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翌日。
朝、学校に行くと、教室の前には中に入ろうかどうか躊躇っているふうの女の子がいた。野添だった。
「どうした?」
「え?」
声をかけると、彼女が弾かれたようにこちらを振り返った。
「あ、赤沢さん……」
「入らないのか?」
「でも……」
野添は言い淀む。まるで中に入ることを怖れているかのようだった。
そこで僕は彼女の顔が青いことに気づく。
「あ、野添さんだ。おはよー」
「え!? どうしたの、その顔。大丈夫?」
彼女が心配になったが、僕が気遣うよりも先に野添の登校に気づいた女子の何人かがバタバタと寄ってきた。やはり顔色の悪さにぎょっとする。
どうやら僕の出る幕ではなくなったようだ。僕は廊下に出てきた女子と入れ違うようにして教室の中に入った。
野添瑞希は決して賑やかな種類の人間ではない。どちらかと言うと、微笑みながら輪の中心で静かに座っているようなタイプだ。だけど、華やかさがあった。例えるならそこにあるだけで空間に彩を添える美しい花だろうか。
その野添も朝は顔色が悪かったがすぐによくなったようで、何ごともなく今日という日が過ぎていく。
そうして放課後。
「あの、赤沢さん……」
担任の先生が連絡事項を伝えるだけの短いホームルームが終わり、下校するべく荷物をまとめていると名前を呼ばれた。野添だ。
「何?」
「少しお話が……」
そう切り出してきた彼女はやや緊張気味。
むりもない。一年生のときから同じクラスとは言え、入学直後にある件で関わって以来ほとんど話をしていない。いや、話せなかったというべきか。そんな僕に声をかけてきたのだから緊張だってするだろう。
振り返ってみれば、野添は今日一日ずっと僕を意識していたように思う。話をしたかったができず、いよいよ放課後になって意を決して声をかけたのかもしれない。
「いいよ。何の話?」
「ここではちょっと……」
と、申し訳なさそうに言う野添。
人がいるところでは話せない内容ということか。僕も彼女に昨日拾ったカードを返す機会を窺っていたのでちょうどよかった。
「わかった。場所を──」
「変えなくていい」
不意に声が割って入ってきて、ぴしゃりと言い放った。
それはよく野添のそばにいる女子のひとりだった。名前は日下比奈子。気の強そうな目が僕を睨んでいる。
「ダメよ、野添さん。こんなやつと話したら」
「で、でも……」
「でもじゃなくて。わかってるでしょ。赤沢と関わったら根来に目をつけられるって」
彼女は何か言いかけた野添の言葉を遮る。
それを聞いた野添はとても悲しそうに目を伏せた。
根来とは一年生のときの担任の先生の名前だ。定年間際のベテラン教師で、去年も今年も学年主任をしている。端的に言って怖い。
去年、僕は入学早々その根来と大揉めに揉めた。以来、僕は根来から目の敵にされ、同じように目をつけられたくなかったら赤沢には関わるな、というのがクラスの暗黙の了解になったのだ。
当然、二年に上がる際にクラス替えがあり、僕の担任も根来ではなくなった。にも拘らず、暗黙の了解だけは継承されてしまったのだ。それだけ根来を怖れた、というよりは単に誰かひとりを仲間外れにする遊びが面白かっただけだろう。
「赤沢も!」
日下が僕へと振り返った。
「野添さんにだけは近づかないで。いいわね! ……ほら、野添さん、行こ」
彼女は野添の手を取る。どうやら教室の奥で固まっている女子のグループのところにつれていくつもりのようだ。僕の横をまず日下が通り抜けていく。目は合わせないが、すれちがいざま鼻をふんと小さく鳴らした。続けてその彼女に手を引かれた野添が通っていく。
そのときだった。
「待ってますから」
と、野添は僕にだけ聞こえる小さな声でそう言った。
§§§
「待っていると言われてもな」
僕は部屋で独り言ちる。
普通に考えて、無視しても許される状況だ。野添が場所も時間も言わなかったことに加えて、明日になれば教室で顔を合わせる。互いに話しかけにくい立場ではあるが、どうにかならないこともない。
ただ、僕にはできるだけ早く会っておきたい理由があった。例のカードだ。あまり人のものを長く持っておきたくない。
「ヒントはある。いや、正確には唯一無二の答えか」
時計を見ると、ちょうどいい時間だった。
そうしてから開くだけでたいして読めていなかった本を閉じると、ローテーブルの上に置いて立ち上がった。
家を出る。行き先は昨日のコンビニ。時間も同じ、午後八時。
かくして野添瑞希はそこにいた。
昨日の夜、ここで会ったときと同じ恰好でイートインに座っている。学校での深窓の令嬢然とした彼女とは似ても似つかないスタイルだ。目の前には小さなレジ袋。コンビニスイーツでも入っているのかもしれない。
野添は僕を見ると軽く頭を下げた。
「きてくれたんですね」
その声は緊張気味。
「本当にきてほしいなら時間と場所くらい言ってくれ」
「すみません……」
僕が苦笑交じりに言えば、野添は申し訳なさそうに項垂れた。尤も、あの状況ではあれだけ伝えるのがせいいっぱいだっただろう。下手に具体的な内容にふれたことを言えば邪魔をされかねない。
僕はひとまず先に昨日拾ったカードを野添に差し出した。
「え? あ、これ……どうして赤沢さんが……?」
彼女は受け取ったそれが自分のものだとわかり、目をぱちくりさせる。
「昨日ここで拾った」
「そうだったんですね。今さっきないことに気づいて、帰ったら部屋を探さないとと思っていました。ありがとうございます」
「で、何か話か?」
僕は野添の横に腰を下ろした。イートインの性質上、何も買っていない僕がここに座ってもいいのかと思ったが、野添が買っているのでそれでよしとさせてもらおう。どうせこの後、僕も夕食になりそうなものを買うのだし。
「いや、その前に体のほうだな。朝はまだ顔色が悪かったけど、本当にもう大丈夫なのか?」
確かに具合が悪そうだったのはあのときだけだったが、大事をとってこんな夜に出歩かないほうがいいのではないだろうか。
野添はなぜか押し黙った。
「……それです」
「うん?」
やがて口を開いた彼女の言葉に、僕は首を傾げる。
「赤沢さんは昨日ここでわたしと会ったことを誰かに話そうとは思わなかったのですか? い、いえ、言いふらすと思っていたわけではなくて、どうしてかなと……」
野添が声を絞り出すようにして投げかけた問いは、後半言い訳のようなものを追加して次第に不明瞭になっていった。
それは僕にとって奇妙なものだった。どこから「それです」につながったのだろうか。
「僕が野添と会ったこと?」
「……はい」
彼女はうなずく。
「それは誰かに話すほど特別なことか?」