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「う……ぇ」
こんなところで死にたくはなかった。
たとえ身体が真っ二つになったとしても、湖昼を見つけて家に連れて帰るまでは死ねない。でも手足が動かない。すでに胴体とつながっていないのかもしれない。
血が馬鹿みたいにあふれ、自分の命の灯火がどんどん弱まっていくのが分かった。
結局、あのバケモノは何だったんだ?
夜凪ノアはこんなビルに何の用があったんだ?
何も分からない。分からないまま惨殺死体になるのはごめんだった。
「ごめんなさい」
夜凪ノアの顔がすぐ近くにあった。
傷だらけの身体をずりずりと引きずって近づいてきたのだ。
血と血がぐちゃぐちゃに混ざり合い、床は地獄のような有様になっていた。
「夜煌錬成を……するしかないです……」
「な、に……?」
「今まで発動できたことはありませんが。お手柔らかにお願いします」
「おい……」
かぷり。夜凪ノアが首筋に嚙みついてきた。
それは猫が甘嚙みをするかのような優しい口づけ。そんな状況ではないと分かっているのに感情が昂ぶり、頭が一瞬でショートしてしまった。
だって、夜凪ノアがちゅうちゅう俺の血を吸っているのだ。
一心不乱に。貪るように。
「おいしい」
蕩けるような呟きが漏れた。そうか。こいつは吸血鬼だったのか。甲冑のバケモノがいるのなら吸血鬼がいてもおかしくはない──そんなふうに悟りを開いた瞬間、身体の奥底で何かが組み替えられるような気配がした。
視界が黒く染まっていく。それどころか、俺の身体が真っ黒い闇に変化していく。
闇はやがて液状のうねりとなり、周囲の夜と同質化していく。
「夜煌刀よ。どうか私の手に」
夜凪ノアの右手が、俺の心臓にねじ込まれた。
火花が弾ける。それは世界を変える奇跡の発現。
俺の心が──古刀逸夜の核が、ぎゅっと握りしめられる感覚。
ほどなくして、夜凪ノアはそれを一気に引き抜いた。
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「すごい……初めて成功しました……」
夜凪ノアが目を丸くして俺を見下ろしている。
俺は狐に抓まれたような気分で夜凪ノアを見上げている。
不思議なことに、どれだけ床を見渡してもバラバラになった俺の死体は見当たらなかった。さらに不思議なことに、ナイフで刺されて瀕死だった夜凪ノアは、ぴんぴんした様子でその場に立っている。彼女も遅れてそれに気づいたらしい。
「あれ? 痛くない……? もしかして……あなたの力……?」
俺はわけが分からずに周囲を見渡した。
血で汚れた床、散らばった粗大ゴミ、窓から忍び込む夜の風。
(視界が……)
おかしい。何故だか三百六十度を見渡すことができる。
気持ち悪くて嘔吐しそうになったが、そのための口が消え失せていることに気がついた。
(身体がない? どうなっている?)
俺の目は夜凪ノアの手元、柄と刀身の狭間あたりに存在しているらしい。五感だけは異常にリアルで、彼女の手に握られていることが肌で分かった。いや、鋼で分かった。
ようやく事態を吞み込む。
まさか、俺は刀になってしまったのか?
「──夜煌刀か。この土壇場で引き当てるとは」
甲冑がしゃべった。兜の内側から錆びたような日本語が聞こえてくる。
夜凪ノアは俺を正眼に構えたまま敵を睨みつけた。
「想定通りです。最初から私はこの夜煌刀であなたを仕留めるつもりでした」
「しかも治癒系の呪法……天運に恵まれたな」
「運ではありません。私はこの力を使って六花戦争で優勝します」
「笑止。天外は首崎館がもらい受けると決まっているのだ」
「それを許すとでも? あなたのようなナイトログには分不相応ですよ」
俺の知らない漫画の話で盛り上がっているとしか思えなかった。
耐えきれなくなった俺は、「そうするべきだ」という本能に従って絶叫する。
《──夜凪ノア! これはどういうことだ!?》
「!?」
発せられたのは音声ではない。不思議なエネルギーに乗せられた意思だった。
《あいつは何なんだよ!? 俺の身体はどうなったんだ!?》
「こ、これが本物の夜煌刀……ちゃんと意識は残っているのですね」
《何言ってんだ──》
甲冑が雄叫びをあげた。
血の川を踏み越えて闘牛のように突進してくる。その手に握られているのは長さ三メートルほどの薙刀だ。俺が何かを言う前に、俺を握りしめた夜凪ノアが迎撃態勢に入る。
《おい! はやく逃げろ! 死ぬぞ!》
しかし夜凪ノアは予想外の俊敏さを発揮した。
薙刀による攻撃をひらりひらりと躱していく。それはさながら演舞のようだった。純白の髪をたゆたわせながら跳ね踊る、この世のものとは思えない妖精の姿。
「馬鹿な! これほどの動き……」
「身体が軽い……この夜煌刀のおかげ……?」
「死ね!」
薙刀が床に叩きつけられた。
その瞬間、奇妙な爆発が巻き起こる。
床材が弾け、あっという間に下の階が丸見えとなってしまった。
《な、何だあの馬鹿力は……!?》
「やつの夜煌刀に秘められた力は【万象破断】の呪法です」
説明されても理解が及ばなかった。連続失踪事件は人の手によるものではない──そういう結論が俺の中で下されて以降、ある程度の超常現象に直面することは覚悟していたが、ここまで血腥いファンタジー展開になるとは思いもしなかった。
自分が刀になって振り回されるなんて──これは夢なのだろうか?
「ちょこまかと……! 夜凪楼の出来損ないが!」
「私は出来損ないじゃありません」
すれ違いざまに夜凪ノアが刀を振るった。
全身が肉にめり込む感触、生温かい血のスポンジに沈んでいく感触。
そして──硬い何かに激突して、それすらも砕いていく感触。
ぷつり。甲冑の左腕が回転しながら飛んでいった。
耳障りな絶叫がほとばしる。
「ごめんなさい……これは戦争なので……!」
《い、今、こいつの腕を斬ったのか!? 俺で……!?》
「はい。あとちょっとです」
床の上でのたうち回る標的目がけ、身を屈めて走る。
甲冑が咄嗟にクナイを投擲。しかし夜凪ノアは猫のようにジャンプして容易く回避。
そのまま俺を両手で握りしめながら急降下して──
脳天に突き刺した。
血飛沫。断末魔の叫びがとどろきわたる。
あまりにも不快で貧血になってきた。
「やった……やりました……! これがあれば勝てます……!」
夜凪ノアは何故か大はしゃぎしていた。
そのテンションと反比例するようにして俺の意識は遠のいていく。
「初めての夜煌刀……! さっそくお父様に報告しなくちゃです…………あれ? どうしたのですか? 古刀逸夜くん…──」
限界だった。再び何かが組み替えられていくような感覚がした。
ほどなくして俺は眠りに落ちていった。
□
この街では、人が忽然と消える事件が頻発している。
バイト帰りの大学生、親とはぐれた子供、終電まで居残りをしていたサラリーマン──すでに両手の指では数えきれないほどの犠牲が出ているらしかった。
何故消えるのかは分かっていない。
しかし、俺の妹──古刀湖昼も連続失踪事件の餌食となった。
「ありがとうっ。お兄ちゃん大好きっ」
あれは一カ月ちょっと前。四月二十八日──湖昼の誕生日のことだった。
湖昼が前から「欲しい欲しい」と言っていたハンドバッグをプレゼントしてやると、あいつはふにゃふにゃ笑って俺に抱きついてきた。
「嬉しいな~。嬉しいな~。ねえお兄ちゃん、ケーキもある?」
「もちろんだ。お前の好きなプリンが載ったやつを準備してあるぞ」
「やったー!」
湖昼は明るく元気な子だった。
万華鏡のように表情が変化して、周りの人を幸せな気分にしてくれる。
俺はこいつと一緒にいられるだけで満足だったのだ。
「ねえ、もう食べちゃおうよ。私が生まれたのって確か今くらいだったよね」
「駄目だ。もうすぐ塾だろ」
「えー」
「パーティーは帰ってきてからな」
湖昼は頰を膨らませて「えー」と繰り返したが、すぐに「分かったよ」と頷いて塾に行く準備を始めた。聞き分けのいい子だったのだ。
玄関で靴を履いた湖昼は、ふと俺のほうを振り返って微笑んだ。
思わず目を細めたくなるような、それは太陽よりも眩しい笑顔だった。
「──お兄ちゃんが家族でよかった。うちはお父さんもお母さんもいないから。お兄ちゃんがいるだけで、毎日がとっても楽しいよ」
「俺もだ。湖昼がいてくれてよかったよ」
「シスコン!」
「いやまあ、間違ってはないけど……」
「冗談っ。じゃあ塾、頑張ってくるね!」
「ああ。居眠りするなよ」
「分かってるってー。お兄ちゃんは部屋を飾りつけておくこと! 私がアッと驚くくらい豪華にしておいてね!」
「はいはい。責任重大だな」
湖昼はくるりと踵を返して出発した。
俺はその日、湖昼を喜ばせるために色々なサプライズを用意しておいた。結局それは何の意味もなさなかった。湖昼が帰ってくることはなかった。塾帰りに消息を絶ったのだ。