#9 妖怪ポニテ観察VS町野さん
六月も終わりが近づいているけれど、梅雨はまだ明けない。
僕は部室の床にドミノを並べる手を止め、ペットボトルの水を飲んだ。
「エアコンがないから、すでにじんわりと暑い……」
夏に向けて熱中症対策を考えないと、なんて思ったところで部室の引き戸が開いた。
「髪をばっさり切ろうかなって」
黒髪のポニーテール。半袖の白いブラウス。斜めがけのスポーツバッグ。
いかにも運動部といった雰囲気の町野さんは、水泳部に所属している。自分と真逆の存在が面白いのか、部活の前にぼっち文化部男子の僕とよく雑談していた。
「いらっしゃい、町野さん。やっぱり髪が長いと、泳ぐときに邪魔?」
「キャップかぶるから平気。単なる気分だよ。もともと伸ばしてた理由は、男──」
「えっ」
「──の子に間違われるからだったんだけど、最近はめっきり女らしくなったからね」
あはんとベタなポーズを取りつつ、町野さんが口を「ω」の形にする。
動揺した僕が倒したドミノを見て、機嫌をよくしたらしい。
「で、二反田はどう思う? 中学時代は、ショートだったんだけど」
「短いのもよさそうだけど、ポニーテールは似あってるからもったいない気もするね」
「そうなの? 二反田みたいな種は、黒髪ロング一択のイメージだったけど」
「偏見がステレオタイプすぎるよ。僕はポニーテール好きだし」
「なんで? わたしがしてるから?」
「イエスでもノーでも、気まずくなる聞きかたやめて。動物の尻尾っぽいから」
「へー。二反田、動物好きなんだっけ?」
「わりと大大好き」
「自己主張しない二反田にしては珍しい。ためしにポニテ、ちょっと触って──」
「いいの!?」
「舐めプしてたら、食い気味の前のめり……」
「待ってて、町野さん! 手洗ってくるから!」
「そこまでしなくても……」
僕は困惑気味の町野さんを置いて、トイレで手を洗ってきた。
「ただいま! じゃあ触るね!」
「う、うん……」
僕はポニーテールの毛束部分に、そっと指を触れてみた。
その感触は馬の毛よりもだいぶつるつるで、トリミングしたばかりのヨークシャーテリアを思わせる。少し茶色くなった毛先に水泳の影響が見て取れたけれど、全体的に荒れている印象はない。毛束をふんわり握ってみると、手のひら越しに柔らかな弾力が伝わってきた。単純な肌触りだけであれば、ヤンキーが車のダッシュボードの上に貼っているファーのほうがいいのかもしれない。けれど町野さんのポニーテールには、馬毛で作った筆を洗って草原の風で乾かしたかのような、凜とした心地よさがある。
最後に毛束をそっと持ち上げると、ふわりといい匂いが──。
「あ、ありがとう、町野さん」
女の子っぽい香りで我に返った僕は、きっと顔が赤いだろう。
「……三分間、無言で触られると思わなかったよ」
町野さんはジト目どころか、逃走直前の猫のように瞳孔を縮ませている。
「ごめん。キモかったよね……」
「大丈夫。虫唾が歩くくらい」
「まあまあ吐き気を催してる!」
「なんてね。明らかに飼育員さんの手つきだったし、動物好きなんだなーって思ったよ」
「ドミノも動物も、僕を裏切らないから」
「それ、重いやつ?」
「思わせぶりなだけで、単にコミュ力が低いやつです」
「あーね。二反田って返しは面白いけど、相手からぐいぐいきてくれないと友だちを作れないタイプでしょ。わたしとか、八木ちゃんみたいな」
「ぐうの音も出ません」
「そうやって接してくれた少ない友だちを、二反田はケアしてこなかった。それで疎遠になったことを、裏切られたと感じてるんじゃない? 自分から友だちに連絡したことある?」
「自分語りしたことないのに……僕って、わかりやすいのかな」
「ドミノがあれば友だちがいなくても平気って顔してるし、実際そうでしょ」
町野さんが、おでこの端に怒り十字を浮かべた。
「えっと……僕なにか、町野さんをピキらせるようなことしちゃったかな」
町野さんは答えず、別の質問を口にする。
「わたしが明日から部室にこなくなったら、二反田は悲しい?」
「悲しい……けど、しかたないのかな」
「『そうやって自己完結しないで、たまにはストレートに感情を伝えてよ!』……ってわたしが言ったら、二反田は『こっちは怒ってる理由を聞いてるのに答えないでわけわかんないこと言うし、女ってめんどくせぇ』って思いつつも、適当な言葉でその場をしのぎそう」
「そこまでやなやつじゃないよ!」
「二反田。わたしの誕生日、知ってる?」
「えっ……あっ……」
「毎日のようにしゃべってるのに、知らないことってあるよね。わたしも二反田の名前、読めないもん。並の人と書いて、『なみんちゅ』?」
「なんで沖縄風なの。並人ね。あとせめて、『並べる人』って言ってください」
「え。じゃあもしかして、お父さんも……?」
「ぜんぜん、ドミナーとかじゃないよ」
「転売ヤー?」
「『並ぶ人』でもないかな。父は市役所で働いています」
「人に歴史ありだねえ」
「昔は転売ヤーだったのに、みたいになってる」
「ちなみに二反田、わたしの名前は知ってる?」
「町野硯さん。女子はみんな名前で呼ぶからわかるよ」
「硯なのに書道部ちゃうんかーいってツッコこまれる前に言っとくと、うちっておばあちゃんが書道教室やってるんだよね。つまりわたしは師範の孫」
「なるほど。書道部に入ったら、チートになっちゃうわけだね」
八木がドラゴンの書道セットを使っていそうという偏見には、根拠があったようだ。
「わたしの誕生日、先週だよ。あとわたし、普通に字がめっちゃ下手」
「冒頭で多大なショックを与えることで、後半の不都合な情報がまったく入ってこない作戦が功を奏してるよ……」
「というわけで、わたしは『おめでとう』の言葉どころか、誕生日すら聞いてくれない友だちに対し、体育会系育ちゆえのガチ説教をしたのでした。ごめんね」
「謝らないで。あんな風に言ってもらったの初めてで、僕は本気で感動してるから……」
自分から連絡をしないなんてダメ出しは、芯を食いすぎていて横っ腹が痛い。
「本当かなあ……?」
今日はジト目が多いのも、僕が町野さんの信頼を損なったからだろう。
「感謝の気持ちは本当にあって……一応、こんなの撮ってあるんだけど」
僕は自分のスマホから、町野さんに動画を一本送った。
「え、なに……あ」
そんなにすごいものじゃない。ドミノがパタパタと倒れると、英語で「ハッピーバースデー町野さん」とメッセージが現れるだけだ。
「これ、部室でしょ。いつ作ったの?」
「五月の連休中に。もともと素材ありきで、片づける前に町野さんの名前を足して……」
「もう! せっかく作ったなら、誕生日がいつか聞けばいいのに」
「……それだと、サプライズがなくなるかなって」
「二反田はうそをつくと、まつげが伸びるね」
「ピノキオをアレンジした結果、日本人形ホラーになってる」
「でもいま、まつげ触ったよね?」
「ど、瞳孔の動向が気になって」
「二反田がわたしに誕生日を聞かなかったのは、女の子だから気を回したんでしょ? 文化部男子の悪いところ出てるよ。誕生日くらいは異性の友だちでも普通に聞くから。その自意識で予防線を張り巡らせる感じ、オオジョロウグモのオスみたい」
「おっしゃる通りなんだけど、虫に詳しくなくて最後がピンときません」
けれど「友人へのメッセージにしてはキモすぎるかも」、「誕生日が四月だったら」、なんて考えてしまい、聞けなかったのは当たっている。お蔵入りも覚悟していた。
「でも、めっちゃうれしい! ありがとう、お宝動画だよ!」
町野さんの口が、やっと「ω」の形になってくれる。
「よかった。でも人に誤解されるから、『宝物』くらいに言ってもらえると」
「じゃあわたし、部活に行くね! 髪を切るのは保留にしてあげよう!」
町野さんはすこぶる機嫌よさそうに、尻尾を揺らして去っていった。