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「──…古刀くん。……古刀逸夜くん」
遠くで誰かが呼んでいる。冷静で、淡々としていて、妹の湖昼とは似ても似つかない静謐な声。俺の意識は引っ張り上げられるようにして闇の底から浮上した。
「目が覚めたようですね」
ゆっくりと瞼を上げる。視界いっぱいに広がっていたのは、生き物とは思えないほど白い少女の無表情。俺は「うわあ」と悲鳴をあげて飛び起きた。
「夜凪ノア!? 刺されたはずじゃ……!? 傷は大丈夫なのか!?」
「はい。いえ。それにしても──」
畳の上に正座しながら、きょとんとした瞳でこちらを見つめてくる。
「──奇特な方ですね。開口一番に私の心配をするなんて」
「だって血が……あれ?」
夜凪ノアは白いTシャツを着ていた。血もついていないし、体調が悪そうな印象もない。
「傷は塞がってしまいました。あなたの力によって」
「俺の?」
「夜煌刀には呪法と呼ばれる特殊な異能が宿ります。あなたのそれは、使い手の傷を癒し、身体能力を飛躍的に向上させる一級の代物だったのです」
「はあ……?」
「混乱するのも無理はありません。……これをどうぞ」
差し出されたお盆には、湯飲みとプリン(コンビニで売ってそうなやつ)が載っている。これでも喫して落ち着けという意味なのだろうが、そんな気分にはなれなかった。
俺は警戒しながら周囲を観察した。
六畳の和室。あんまりモノがない、質素な空間だ。
押し入れ脇に鎮座している勉強机は小学生が使うような巨大なやつで、その隣のカラーボックスには見覚えのある教科書や参考書が並べられている。
「……何がどうなってこうなったんだ」
「ここは私の部屋です。空きビルで気絶したあなたを運んできました」
脳裏にバケモノの姿がよぎった。俺はあの甲冑に殺され、何故か刀になって復活した。
今は元通りの姿になっているけれど──
「くそ。俺は夢を見ているのか」
「人間にとっては悪夢のような現実かもしれませんね」
「まるで自分が人間じゃないような言い方だな」
「私は人間ではなくナイトログです」
「……吸血鬼なのか? 俺の血を吸ってたよな?」
「似たようなものですが、十字架やにんにくが嫌いなわけではありません。夜凪一族は人間の血を吸うことによって夜煌刀を作り出すことができるナイトログなんです」
「やっぱり夢なんじゃないのか」
「あなたも思い知ったはずですよ。人間はナイトログによって人知れず狩られているのです」
ぞくりとするような冷たい声だった。
夜凪ノアから、得体の知れない威圧感のようなものが伝わってくる。
そのナイトログが人を狩る存在ならば、彼女もまた無法を働いているのだろうか。
「あなたは世界が二つ存在することを知っていますか。人間たちが住む昼ノ郷、そして私たちナイトログが住む夜ノ郷」
「聞いたこともない」
「現在、この街では六人のナイトログによる熾烈な争いが繰り広げられていて」
ぐぅ。
腹の虫が鳴いた。夜凪ノアの腹にいる虫だった。
「し、熾烈な争いを繰り広げていて……」
「お腹空いてるのか?」
「……恥ずかしいことではありませんよ。人間はお腹が空く生き物ですから」
「ん??」
「あなたは空きビルで力尽きてからずっと寝ていたので、何も食べていません。お腹が鳴ってしまうのも自然の摂理ですね」
それで押し通そうとする根性にビックリだ。
「下の階は中華料理店になってます。あなたの食事につきあってあげますよ」
アクロバティックな上から目線もさることながら、その口数の多さに俺は驚いてしまった。学校では二宮金次郎のように黙々と読書をしているだけなのに。
夜凪ノアはすっくと立ち上がり、ふすまを開いて廊下に出ると、俺のほうを振り返って「はやく来てください」と催促するのだった。
『──…埼玉県××市で十五歳の女子中学生が行方不明になっていることが分かりました。行方が分からなくなっているのは××市に住む△△さんで──…××市では先月からの行方不明者数が十七人にのぼり…──』
天井付近のテレビが夜のニュースを伝えている。
俺はその耳障りな内容を無視して店内に目を向けた。
夜凪ノアが寝泊まりしている中華料理店は〝ドラゴン亭〟という。五十年前からやっている老舗らしく、椅子やテーブルにも年季が入っているのが覗える。色褪せた招福画、塗りの剝げた龍の置物、何故か設えられた座敷席──なんとなく雑多な印象を抱かせる店内だった。
お客さんは座敷でカタカタとノートPCをいじっている少女だけだ。毎日ストーキングしているので知っていたが、やはりこの店は閑古鳥に愛されているらしい。
「──こんばんは! あなたがノア様のパートナーになった古刀逸夜様ですねっ?」
厨房のほうからメイド服の赤髪少女が現れた。あまりにも屈託のない笑顔だったので、俺は流されるままに「そうですけど」と答えてしまう。
「わあ! やりましたねえ、ノア様! 初めての夜煌刀ですよ? お父様に報告したらきっと喜んでくださいます! さ~て今夜はお赤飯ですねっ」
メイドはニコニコしながら夜凪ノアの肩を揉んでいた。
<画像>
「……えっと、どちら様?」
「申し遅れました! ノア様の世話係を務めている火焚カルネと申します!」
本物のメイドとは恐れ入った。
よく見れば、彼女の瞳もノアと同じように赤かった。
ナイトログは全員ああいう目をしているのだろうか。
じろじろ観察していると、視線に気づいたカルネがウインクをかましてくる。
「ふふ、よきでしょう? 元はメイドじゃなくてただの下働きだったのですが、昼ノ郷のアニメカルチャーに憧れて制服を替えてもらったんですっ。萌えますか?」
萌えられる状況ではない。
夜凪ノアが無表情で俺の顔を見つめ、
「カルネは味方なので安心してください。六花戦争でもサポートをしてくれるんですよ」
「ノア様すぐ死んじゃいそうですからねえ。私がいないとダメなんです」
「そこまでじゃないです」
「ちょっと待ってくれ。何が何だか分からない。まずは状況の説明をしてくれると助かるんだけど……ナイトログって何なんだ? 六花戦争って……?」
「そうですね。ご飯を食べながら説明してあげましょう」
そう言って夜凪ノアはすぐ近くの席についた。
「何か食べたいものはありますか?」
「いや、俺は……」
「さあ古刀さん、何でも頼んでください! 私が責任をもってオモテナシいたしますよっ」
カルネに背を押されて席に座らせられてしまった。もちろん食欲は湧かない。しかし注文しなければ先に進まない気がしたので、とりあえずチャーハンを頼むことにした。
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「──この世の裏側の世界、それが夜ノ郷。歩いて行くことはできず、陽の光は届かず、夜しか存在しない常闇の世界。ナイトログとは、その夜ノ郷に住んでいる者たちのことです。姿形は人間にそっくりですが、常夜神から祝福を受けているという点で人間と異なります」
味噌ラーメンを食いながら夜凪ノアは語る。
カルネは厨房に引っ込んで仕事をしているらしく、この場に姿はなかった。
「常夜神とはナイトログが信仰する唯一神のことですね。彼、あるいは彼女が私たちに授けた祝福は──人間を刀に変換する力、すなわち夜煌錬成です。所定の接続礼式をこなすことによって、人間を夜煌刀と呼ばれる武器に作り替えることができるのです」
「……俺が刀になった理由がそれ?」
「はい。右の手の甲をご覧ください」
言われるままに目を落とす。そこに刻まれていたのは、黒々とした不思議な紋章だった。菱形のシンプルな図形で、あまり派手派手したものではないが、見る人が見ればドン引きするに違いなかった。だってこれ、どう見ても──
「入れ墨……?」
「似て非なるものですね。それは夜煌紋といって、あなたがすでに人間ではなくなった証拠です。洗濯しても落ちないので諦めてください」
「…………」
「夜煌錬成を発動するための儀式を接続礼式と呼びます。私のそれは『自分の歯で皮膚を破って三秒以上血を吸うこと』。これによってあなたは夜煌刀に生まれ変わりました」
「えっと、その、……俺はもう人間じゃないのか?」
「はい。夜煌錬成は存在そのものを書き換える儀式でもあります。人の皮を被っていますが、あなたはすでにヒトではなくモノ、有機物ではなく無機物、使う側ではなく使われる側。でもこれは仕方のないことでした。あなたを助けるためにはこうするしかなかったんです。夜煌刀になれば肉体から解放され、物理的な傷によって死ぬことがなくなりますから」