#13 クリティカルヒットした町野さん
夏休みの校庭からは、見る目が茹だりそうなほどに湯気が出ている。
こういう猛暑日は、多くの運動部が室内練習に切り替えるらしい。
「その点で文化部は外の灼熱もまったく関係……あるなあ」
ドミノ部の部室は古めの空き教室で、それゆえにエアコンは設置されていなかった。ドミノは風に弱いため窓も開けられず、立っているだけで汗が噴きだす。
「はたしてこれが、どれくらい熱中症対策になるのか」
僕は半信半疑の眼差しで、足下に置かれた「それ」を見る。
「こんちくわー……え、なにそれ」
部室の引き戸を開けて入ってきたのは、濡れた黒髪の女子生徒。
首にはタオルをかけていて、競泳水着の肩にゴーグルとキャップをはさんでいる。
「いやこっちのセリフだよ! 町野さん、なんで水着なの!」
慌てて目をそらしたけれど、残像の肌が生々しい。
「だってこの部室、エアコンなくて暑いし。夏休みに二反田とおしゃべりするなら、ひと泳ぎしてからかなーって」
「理にはかなってるけど……目のやり場に困ります」
「それは二反田が意識しすぎ。わたしは水着で部活してるわけだし」
なんの気なしに、ぱちんと水着の位置を直す町野さん。
おかげで足の付け根の辺りの、肌のコントラストがはっきりとわかった。
「正論だとは思うけど、見慣れるまでは時間がかかりそうです……」
「そんなことより二反田。『それ』なんなの?」
町野さんが、僕の足下を指さした。
「水を張った、『たらい』だよ。さっき先生がきて、『夏休みに部活やるならエアコン設置させてくれ』、『近日中に工事するから、それまでこれでしのげ』って」
エアコンは業務用ではなく、風向き調節が容易な家庭用をつけてくれるらしい。
「おー、昭和っぽいね!」
町野さんが、目に見えてテンションを上げる。
「『熱中症の生徒を出したら炎上するから、めまいを感じたら早急に自分の頭に落とせ』とも言われたよ。『そうすれば事故扱いになる』って、冗談に聞こえないトーンで」
「あー……令和っぽいね……」
町野さんが、目に見えてテンションを下げる。
「まあそういうわけで、さっきビンのラムネを買ってきたんだ。町野さんもどうぞ」
「なにそのサービスのよさ!」
「米三俵は、さすがに買えなくて」
きょとんとする町野さんを横目に、僕は上履きと靴下を脱いでズボンの裾をまくった。
そうして椅子に座り、たらいに足を突っこむ。
「おお……足先から、きりっと冷えていく感じ」
「部室はサウナ状態だから、二反田いま『ととのってる』んじゃない?」
「そうかも。この状態でラムネをキメると……くぁ」
炭酸の刺激が喉を滑り落ちていき、清涼感が胸に広がっていく。
「わたしもやる! よっ」
水着姿の町野さんも、僕の正面でたらいに足をつっこんだ。
「気持ちいい! 昭和すごいね。わたしなんて、さっきまで水浸しだったのに」
「知らないノスタルジーを感じるよ。ラジオでオリンピック中継を聴くような」
「ラムネのビー玉の音、すっごいきれい。一時間ループの音源ほしいなー」
僕たちは足先を水につっこんだだけなのに、きゃっきゃと楽しんだ。
けれど水の冷たさは三分ももたず、すぐにテンションがだだ下がる。
「たらいの水で三十五度をやりすごすとか、昭和無理ゲーすぎる……」
「二反田は知ってる? こんなとき、昔の人がどうしていたかを……」
「町野さんの声音が、不気味フォントになってる……怖い話をする気だ」
「こんな場末部にまでエアコン設置するって、うちの学校の資金力おかしくない? 実はこれね、校長が立ち入り禁止の温室で、アレを栽培してるからなんだよ」
「怖い話って、そっち系!?」
「校長が育てた『蘭』はね、海外で大人気なんだって。質がいい上物だって」
「それ本当に蘭の花? 隠語だったりしない?」
「とにかく儲かってるらしくて、校長すごく忙しいんだって。でもそれなら、なんでまだ校長を続けてるんだって思わない? 自分で起業すればいいのに」
「まさか、学校を隠れ蓑に……? 校長先生って、ガチでその筋の人……?」
僕は、ごくりとつばを吞んだ。
「それはね……校長が栽培している胡蝶蘭の名前が、『校長蘭』だからだって。校長を続けること自体が、ブランディングなんだよ……!」
「ダジャレで隠した大人の事情怖い……!」
「まあそのおかげで、わたしたちは涼しくなれるわけ。世の中ね、金かね、金かなのよ」
「身も蓋もない回文が怖い……!」
「じゃあ今度は、二反田の番ね」
さてどうしようと考えて、僕も切り口をひねることにした。
「えっと……町野さん、『異世界転生もの』ってわかる?」
「ストレスフルな現代人の、『やり直し願望』を充足させてくれるエンタメコンテンツ。『なろう系』と呼ばれるジャンルにおいては、パイオニア的な位置づけ、だって」
「なにペディアか読んでる?」
剣と魔法の世界に生まれ変わってチートで無双する、という説明は不要っぽい。
「わたしはアニメで見て、ちょろっと知ってる程度かなー」
「あれって転生先が人間とは限らなくて、魔王やモンスターだったりもするんだよ」
「それならわたしはスライムに転生して、海に溶けて、やがて星そのものになって、生まれてくるベニちゃんの人生を見守りたいな」
「尊い神話……さておき話を続けると、逆はあんまりないんだよね」
「逆って、モンスターや動物から人間ってパターン?」
「うん。たぶん人間に近い生き物じゃないと、人は感情移入しにくいからかな」
「そう? 『前世でキメラの尻尾を担当していた蛇ですが、念願かなって人間に転生したのにコンビニの仕事を覚えられる気がしません。適当にシャーッて舌を出してればよかったあの頃に戻りたい……』とか、あったら読みたいけど」
それを病まずに読めるのは、町野さんみたいなメンタルお化けだけだろう。
「ところで町野さん。ホヤって知ってる?」
「海の珍味?」
「うん。岩なんかに貝みたいにしてぺったりくっついてるから、昔は『ホヤ貝』って言われてたけどね。実際は、もっとも人間に近い無脊椎動物なんだよ」
「へー。すっごいきょうみぶかい」
「自分の爪見ながらの返事……ホヤって幼生のときはオタマジャクシみたいな見た目で、ゆらゆら泳いで岩にぺたりと張りつくんだ。その後は泳ぐ必要がないから尻尾を切り捨てて、考える必要もないから自分の脳も食べちゃって、ただそこにいるだけ」
「それは知ってる。えっちな意味じゃない、『変態』だよね」
昆虫にもある話だからか、町野さんも理解が早い。
「そう。そんなホヤが転生したのが、僕です」
「あー、なるほど。どうりで二反田はいつも感情が……怖っ! 『不気味の谷』の崖っぷちにいる顔で言われると、わりとクリティカルで怖いよ!」
「ロボットが人間に似すぎると、逆に怖くなる現象だね。喜んでもらえてなにより」
「喜んでないよ! ガチで怖かったよ!」
よく見れば、町野さんの目尻に涙が浮かんでいる。
「ご、ごめん。僕はホヤでもロボでもないよ」
謎の弁解をする僕を見もせず、町野さんは顔を押さえて鼻をすすっている。
「ひどいよ二反田……普通の男子はみんな、小学校時代に軽い気持ちで怪談を始めたら女子がガチ泣きしちゃうって経験をしてるから、成長してからは手心を加えるのに……」
「泣いていても、言葉のナイフは急所をはずさないね……」
僕がクリティカルな痛みに胸を押さえると、町野さんの口が「ω」の形になった。
「どう、二反田。涼しくなった?」
「うそ泣きだったの!?」
答えの代わりに、べえと舌を出す町野さん。
「ラムネ、ごちそうさま。あとわたし、けっこうすぐ泣くから気をつけて!」
最後はきちんと笑顔になって、町野さんは部室を出ていく。
「うそ泣きかどうかはともかく、初めて町野さんの涙を見たかも……」
その原因が自分にあることに、心がざわついていた。
町野さんならなんでも笑うと考えていたなら、僕は自分の驕りを戒めるべきだろう。
「いったた……冗談でもやっちゃだめなやつだこれ……」
自分への罰で「たらい」を頭に落としたところ、衝撃でしばらく立ち上がれなかった。