初めて同じ組になった治でさえも、それを理解していた。あの高嶺の花は、いくら褒め称えても褒め足りないのだから。
まず、容姿。美を司る女神の恩寵を全て賜ったかのような相貌。
綺麗な二重の目から伸びるまつ毛は長く、歪みのない鼻と口が絶妙なバランスで整っている。
小顔に流れるセミショートは深黒に艶めき、対照的に肌は真っ白い輝きを放つ。
やや高めの身長と、華奢で細い手足。どこを取っても女子としての魅力が詰まっている。
抜きん出ているのは見てくれだけではない。その頭脳もまた常人離れしており。
昨年度の定期試験はぶっちぎりで学年一位。主要五教科に関しては全て満点という。
才色兼備。今上月子という美少女を形容するのに、これ以上相応しい言葉はない。
「今日も勉強してるぜ。やっぱり医学部に行って医者になるんだろうな」
「俺ら下々の者じゃ見向きもされねーよ。ああ、将来院長の御眼鏡に適う男が羨ましい……」
勝手に諦め、勝手に羨む男達。なんでいまフリー前提なんだ、と治は内心突っ込んだ。
とはいえ、あのガリ勉少女が色恋に現を抜かしている光景など全く想像できない。
いま月子が熟読している本。それは教科書や参考書ではない。漫画や小説、女性誌といった娯楽の類でもない。一般的な高校生が読むには全く分不相応なもの──医学書だ。
月子の名字、『今上』という文字列から、多くの人が真っ先に連想するものがある。
今上総合病院。誰もが知る日本一の大病院である。
年々健康志向が高まる中、テレビや雑誌に健康アドバイザーとして医師が露出することも多くなった。結果、今上病院の名も、その院長の名も、もはや世間が周知するところとなり。
だから、生徒達も皆知っているのだ。今上月子が、今上病院現院長の娘であることを。
そして遠い未来の先に、彼女がその座に就くのであろうことを。
もちろん月子はまだ院長でも医者でもない。抜群の成績でクラス委員長を務める、一介の女子高生に過ぎない。けれど、同級生達は尊敬と称賛の念を込めて、彼女のことを院長と呼ぶ。
委員長を、たった一文字だけ略して。
「──あの、院長。いまちょっといい?」
そのとき、一人の女子が月子の机に近づき、声をかけた。
月子は医学書から顔を上げ、じっと少女を見つめる。五秒ほど経過してから口を開いた。
「……どうしたの? 若田さん?」
「え? あ、その……私、野口だよ」
名前を間違えられ、野口は苦笑いを浮かべながら訂正した。月子の目が大きく開く。
「……ごめん、若田さんの声に似てたから」
「声……そ、そうだよね。院長が私の顔なんて、覚えてないよね」
自分が月子の眼中にない存在であることを突き付けられ、野口の表情に影が差した。
「ああ、ええと……なるべく早く覚えるよ。一年間よろしくお願いします」
高嶺の花が下々の者と会話をする機会は珍しく、教室中の視線が集まっていく。
「院長、私バスケ部なんだけど、春休みの試合で相手と接触しちゃって……」
「怪我をしたのなら、私じゃなくてお医者さんのところに行きなさい」
間髪を入れず、月子はぴしゃりと言い放った。
「も、もちろんもう行ったよ。処置もしてもらったし。すねの打撲だって」
「そう。軽くてよかったね。しばらく安静にしていれば、すぐにプレーに復帰できるよ」
「ていうか、もう復帰してる。それとは別の問題が起きちゃって……院長に何かアドバイスもらえないかなぁって」
「別の問題って?」
問われた野口は両手の人差し指を合わせ、頰を赤らめていく。
「だ、男バスの毛利くんにね、週末遊びに行かないかって誘われたの」
「おおー、青春だ。でも、それには私はなんの助言もできないよ」
「できるよ! だからその……痣を早く治す方法があったら、教えてほしいの」
野口の願いに、月子は合点がいったような表情を浮かべた。
「できればスカートをはいて、女の子っぽいところを見せてやりたいのよ」
「それは悩ましいね。……とりあえず、ちょっと見せてみて」
軽く頷いた月子が隣の席を指差す。野口は腰を下ろし、おずおずと右脚を伸ばした。
長めの靴下を脱いで露わになったのは、皮膚の下で血管が損傷し、内出血を起こしたことによる打撲創。女子高生の身体にはあってほしくない紫斑が、痛々しく存在していた。
「ご、ごめん、グロいよね」
頭を下げた野口だが、月子は「ううん、まったく」と首を振り、受傷箇所を視診していく。
「PRICEはちゃんとしたの?」
「ぷらいす?」
「Protection、Rest、Ice、Compression、Elevation」
「あ、うん。コーチがしてくれた」
「痛みはまだある?」
本物のスポーツドクターがするかのような問診に、野口は答えていく。
「もうないよ。でも一応、家ではなるべく冷やすようにしてる」
「……それ、もうやめたほうがいいね。むしろ温めたほうがいい」
「え?」
一日でも早く痣を消そうとケアを続けていた野口は、真逆のことを言われて啞然とした。
「この痣、うっすらと黄色が混じってきてるでしょ。これはもう治りかけの段階なの。こうなったら患部を温めて血行をよくして、内出血が身体に吸収されるのを促してあげて」
「そ、そうなの? 私てっきり、冷やしたほうがいいのかと……」
「最初のうちはね。……これくらい、スポーツのコーチならみんな勉強してることなんだから、ちゃんと教えてあげてほしいよね。特に女の子相手には」
淡々と、医者の卵は続ける。
「お風呂に入って、シャワーを優しくマッサージするように当てたり、タオルを巻いた使い捨てカイロで温めてあげたり、あとはヘパリン類似物質含有クリームを塗ってあげるとか」
野口は慌ててスマホを取り出し、アドバイスをメモしていった。
「ありがとう院長! 私、頑張って治すから!」
「お大事に。……でも、もし週末までに治らなかったとしても、隠す必要はないと思うよ?」
月子の主張に、痣を気にする少女は目をぱちくりと瞬かせる。
「それは野口さんが青春をバスケットボールに打ち込んでいる証だもの。相手も同じ競技に熱を上げているのなら、そういうの、ちゃんと伝わるんじゃない?」
「そ、そういうものかな?」
「じゃあ、痣のせいで今回大変な思いをしたから、もうスポーツはやらないって思った?」
「……ううん、私、バスケ大好きだから。何回怪我しても、やめたりしない」
「その気持ちを伝えてあげるほうが、痣を治すよりよっぽど魅力的に映りますぜ?」
少なくとも私には、と締めくくり、月子は野口の診察を終えた。
「……すげぇな。心理カウンセラーとかにもなれるんじゃねーか?」
治の近くで一部始終を見守っていた男子が感服の声をあげる。
「絆創膏貼られてー」「俺は薬飲ませてほしい」「将来は絶対白衣が似合うスーパードクターになるよな」
雨あられの如く降り注ぐ称賛の声に、治も内心で同調せざるを得なかった。
彼女は決して医療行為をしたわけではないだろう。医師免許を持たない者にそれが許されないことは、治でも知っている常識だ。
法には触れない、家庭の医学の範疇で、彼女は一人の人間を健康に導く助言をしたのだ。