#14 フェチに目覚めた町野さん
昼の蟬時雨も遠くに聞こえる、窓を閉め切った夏休みの部室。
僕は設置されたばかりのエアコンの下で、のんびり涼んでいた。
「風向きを調節すれば、ドミノにも影響がなさそうでよかった」
早速並べようかと体の向きを変えた際、窓ガラスに自分の顔が映った。
「……著しく、無」
たまに人から指摘されるけれど、どうやら僕は表情に乏しい。先日も自分はホヤが転生した姿だとホラを吹いたところ、妙なリアリティがあって町野さんを怖がらせてしまった。
「町野さんみたいなマンガ顔芸ほどじゃなくても、ある程度は表情も必要だよね……」
少し訓練してみようかと、窓ガラスに向かって笑いかける。
その瞬間、背後で部室の引き戸が開いた。
「あっ……」
振り返ると、髪を濡らした競泳水着の女子がおびえた顔で立っている。
「いらっしゃい、町野さん。笑顔の練習をしているアンドロイドを見てしまったような気まずい表情だけど、どうかした?」
「……大丈夫よ、ニタンダTYPE─G。あなたもいつか、とびっきりの笑顔ができるわ」
「マチノ博士……を守るために、敵を道連れに自爆するシーンでの笑顔?」
むふっと笑って、「ω」の口になる町野さん。
「ところで二反田。かわいい子って、いい匂いするよね」
「笑顔の練習には触れないであげようという、心遣いの話題転換?」
「そういうわけじゃ、ないこともないかな」
「大筋で容疑を認めてる」
「うそうそ。わたしが匂いについて見識を深めたいだけだよ。だってベニちゃんとか、すごいいい匂いするんだよねー。あれってシャンプーなのかな」
「じゃないかな。ほかの候補は柔軟剤、制汗剤、ヘアミスト、ボディクリームとか」
「イケメンもいい匂いするって言うよね。ワックス? ひげそりのローション?」
「町野さん、匂いフェチなの?」
「そうかも。わたしは年中水びたしの、無味無臭女だから」
「自分を妖怪『濡れ女』みたいに」
「二反田は、女の子の匂いとか興味ない?」
「昨日、家の玄関の前にコクワガタがいたんだ」
横浜市でも僕の住む辺りは、まあまあ自然に囲まれている。
カブトムシだって普通に捕れるし、川沿いの道を歩けばハサミを振り上げたザリガニに威嚇されることもしばしばだ。
「オス? メス?」
「食いつきいいなあ。これから都合が悪いときは、毎回クワガタの話をしよう」
「昆虫の匂い、いいよね。野性味っていうか、夏の思い出と紐づいてて」
「早くも匂いフェチが染み出てきた」
「匂いと言えばさ、二反田は女の子の匂いとか興味ないの?」
「クワガタはオスだよ。少し観察して、踏まれない位置に移動しておいた」
「飼えばいいのに。コクワガタは越冬できるよ」
「かっこいいフォルムを堪能させてもらったから十分かな」
「フォルムと言えばさ、二反田は女の子のフォルムに興味ないの?」
「そらした話題が悪化して返ってきた」
「自分で言っといてなんだけど、フォルムでホヤの話を思いだしちゃった……」
町野さんの目が、「×」を横長にしたようにきつく閉じられている。
「怖がらないで、町野さん。ガイコツパンダホヤみたいな、かわいいのもいるから」
僕はスマホで検索し、表示された画像を見せた。
「かわい……くないよ! ソシャゲのザコ敵にしか見えないよ!」
たしかにと思いつつ、町野さんが気に入りそうな別のテーマを探す。
「あ、ほら。いま検索してみたら、若い女性は『ラクトン』っていう成分を発していて、それがいい匂いの正体なんだって。町野さんも、無臭じゃないっぽいよ」
「ほほう。じゃあ二反田、ちょっと嗅いでみてよ」
「町野さんはもうちょっと、自分の性別を自覚しようか」
「さすがにわたしも、普段なら男の子に匂いを嗅がれるのは恥ずかしいよ。でもいまはプール上がりだから、たぶん本当に無臭だし」
たしかにと、納得しかけたときだった。
「はい。お願い」
いつの間にか、すぐ目の前に町野さんが立っている。
「ま、待って、町野さん。匂いの問題じゃない気がする」
「もう遅いっしょ」
町野さんがイケメンムーブで、ドンと壁に手をついた。
否が応でも、鼻先がその匂いを嗅ぐ。
「……ん? ……プールっぽい匂い、ぜんぜんしないね」
「軽くシャワーで流してるからね。どう、二反田」
「……いい匂い、するかも。ココナッツっていうか、ミルクっぽい」
「ちなみに二反田は、汗の匂いがするよ。アンドロイドじゃなかったね」
はっとなって、町野さんから離れた。
「ご、ごめん。自分も嗅がれるってこと、失念してた」
「ぜんぜん。文化部でも汗かくんだなって、ちょっと安心した」
「もうちょっと主語を小さくしないと、炎上しちゃうよ」
「それに汗だけど、くさいって感じじゃなかったし。もっかい嗅がして」
「いやです。僕にだって乙女心はあります。ちょっとシートで汗拭いてくる」
「その前に嗅がせてよ。オオカマキリ捕ってきてあげるから」
「それでなびくの小二男子だけだよ」
「じゃあジュースおごってあげるから、一生」
「落ち着いて、町野さん。『一生のお願い』ノリで言ったんだろうけど、意図せずプロポーズみたいになってる」
「わたし……この匂いを、どこかで嗅いだ記憶がある……」
「人の話を聞いて」
「あの記憶……ちゃんと思いだしたい! ううん、思い出さなくっちゃ! わたしが忘れてしまった、『大切ななにか』を──お願い、嗅がせて!」
「そんな夏休み映画のヒロインみたいに言われても……僕だって恥ずかしいよ」
「じゃあ、目ぇつぶっとくっしょ」
町野さんが再びイケメンムーブで迫ってきて、僕は壁に追い詰められた。
「か、壁ドンはね、そもそもは隣の部屋がうるさいときに壁を殴る音の意味──ひっ」
「ああ……この匂い……思いだす、かすかな記憶……」
「うう……町野さんは、いい匂いなのに……」
「夏の景色……田舎のおばあちゃんの家……かすかな……本当にかすかな匂い……」
「早く思いだして。本当に恥ずかしい」
「……ありがとう。思いだしたよ、二反田」
「なんの匂いだったの」
「『ミヤマクワガタ』と『お父さん』で迷ったけど、たぶんお父さんの匂いだね。ちっちゃい頃に、よく肩車してもらったから」
「お父さんも僕も、ニアリーイコール昆虫なの!?」
「うちのお父さん若いから、加齢臭とかじゃないよ。単に男の人の匂いってだけ」
町野さんが舌を出し、片目だけ不等号のようにぱちりと閉じた。
「……もう絶対に嗅がせないからね。お風呂上がりのとき以外」
「二反田のそれも、意図せず口説き文句になってるよ」
僕は赤くなったのか、町野さんの口元がいつもの「ω」に変化する。
「じゃ、わたし部活に戻るね。明日はジュース買ってくるよ」
町野さんはにこにこと上機嫌で、部室を去っていった──。
と見せかけて、すぐに引き戸が開く。
「二反田、憤怒? 訴訟も辞さぬ?」
「……別に怒ってはないよ。『大切ななにか』を失った気がしてるだけ」
「大丈夫。二反田が百二十歳まで独身だったら、わたしが再婚してあげるから」
「ラブコメセリフっぽいけど、保険をかけすぎてる!」
さすがにこれでは、僕も赤くならない。
「でもわたし、お父さんの匂い好きだから。じゃね」
僕が赤くなる前に、町野さんは去っていった。
「あんなこと言って、また嗅ぐつもりなのかな……」
僕は急いでスマホで検索した。
『イケメン いい匂い 理由』