#11 夏のセンシティブな町野さん
部室のカーテンを開けて外を見ると、木々も空も、野球部員のヘルメットも輝いていた。
「いよいよ夏がきてしまった……」
七月の蟬時雨を遠くに聞きながら、僕はげんなりと嘆息する。
ドミノは風に弱いので、扇風機やエアコンとの相性がすこぶる悪い。
夏場をどう乗り切るかは、ドミノ部の永遠の課題だ。
「とりあえず、まめに水分補給をしよう。自販機で水買ってこようかな」
そう思って立ち上がったところで、部室の引き戸が開いた。
「わたし? ぜっんぜん、勉強してないよー。今回ほんと赤点かもー」
現れたのは、袖口を折り返した半袖ブラウスを着たポニーテールの女子生徒。
水泳部に所属する町野さんと僕は、部活の前に雑談する仲だ。
「そういえば、そろそろテストだね。町野さん、勉強してないの?」
水はあとにしようと、座ってドミノを並べながら話す。
「いまのは勉強しまくってる人が言うセリフだよ、二反田」
「じゃあ町野さん、成績いいんだ」
「よくないから、勉強してるんだよ。うち、まあまあ進学校だし」
「町野さんは、スポ薦を受けられるエリートって聞いたけど。なんでこの学校に?」
「家から近いから。三年間楽をするために、一年死ぬほど勉強した」
「『真のなまけ者は勤勉』ってやつだね。通学時間はどのくらい?」
「二秒」
「は?」
「わたしの部屋二階だから、庭のトランポリンで教室のベランダまで飛べる」
「そんなSASUKEみたいな通学してるの!?」
「それにしても、暑いねー」
町野さんがブラウスの襟をつかんで、ぱたぱたと扇ぐ。
「部活に行ってプールに入れば、すぐに涼しくなれそうだけど」
「あ、そういうこと言っちゃう? クラスでも女子とまったく話さない二反田がかわいそうだと思って、毎日顔を出してあげてるのに」
「たしかに町野さん以外、女子とはほぼしゃべらないね」
先日に雪出さんと話したので、ほんのりと訂正する。
「じゃあなおさらうれしいでしょ。わたし、無加工でもまあまあかわいいし」
「う、うん」
「ぴぽん」
「ギャルゲーで、好感度が上がりも下がりもしない選択肢を選んだときの音鳴った」
とはいえ町野さんは機嫌よさそうに、口を「ω」の形にする。
「やっぱ二反田は面白いね」
「町野さんめちゃくちゃ『陽』なのに、笑いのセンスだけラジオリスナーじみてる」
「よくわかったね。わたし、深夜ラジオ聴きながら勉強サボるのが好きなんだー」
いまどき珍しい、というわけでもなく、ラジオ動画が増えたからだと思う。
「僕もラジオは好きだよ。スマホの画面を見なくていいから、ドミノと相性がいいし」
「深夜ラジオって面白いんだけど、ひとつ欠点があるんだよね」
「深夜にしか聴けないこと?」
「そう! アプリのアーカイブで昼間に聴いても、面白さが違うんだよ。ライブ感が大事っていうか。二反田とのおしゃべりは、昼間の深夜ラジオみたいな感じ」
「うれしいけど、恐れ多すぎるよ」
「二反田、さっきから自虐が多いよ。客観的に自己分析できないと対人関係の立ち位置バグって、『私はハーバード卒です』って人に対して、『まあ僕は中学のときドミノの国際大会で入賞しましたけど』って、誰も聞いてないのにSNSであさってのマウントを取るおじさんになっちゃうよ」
「いやすぎる……飲食店経営者になったら色紙に書いてトイレに貼るぐらい肝に銘じます」
町野さんが、再び口を「ω」にした。
「あるねー、トイレポエム。そういうエッジが効いてる風のおもしろ、もっとちょうだい」
「なんか逆にいじられてる気がするなあ」
「にしても、ここ本当に暑くない? エアコン導入してもらわないの?」
町野さんが胸元をぱたぱたしながら、端に寄せてあった机の上に座った。
その無防備さにドキリとして、僕は並べていたドミノを倒してしまう。
「あちゃー。やっちゃったね」
「こ、これがさっきの質問の答えだよ。エアコンがあってもつけられないんだ。ちょっとでも風が吹けば、ドミノが倒れるから」
「わたし、風が吹くほど動いた……? まいっか。ドミノ倒しちゃったならごめん」
ちょっと心苦しいけれど、実際にドミノが倒れた一因は町野さんにもある。
「ところで二反田って、彼女とかいるわけがなかった」
「か、『彼女とかいる?』って聞く、ま、前に、完結しないで」
僕の歯切れが悪いのは、よこしまな心を見透かされた気がしたからだ。
「うちの部、男子も女子もいっぱいいるでしょ。大学生のサークルノリの人たちが」
「あ、うん。学校が『全員部活主義』だから、水泳部はジム代わりに使われるらしいね」
「それで夏休みが近づいたいま、みんな泳ぐのそっちのけなんだよ」
「あっちこっちで、『どこ住み?』、『LINEやってる?』?」
「そ。だから二反田で、深夜ラジオのおもしろを充電してから部活に行きたいわけ。わたしは自他ともに認める陽だけど、ああいうノリに対抗できるのは陰だから……あっつ」
片手でスカート、片手でブラウスの裾に風を送りこむ町野さん。
僕は慌てて目をそらしたけれど、それゆえに町野さんは気づいてしまった。
「あ……」
手を止めた町野さんは、たぶん赤い顔をしているだろう。
「忘れてた。僕は水を買いにいくつもりだったんだ」
気まずい空気が流れる前に、僕はそっぽを向いたまま立ち上がる。
「……ごめん、二反田。セクハラだよね。わたしノンデリだね」
「い、いや、この部屋が暑いのは事実だし。僕も、ごめん」
互いに下を向いたまま、沈黙が続く。
窓越しに聞こえる蟬の声が、やけに大きく頭の中で響いた。
「二反田、あのさ──」
「なんかこう、夏だよね」
夏のせいにしてお互い忘れようと、僕は町野さんの声を打ち消した。
「いやわたしは、二反田は本当に悪くないってことを言いたくて。わたしみたいに運動部歴が長いと、がさつになりがちでさー」
僕の思いは伝わらなかったけれど、こうなったら乗るしかない。
「町野さんはきちんと女子高生だと思うけど、小学生の頃に男子とばかり遊んでいた女の子の面影もありありと感じるよね」
「ね。わたし平気で早弁するし、そのくせ大食いと思われたくなくて少し残すし」
「がさつと女子力がせめぎあってる」
「カップ麺の『後入れ』の具、最初から入れるし」
「がさつ、やや優勢」
「ショートケーキはイチゴから食べるし。人の」
「がさつが摩擦を生んだ」
町野さんがうれしそうに、口を「ω」の形にした。
僕もその口を見たことで、もやが晴れたように感じる。
うっかりセンシティブな空気になってしまったなら、曖昧にしないでネタにして流したほうがいい。そういう町野さんの判断のほうが、正しかったようだ。
「さて。そろそろ部活に行こうかな」
「あ、うん。がんばって」
「二反田、さっき水分補給するとか言ってなかった?」
「そうだね。自販機まで買いにいこうかな」
「じゃあセクハラのお詫びにこれあげる。さっきひとくち飲んじゃったけど、一応買ったばかりだから。じゃね」
僕に向かってペットボトルを放り投げると、町野さんは颯爽と去っていった。
「『ひとくち飲んじゃったけど』……って、そういうところ! 間接キスとかミリも意識しないところ!」
僕の手の中でペットボトルはきちんと冷たく、けれどキャップは開いていた。
「もしかして、気にするほうがおかしいのかな……」
僕が繊細すぎるのか、町野さんががさつなのか。繊細サイドの意見としては、「飲まなければ飲まないで悪い気がする」が、ややリードしている。
「ああ、もう!」
しばらく逡巡した後、僕は勢いよくペットボトルに口をつけた。
「……喉が渇いてるときのスポドリ、めちゃめちゃおいしい」
おかげで残りを一気に飲み干してしまい、結局は水を買うはめになった。