第一章 医者はどこだ!⑤

「よく言うでしょ。ミミズだってオケラだって、生きているんだって」

「無理無理無理! あたしほんとに虫とかダメなの!」

「……そう。苦手なものを受け入れるのは、難しいだろうけどね」

 つきは一つ小さな息を漏らしたあと、人差し指をに向けて差し出していく。

 ひっ、とクラス中の女子が寒気立つのもいとわず、指の腹に迎え入れた。

 そのまま指を見つめる。少しだけ口元を綻ばせ、窓に向かって歩き出した。

「でも、覚えていてほしいな。さんに宿る命も、このに宿る命も、等しく世界に一つしかない大切なものなんだって」

 おさむの机のすぐ後ろに立ち、左手で窓を開く。

「虫ってね、いまを必死になって生きている生き物の代表なの。何かに熱中することを、なんとかの虫って言うでしょ」

 外に出した指に吐息を吹きかけた。風圧に流され、の姿は一瞬で見えなくなる。

「あの桜だって、生きてるんだ。いずれ花散るそのときまで、全力で咲き誇っているんだよ。だから、あんなにも色鮮やかで……れいなんだよ」

 遠くを見据えるつきの横顔を、おさむは至近距離から見上げることになり。

「いつか終わりがくる人生を私達も過ごしてる。趣味でもスポーツでも恋愛でも、いまこのときの青春を何かの虫になっている人間は、きっと何よりも美しい虫──そう思いますぜ?」

 春風になびく彼女の美しい黒髪が、懸命に何かを伝えようとしているように思えた。

「じゃ、じゃあ、院長はGとかも退治しないの?」

「んん、そう言い返されると困っちゃうね。害虫ってのは確かにいるし、私だってお魚やお肉を食べて命をつないでいるわけだしね。……でも、無駄なせつしようをしないに越したことはないでしょ」

 つきはかぐやの机に戻ると、スティックタイプの手指消毒液を取り出し、ティッシュに含ませて丹念に椅子を拭いていった。

「これで気持ち的にも大丈夫かな、さん」

「う、うん、ありがとう。院長も、エンガチョする?」

「しないよ。は益虫だから」

 平然としている同い年の女子を、やはりかぐやは理解できない様子だった。

「それにしても……くろまつくん、だよね?」

 唐突に呼びかけられ、おさむは「ん?」とつきを見やる。

「青春だね」

 ただ一言。初めて交わす院長様との会話で、そんな言葉をかけられた。どういう意味だとかえそうとした瞬間。吸い込んだ息に含まれたかぐわしき香りで、その意図を察した。

「お、おい! いつまでくっついてんだよ! もう離れろ!」

「あー、やっぱりあの椅子、まだちょっと気持ち悪いかも。このまま授業受けよっかな」

「ふざけんな! とっとと月へ帰れ!」

 抗議の声を意に介さず、かぐやはおさむの足を椅子にし続ける。

「……なあ、早くどいてくれよ」

「怖くて腰が抜けちゃった。おさむ、立たせてくれない?」

 茶化すように手を上下させる少女から目をらし、「……どいてくれ、頼むから」と願った。

 脳内を無にして、かぐやが自ら腰を上げるまでじっと耐え続ける。

「うわぁ、エロまつ、かぐやにセクハラし放題だよ」「結局巨乳じゃなくても見境なしじゃん」

「殺す。くろまつ絶対殺す」「俺らもエロス大魔神になったほうがいいのか……?」

 人気者の女子と密着し続けるエロス大魔神には、ひそひそとヘイトが向けられていく。

「……さて! おふざけはこれくらいにして、午後の授業も頑張っていこー!」

 いまはとて あまごろも 着る折ぞ。

 教室中に宣言するように声をあげたお姫様は、ようやくいるべき月の都へと戻っていった。

 席を立っていた生徒達もつられて着席していき、騒がしかった昼休みが終わりを迎える。

「──随分な言われようだね」

 黒板へ向き直ったおさむの隣から、かぐやのささやく声がする。

「悪く言われるようなことをしてるんだから、当然の評価だろ」

「なら、褒められるようなことをして取り返せばいいじゃん」

 そのロジックは単純明快で、誰にも否定されるものでもない。おさむ当人を除いては。

おさむあかちゃんを、ちゃんと治してあげるんだよ?」

 念を押すように。有無を言わせぬように。首を傾ける隣人に返すのは、ためいき一つ。

 煩わしさの象徴たるその反応も、旧知の仲である少女には違う意味に捉えられてしまい。

 口角を上げたかぐやが、「頑張れ」とエールを送った。

 おさむはもう一度心に刻み込む。

 ──これは、ただの修復作業にすぎない。


 ◇


「おお、くろまつくんじゃないか!」

 二年生になってから初めて美術室の扉を開けると、久々に見る二人の先輩の顔があった。

 眼鏡の男子は美術部部長のくず。隣の細い目の女子は副部長のばなだ。

「久しぶりね。バレンタイン以来かしら」

 バレンタインチョコを恵んでもらえないかと、二月一四日に訪ねてみたのは覚えている。

 だが、そこから先は記憶がなかった。春休みも当然全休。不真面目のかがみである。

「二年生になって心機一転、部活を真剣にやる気になったか!」

「残念ながら違いますよ、クズ部長」

「いまちゃんと漢字で言ったよな? カタカナじゃないよな?」

「漢字に決まってるじゃないですか、俺達のクズ新部長」

「新って、部長になって半年つんだが……」

 光陰矢のごとし。ときの流れは早いものだ。幽霊部員だけに余計にそう感じる。

「もう仮入部の一年だって来てるんだ。先輩として、少しは真面目なところを見せてくれよ」

「なら丁度いいや。今日来たのは、知り合いから人形の修復を頼まれたからなんですけど、ここでやっても構いませんよね? 活動として」

 スクールバッグから患者が入院している袋を取り出す。

「おいおい、美少女フィギュアってヤツじゃないか。神聖な美術室にそんなものを……」

「あらわいい子じゃない。全然問題ないわよ」

 とがめようとしたくずを遮り、ばながあっさりと許可してくれた。

「お、ばなくん、甘やかしては困るよ」

「うちも半分オタクの集まりみたいな部だし。漫画ばっかり描いてる子もいるしね」

 部長副部長とは名ばかりで、二人のパワーバランスは相変わらずのようだった。

「ぐぅ……ぼ、僕は認めないぞ。そんな大衆娯楽のサブカル文化」

「じゃあ極力視界に入らないように隅っこで作業しますね、クズ部長」

「アクセントォ! いま絶対カタカナで言っただろ!」

(ま、俺のほうがよっぽどクズだよな)

 くずは画家志望で、美大進学を目指している男だ。先刻のつきの言葉を借りれば、青春を美術の虫となって生きている。

 そんな先輩からしたら、はんものの自分は心底不愉快に映っていることだろう。

 とはいえ今日は曲がりなりにも活動に取り組む一部員だ。おさむは美術準備室に入って、作業に必要な道具を探し始めた。浦島太郎状態で棚をあちこちまわしていると、

「──おとじや

 その独特な二人称に、手が止まる。じんわりと、胸の奥が温かくなった気がした。

 首を向けると、棚の陰からひょっこりと顔をのぞかせている一人の女子。

 セレーネ・ヒポクラテス・しいたけ

 ギリシャ人の父と日本人の母を持つ、美術部所属の二年生だ。ミドルネームに相当する箇所は彼女の父親の名前があてがわれているため、セレーネしいたけというのが本人の名前になる。

「……久しぶり、セレーネ」

 挨拶を返すと、口元を綻ばせたセレーネがぱたぱたとこちらへ歩み寄ってきて、

「どーん」「いってえ!」

 無防備なおさむの脇腹に指を突き立ててきた。地味な痛みがおさむさいなむ。

刊行シリーズ

美少女フィギュアのお医者さんは青春を治せるかの書影