セピア×セパレート 復活停止 【このラノ2025記念SS】

著者:夏海公司 イラスト:れおえん

保険調査員 殿森ウロの事件簿

「ちょっと、死にすぎだと思うんですよね」


 そう言って、秋鹿初絵あいかはつえは目の前の女の反応をうかがった。

 苦手なタイプだった。

 椅子に座ったまま、長い足を組み、まっすぐにこちらを見ている。

 カラスの濡れ羽色をした長い髪、身体の線がはっきりと出るパンツスーツ、柄物のタイに高いヒール。どれも自分の容姿に相当自信がないとできない出で立ちだ。猫背で、目を逸らしがちに、ぼそぼそと喋る初絵とは全然違う。

 プライベートなら五秒で会話を打ち切っていただろう。が、今は仕事だ。好き嫌いを言っていられない。

 だから、目を合わす。

 にこやかな瞳に、自分の疲れた顔を映す。


「どう思われますか。ええっと……殿森とのもり

「ウロです。空と書いてウロ」


 言いよどんだのは名刺の名字を見たからで、名前の読みを知りたかったからではない。が、女はにこりと笑った。


「どうぞ、ファーストネームでお呼びください。その方が話しやすいです」

「はぁ」

「こちらも初絵さんと呼んでいいですか」

「え? それは、あの」

「ありがとうございます。せっかくのご縁ですし、仲良くなりましょう、初絵さん」


 何も言っていない。

 なんの意思表示もしていないのに話が進む。


(嫌だ)


 すごく嫌だ。

 押し黙る初絵をよそに、ウロは「そうですねぇ」と視線を巡らした。


「確かに、変だと思いますよ。ですか、その方がなくなったの」


 中空のARドキュメントを眺める。


「転落死、転落死、転落死、転落死、転落死、転落死、転落死……これ、何かの誤記じゃないですよね?」

「はい」


 初絵はうなずいた。


「死因は全て転落死です。平均すると三ヶ月に一回、被保険者の男性は高所から落ちて死亡しています。で、すぐにギズモのバックアップから蘇生、その費用がこちらに請求されています」

「七回分」

「はい」

「で、今回もまた請求されてきた?」

「ええ。伊豆の崖から落ちて亡くなったとのことです。蘇生は終わっていますが、保険の支払いは差し止めています」

「八回目」


 ウロの笑みが大きくなった。


「おかしいと気づくのが少し遅いんじゃないですか」


 目に探るような光がある。


「『ちょっと死にすぎ』じゃないですよ。普通に死にすぎです」

「仰る通りです」


 初絵はこうべを垂れた。


「もっと早く気づいてしかるべきでした。ただ、こちらに来る蘇生申請は多く、いちいち審査していられないんです。書式と手続きにミスがなければ通している状態で」


 己の無能を晒しているようで嫌になる。が、誤魔化しても仕方がない。

 初絵の仕事は、とある健康保険組合の支払査定だ。

 加入者の申請に応じて、その医療行為に保険が使えるか確かめる。

 可能なら支払いを許可し、不可なら自費負担を求める。3Dバイオプリンターとクラウドバックアップの組み合わせによる人体蘇生術――ギズモの場合でも理屈は同じだ。死因が他責なら蘇生費を補助し、そうでなければ拒否する。

 ただ、初恵達は警察ではない。人の死という非常事態に、関われる権限は限られていた。結果、ほとんどのケースで給付は許可される。組合内の伝統的な思考停止フレーズ、『いや、好きで死ぬ人なんていないでしょ?』

「ギズモの理念は、不慮の死からの解放ですから」


 言い訳がましい補足に、ウロはうなずいてみせた。


「正しいですよ。それが本当に不慮の死なら」

「……」

「でも、今回は違うと思っている。だから、私にお声がけいただいたんでしょう? わざわざ調査費まで捻出して」

「はい」


 再度名刺をすがめみる。肩書き欄に書かれた単語は『保険調査員アジャスター』。続けて認定団体とID。

 ――保険調査員アジャスター

 賞金稼ぎみたいなものらしい、と配属当初に聞かされた。不審な事故現場を調べて、給付差し止めの証拠を集める。無事差し止められれば、浮いた支払いの何割かを報酬として受け取ると。

 もちろん組合の正規職員ではない。外部のフリーランスだ。初絵達査定担当が、調査員募集のサイトに業務内容を登録、条件・稼働が見合えばマッチングする。その相手が今回はウロだったというわけだ。


(口コミはよかったけど)


 業界人限定で実名登録制のサイトだ。個々の評判にはそこそこの信憑性がある。少なからぬクライアントが彼女を優秀と認めたのだろう。だから、この依頼は間違っていない。適任が派遣されてきている。そう思いたかったが――

 切れ長の瞳がこちらを見つめている。

 さっきからほとんど目を逸らしていない。会話の裏の思いを探るように、初絵の表情をうかがっている。


(苦手だ)


 こちらは顔を見られるのも嫌なのに。いたたまれなくなるのに。

 長く接するほど、正反対な人間だと思い知らされる。

 私は彼女ほど堂々としていられない。

 彼女ほど自分に自信を持てない。

 相手にぶつかっていけない。


 ――おまえって、俺なしでやっていけると思ってるの? 本気で?


 野太い声が脳裏に木霊する。

 心臓が弾む。

 気道が閉まり、息苦しくなる。

 子供っぽい見た目と裏腹に、初絵は既婚だ。学生時代のバイト先で今の夫と知り合い、言われるがまま付き合い、そして入籍した。

 何も考えずに引っ張っていってもらえるのを、最初は楽だと思った。私は馬鹿だから、考えなしだから、この人の言う通りに生きていけばいい、と。

 助言が叱責に、怒声になるのに長くはかからなかった。毎日詰られ、責められ、時には人格さえ否定され、耐えかねて実家に逃げ帰ったのが去年のこと。以来、何度か別れてくれと持ちかけるも、相手は応じなかった。時には泣き、時には猫なで声で、そして最後にはこう言う。

 ――おまえって、俺なしでやっていけると思ってるの? 本気で?

 身震いしながら視線を上げる。女王のように座るウロが目に入った。


(この人なら、どう言い返すんだろう)


 もちろんですよ、当たり前でしょう? とでも言うのか。

 あるいは、ただ冷笑を浮かべていなすのか――

 迷走する思考に、ウロの静かな声が滑りこんできた。


「細かいところを訊かせてもらえますか」


 まっすぐな眼差し。


「調査にあたって、そちらでつかんでいる情報を知っておきたいんです」

「あ、はい」


 慌てて居住まいを正す。雑念を振り払う。


「どうぞ、私で分かることなら」

「まず、被保険者の保険加入状況です。任意の死亡保険など、何かかけているものはありますか?」

「ありません」


 即答。そこは真っ先に調べている。


「仰りたいことは分かります。死亡によって、被保険者が金銭的な利益を得ていないかですね? 治療費以外に、支払われた金はないか」

「ないと」

「なかったです。住宅ローンの補償契約もありませんでした」


 契約者が亡くなった時、ローンの残債を肩代わりする制度、そういうものにも一切加入していない。

 つまり、被保険者はギズモの蘇生費しか受け取っていないということだ。何度死のうと、何度蘇ろうと、手元に残る金はない。


「メンタルクリニックの受診歴はありませんか。たとえば、極度の希死念慮、自己否定、臨死状態での性的逸脱傾向など」

「ないです」

「目に見える利益はさておき、被保険者の金回りがよくなったということは? 車を買い換えたり、旅行を頻繁にするようになったり」

「ありません」

「銀行残高の変動は」

「特に」


 ふぅむ、とウロは考える目になった。細い首をわずかに傾げる。


「ちなみに、本人はどう説明しているんですかね。これだけ転落死が続くことについて」

「そこは、不注意で申し訳ないと」

「はぁん」


 生温かい笑みがウロの口元に浮かんだ。


「とすると、被保険者は心身ともに健康にも関わらず、わざわざ危険な場所に近づき、死亡と復活を繰り返しているってことですか。で、見る限り、見返りは何もない」

「はい」

「意味不明ですね」

「意味不明なんです」


 だが、その意味不明な行為により、組合は多大な出費を強いられている。他人事のように、いぶかっていられかなかった。


「過去の給付状況を見られますか。抜粋ではなく全件」


 ウロの問いかけに、準備した資料を映す。中空に浮かんだ文字列をウロは片手で引き寄せた。そのまま歯科や皮膚科と書かれた画面をスクロールしていく。


「これ」


 画像の動きが止まる。ウロの指が一点を示した。


「なんですか、結構な支払いですけど」

「どれです。ああ」


 三年前の日付だ。救急治療の明細に続き、整形や入院などの費用が書かれている。


「これは事故ですね。繁華街で喧嘩に巻きこまれたそうです。顔の骨を折ったり、内臓出血したり、かなりの大怪我で、当時の調査でも給付は妥当との結論が出ています」


 暗に本件とは無関係と告げたつもりだった。が、ウロはじっと項目を見続けている。

 一秒、二秒、三秒、四秒。

 こちらの言葉が伝わっていないのか、「あの」不安になって身を乗り出すと、ウロが画面を押し戻した。


「いいでしょう」


 憑きものでも落ちたような顔で向き直ってくる。


「話を聞きに行きましょう、直接」

「え? 今からですか」


 時計を見る。時刻は午後二時。自分達の状況を顧みるまでもなく、真性のビジネスアワーだ。


「業務中ですよ。連絡つかないと思いますが」

「いえいえ、本人はどうでもいいんです」


 ウロは涼しい顔で続けた。


「ご家族に話をうかがいましょう。こういうのは外堀から埋めるのが一番いいんです」


      *


 いきなり押しかけるのは無茶だろう。

 そう思ったが、意外にも被保険者の妻はすぐ面会に応じてくれた。

 ウロとの打ち合わせから一時間後、郊外の駅前にある喫茶店に彼女は現れた。

 年齢は二十代後半、初絵と大して変わらないが、やや落ち着いて見える。丸顔で、楚々とした雰囲気だ。子供はなし。持病や既往症の類いもなし。結婚は確か五年前だったか。

 詳細な個人情報をつかんでいるのは、彼女が被保険者の扶養に入っているからだ。被扶養者として、夫と同じ健康保険組合に所属している。つまり病院に行ったり、収入の増減があったりすると、すぐに分かってしまうわけだ。


(専業主婦か)


 昨今珍しいカテゴリーに、つい様子をうかがってしまう。

 服装は小綺麗だが華美ではない。夫もさして高給取りではないはずで、節約しているのだろう。二馬力で生活水準を上げるよりは、現状に満足し、慎ましやかに生きている感じ。


「今日はありがとうございます。すみませんね、いきなり」


 ウロは軽薄に挨拶して席を勧めた。メニューを突き出しながら店員に手を上げる。


「どうぞ、お好きなものを。支払いはもちろんこちらで持ちます」


 その支払いが自分に来ることを予期して、初絵は眉をひそめる。入店前に、ウロから『交通費と会議費は経費ですよねー』と念押しされたのを思い出したのだ。が、そこでとがめ立てするほど、強くもなれない。沈黙し、見守っていると、幸いにも女性は紅茶を頼んでくれた。値段は下から一番安い。

 彼女は黄土色のハンドバッグを脇に置いた。


「それで」


 不安げに口を開く。


「どのようなご用でしょう。保険組合の方が」

「いや、大変不躾ではあるんですけどね」


 ウロが身を乗り出した。


「旦那さんの死が不審がられているんです。事故にしては多すぎだろうと。正直、このままだと蘇生の費用が出ません。で、何か弁明があるならご家族にうかがおうかと」


 直球すぎて目を剥く。そんな言い方で、協力してもらえるわけがない。だが、あにはからんや女性は面を伏せた。


「はい……ご不審はもっともだと思います。申し訳ありません」

「へぇ?」


 ウロの眉が持ち上がった。


「妙な話だと認めるわけですか?」

「実際、ありえないと思うので」


 女の薄い唇が結ばれる。


「今回も、なんで伊豆なんかに行ったのか、わざわざ崖の淵を歩いていたのか、何度も聞いたんです。そうしたら釣りに夢中になっていたと。釣りなんて趣味、今まで聞いたこともなかったのに」

「嘘をつくにしても、雑すぎだと」

「はい」


 紅茶が運ばれてくる。憔悴しきった彼女を前に、ウロはコーヒーをすすった。切れ長の目がすぼまる。


「心当たりはないんですか? 旦那さんが、こんなことをする理由について」

「飛び降り自殺を繰り返す理由ですか? 分かりません。分かるはずがないです」

「何か、精神的・金銭的な問題を抱えているとか」

「ないです!」


 予想外の大声に店内の空気が凍りつく。

 激しい口調は、だが他ならぬ女性自身を驚かせたようだった。彼女は肩をすぼめて縮こまった。


「すみません。……でも、本当によい人なんです。優しくて、真面目で、家のことにも協力的で」

「ふむふむ」


 ウロはしかつめ顔でうなずいてみせた。


「それは、いつからですかね」

「はい?」

「旦那さんがよい人になったのはいつからですかと訊ねています」

「……あの、質問の意味がよく」

「言葉通りですよ。ひょっとして三年前の大怪我からじゃないですか?」

「……」

「ちょっと、ちょっと、殿森さん」


 思わず割って入っていた。さすがに話の流れが不可解すぎる。よい人ですという説明に、なぜ以前はそうでなかったと決めつけるのか。

 だが、パンツスーツの保険調査員は涼しい顔を向けてきた。


「ウロですよ、初絵さん」

「は?」

「名前で呼び合いましょう、そう決めたじゃないですか」

「い、今はそんなこと」


 抗議しかけたが、ウロはするりと女性に視線を戻した。中空にブラウザの画面を浮かび上がらせる。


「こちらの記事、旦那さんのものじゃないですか」


 写真つきの事件報道だった。〝新宿歌舞伎町で暴行事件。男性、全治二ヶ月の重傷〟


 ――新宿署は二十四日、客の三十代男性に暴行を加えてけがを負わせたとして、豊島区の自営業の男(24)を傷害容疑で逮捕した。調べに対し容疑を認めているという。現場は新宿区役所向かいの十四階建ての雑居ビルで、隣接テナントからの通報により発覚し――


「え、ちょっと、なぜですか」


 そう叫んだのは初絵の方だった。まじまじとウロの横顔を見つめてしまう。


「どうしてこの記事が被保険者のものだと?」

「救急の受診履歴と日付が同じですし」


 こともなげに答えられる。


「被保険者は三十代で、盛り場の喧嘩に巻きこまれて怪我をしたんでしょ? だったらほぼこれで確定でしょう。逆にどうして調べていないんですか」

「どうしてって」


 怪我が他責で、保険の支払い基準に問題がなかったからだ。背後の事情なんてわざわざ調べたりしない。そもそもこの件は飛び降りじゃない。今回の件には関係ない。関係ないはずだ。

 が、女性の顔色は明らかに悪くなっていた。色を失い、凍えんばかりになっている。それでも抗うように唇を結んだ。

 ひゅっと息を吸う音。


「確かにそれは夫の記事です、が、それで人が変わったとか、意味が分かりません」

「分からない? 分からないですか、ふむ」


 ウロの顔は愉快げだった。


「じゃあもう少し説明を加えましょう。新宿区役所向かいの十四階建ての雑居ビル、そこまで書かれるとだいたい場所が特定できましてね。で、その中で事件のあったテナントというのも分かってしまうものなんです。会員制・紹介制のガールズバー、××という名前に覚えはありませんか?」


 返事はない。が、女性の引きつり顔は何より雄弁に、ウロの指摘を裏づけていた。


「まぁ旦那さんもよい大人ですからね。バーに行こうが、女の子と遊ぼうが、一線を越えなければどうでもいいでしょう。ただ、残念ながらこの店は一線を越えていましてね。ご存じだと思いますが、超高レートの違法賭博を生業にしていたんです」

「なんですって?」


 思わず立ち上がりそうになった。尋問役の反応にしては、不適当極まりない。が、どうにも驚きを隠せなかった。


「い、違法賭博? こちらのご主人がそれに関わってたというんでうすか」

「ええ。というか高い会費を払って会員になっているんですから、酒だけ呑むってのも妙でしょう」

「そ、それはそうですけど」

「もちろん、奥様もご存じのはずです。この店以前にも、似たような賭場をいくつも回っていたんでしょう?」


 ウロの目が鋭くなった。


「ギャンブル依存症というのは、徐々に悪化していくんですよ。最初は小額・合法のレート、ですが、すぐに飽き足らなくなる。賭け金を上げて、回数を増やして、よりグレーな賭場に流れていく。件のガールズバーに通うようでは、もう末期です。生活のほとんどをギャンブルに費やしていたはずですよ」

「……」

「ただ、奥様はご主人をよい人だという。精神的・金銭的な問題も抱えていないと。だったらどこかで人が変わったとしか思えない。きっかけはどこか? 例の暴行事件では? そう思った次第です」

「……はい」


 女性の肩が落ちた。抵抗を諦めたのだろう。萎んだ風船のようになっている。


「仰る通りです。夫はギャンブル中毒でした。最初は競馬をたしなむ程度でしたが、すぐによく分からない店に通いだして。借金もかなりしていたようです。つけが貯まると出入り禁止になるのを繰り返して、それで、最後はあの事件です」

「負け分が払えなくなったんですか」

「はい、それで、つけもきかないと分かると開きなおったようなんです。おまえらも後ろめたいことがあるんだろう、違法賭博と通報してもいいんだぞと」

「おやおやおや」


 ウロの唇が嘲りの形に歪んだ。


「馬鹿ですね。脅していい相手といけない相手の区別がついていない」

「本当に、よく生きて帰って来られたと思います」


 消え入りそうな声だった。女性は首をすぼめた。


「ただ、大怪我をして、警察に罰金まで払って、さすがにそれで夫も目が醒めたようなんです。以来、賭け事には一切手を出していません。借金もしていませんし、うちの金にも手をつけていません。信じてください」


 女性の頭が下がる。

 垂れた髪が顔を隠す。

 しばらく、なんとも言えない沈黙が訪れた。ウロも黙ったまま彼女のつむじを見下ろしている。


「あの」


 初絵は耐えかねて声を上げた。逸れまくった話を、なんとか戻そうとする。


「それで、やっぱりご主人の転落死の理由は思い当たりませんか。たとえばギャンブルができなくて禁断症状が出ているとか」

「ないです」


 女性は小さく首を振った。


「依存症対策のカウンセリングに通っているんです。頻度は減りましたけど、そこでも先生から問題ないって言われているんです。精神的に安定している、もう大丈夫だって」

「そう……なんですか」

「はい」


 お役に立てず申し訳ありません。そう言って女性はまた頭を下げた。


      *


「結局、何も分かりませんでしたね」


 女性を見送り、会計をすませてから、初絵は喫茶店を出た。外で待つウロに溜め息交じりの声を掛ける。


「ギャンブル依存症の件は驚きましたけど、もう治っているようですし。三年前の事件は、今回の話とは関係なし。まぁ、依存症が治った途端、夫が飛び降りとか、奥さんはたまらないでしょうけど」


 いたたまれない様子の彼女を思い出す。小綺麗だが華美ではない服装。何気ない日常を、ただ望み、悶えている様子。


「気の毒ですよね」


 押し殺した声に反応はない。顔を上げると、ウロはあらぬ方角を見ていた。目の奥で複雑な光がカチカチとまたたいている。


「ウロさん?」

「……」

「ウロさん」

「はい?」


 夢から覚めたように振り向いてくる。初絵は眉を寄せた。


「人の話、聞いていました?」

「聞いてませんでした。すみません、ちょっと調べ物をしてまして」


 網膜ディスプレイでネットサーフィンでもしていたのか。クライアントに支払いまでさせて、失礼極まりない。だが彼女は悪びれた様子もなく向き直ってきた。


「なんでしょう?」

「何って」


 もう一度言えと。


「だから、奥さんが気の毒って話ですよ」

「気の毒?」

「夫のギャンブル依存症が治って、やっと普通の暮らしができると思ったんでしょう? なのに今度は連続飛び降り自殺だなんて、私なら耐えられないなと」

「普通の暮らし。普通の暮らしねぇ」


 ウロの口角が愉しげに歪んだ。つっと肩越しに、女性が座っていた席を見る。


「あれ、ケリーでしたよ」

「は?」


 目をしばたたく初絵に、ウロは続けた。


「彼女の持っていた鞄です」

「いいもの――なんですか」

「バーキンと同じくらいの価値はありますね」


 さすがにその単語は分かる。ハイブランドの上位モデルだ。確か二百万くらいする。思わず目を剥いてしまった。


「あ、あの黄土色のハンドバッグがですか?」


 ウロはうなずいた。


「他にも靴とか、アクセとか、さりげなく高いものを身につけていましたね。普通の主婦が、近所のお茶で持ち出すものではないです」

「……」

「あと、彼女、打ち合わせ中もずっとメッセージを打っていましたよ、旦那宛に。それがまぁすごい文面で」

「というと」

「罵詈雑言です。なぜ私宛にこんな呼び出しがかかってるんだ。ふざけるな、死ね、死ね、今日帰ってきたら覚えてろよって」


 血の気が引く。「まさか」と呻き声が漏れる。


「いやぁ」


 ウロは指揮棒のように指を振った。


「ARキーボードのタッチタイプなら、私、おおむね読み取れるんですよ。指の動きでね。疑うなら、今何か打っていただいてもいいです」

「……」


 真偽のほどを確かめる余裕はない。ウロの指摘が事実なら、つまり――つまりはどういうことだ。ざわざわと心が揺れる。


「あの奥さんは――旦那さんを嫌っていると?」

「愛情はなさそうですね。ただ、利用価値はあると思っているんでしょう。だから一緒にいる」

「利用価値」

「収入ですよ。好きなものを買うための原資」


 ウロの声は奇妙に優しげだった。


「私の見立てはこうです。あの奥さんは結婚してしばらくは旦那の趣味を黙認していた。他でもない専業主婦という立場を守るために。少々の浪費は仕方ないと我慢していたんでしょう。どこかで『養ってもらっているんだから』という負い目があったのかもしれません。ですが、三年前の事件で二人の立場が逆転した」


 逆転。

 力関係の反転。


「何せ依存症の克服、再犯防止って大義名分がありますからね。大抵の強権発動は通るでしょう。給与口座の差し押さえはもちろん、日常生活の細部まで口を出すようになったと思いますよ。家にいる時は当然、外出中でも、メッセージなどで」


 死ね、死ね、死ね。

 心臓が氷の手でつかまれたように冷たくなる。


「やりすぎ……でしょう」

「ですかね? そこまでやらないと聞いてもらえないって反論はあると思いますよ。相手は普通の精神状態じゃないですからね。動物のように躾ける必要があると」

「……」

「いずれにせよ、おおむね状況は分かりました。次の予定があるので、ここで失礼します。今日はありがとうございました」

「え?」

「コーヒーもごちそうさまでした。場末の喫茶店にしては悪くなかったですね。覚えておきますよ。では」


 止める間もない。会釈して、踵を返し、本当に去って行ってしまう。調査をどうするのか、次にどう動くのか、なんの言及もない。

 風が吹き抜ける。

 あとにはただ、ウロの残した声だけが木霊している。

 ふざけるな、死ね、死ね、今日帰ってきたら――


      *


 組合事務所に戻り、別件の支払い業務をこなしたあとも、初絵の動揺は収まらなかった。

 本来ならウロの調査中断について、何か手を打つべきところだ。

 本人に意図確認のメッセージを送るか、人材サイトにクレームを入れるか、あるいは上長に今後の方針をうかがうか。

 だがウロから聞いた話が意識を縛っている。

 被保険者の男性が、妻からどんな扱いを受けているか。

 金銭的自由を奪われ、精神的にも支配されている。家でも外でも監視され、罵詈雑言で苛まれて。


(DV――だろう)


 暴力を伴わないからモラハラと呼ぶべきか。いや、定義はどうでもよい。いずれにせよ、人としての尊厳を奪われているということだ。


 ――おまえって、俺なしでやっていけると思ってるの? 本気で?


 自身にかけられた言葉が蘇る。夫とのやりとりがフラッシュバックする。

 おまえはだめだ、だめな奴だ、だから俺が言ってやってるんだよ、よかれと思って。なぁ、なんで今謝った? どういう気持ちでごめんなさいって言ってるわけ? 説明できないだろ。ほら、その場しのぎで逃げようとしてるだけなんだよ。何度言っても分からないよなぁ。同じこと言わせるなよ。あれもこれも、あの時もその時も、付き合う前もあとも、何もかも。


(あぁ)


 目眩がする。言葉のヤスリで全身がすり減っていく。

 もういい、分かった。私が悪いから、私がいなくなれば全部片づくから。

 ――飛び降り。

 どんっと鼓動が跳ねた。

 点と点だった情報が繋がる。一本の線になる。

 そうだ、後先考えずに死を願うことは確かにある。外向けにどれだけ笑顔を保とうと、心が限界を迎えることは。

 被保険者は妻のDVに耐えかねて、発作的に自死を選ぶ。本来なら、復活自体、拒否したいところだ。だが、蘇生措置の停止は、家族の意向で覆されてしまう。だから蘇る。そしてまたDV、死亡、復活、DV、死亡、復活。


(地獄じゃないか)


 未来永劫、責め苦が続く。自由を奪われ続ける。

 息が詰まりそうだった。

 悪意の海に、欲望の奔流に意識が呑まれる。

 視界が狭まり真っ暗な闇に落ちていく。

 ――。

 気づけば通話アプリを立ち上げていた。展開されたキーパッドに指が伸びている。震える指先が1、1、0。


(警察に通報?)


 我に返って、固まる。

 果たして相談先として適当なのか、ことの解決に繋がるのか。まったく確信はない。そもそも自分と夫妻の関係をどう伝えるのか。保険調査で得た情報の漏洩は、守秘義務違反にならないのか?

 分からない。

 何が正解か判断できない。

 ただ……放っておけないという思いは揺るがなかった。自分と同じような被害者を見過ごせない。見過ごしてはいけない。

 深呼吸を一回。

 覚悟を決めて、発信ボタンに指を伸ばす。中空の受話器マークに触れかけた時だった。

 ZRRRRRRR。

 通話画面が震える。

 内耳にベルの音が響き渡った。


(着信?)


 自分宛に電話がかかっている。見慣れない番号から呼び出されている。

 固唾を呑み、呼吸を整えてから応答ボタンを押す。


「はい、もしもし」

『あ、俺、――ですけど』


 名乗った名字には聞き覚えがあった。数瞬、記憶を探り凍りつく。それは他でもない、問題の被保険者のものだった。


「はい」


 思わず身を乗り出していた。


「はい、どうしました」

『どうしたじゃないですよ、ちょっと、やり方が汚いんじゃないですかね』

「え?」

『まっとうな保険組合のやることじゃないですよ。……まぁ、まぁいいです。とにかく、今回の蘇生費用は自腹で結構です。それ以前のものは、不問ってことで』

「あの……それはどういう」


 低い唸りが返ってきた。


『細かい話はなしって、から言われましたよ。俺が伝えたいことはさっきので全部です。いいですね、確かに連絡しましたから』


 ったく、と舌打ち。乱暴に電話を切られる。予期せぬノイズに内耳が痛みを訴えた。

 ……。


(どういうこと?)


 放心状態で立ち尽くす。疑問に答える声はなかった。


      *


 ウロとの再会には随分時間がかかった。

 確かに、被保険者への給付は不要となり、その旨の報告書がウロから送られてきている。仕事は終了と言われれば、仰る通りではあった。

 だがあまりにも納得がいかなさすぎる。一体何がどうしてどうなったのか、聞かせてもらわないと気持ち悪くて仕方がない。

 しつこく説明を求めること十数回、ようやくウロが現れたのは、被保険者の電話から一ヶ月後のことだった。


「やぁ、やぁ、お久しぶりです」


 オフィスを訪れた彼女は相変わらず、細身のパンツスーツ姿だった。長い手足が周囲の目を引く。彼女は打ち合わせスペースの椅子に、優雅に腰かけた。往診鞄のような大荷物を脇に置く。よく見ると、持ち手のところに大きな熊のヌイルグミがついていた。

 なんなんだ。

 問いつめたいが、今日の打ち合わせの趣旨は違う。表情を引き締めてウロの顔を見据える。


「説明してください」


 はぁ、とウロが首を捻る。


「どのへんが気になっているんでしたっけ」

「全部です。最初から最後まで、わけが分かりません」

「分からなくていいと思うんですけどねぇ」


 揶揄気味な笑みを浮かべつつ、ウロは上体を揺らした。


「被保険者からも、以前のことは不問って言われたでしょう? 余分な金もかからないし、これで終わりでいいじゃないですか」

「……」

「分かりましたよ。そんな怖い顔しないでください。ここだけの話でよければ、ご説明しますよ。私、アフターサポートの丁寧さでは定評があるんです」


 どの口でまぁ。

 そう思うが、余計な口は挟まない。無言で待ち続ける初絵の前で、ウロは口角をもたげた。


「どこから話しましょうかね。まぁ、シンプルに言うと私はただ、被保険者の男性に言っただけです。『金を稼ぎたいならもう少しうまくやれ』って」


 ……。


「は?」


 金……稼ぎ?

 ウロは肩をすくめた。


「だって実際、下手くそでしょう? 動機は不明にしても、あちこちから怪しまれてるじゃないですか。二年で七回転落死だなんて。あなたがたのようなザル査定者でも、おかしいと気づく。現実に、それで私のような厄介者を呼びこんだわけですしね。悪党にしても三流ってことです」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 話の飛躍に、論理の断絶についていけない。


「あの転落死は、金もうけのためだって言うんですか?」

「ですよ。他にどんな理由でわざわざ自殺するって言うんですか」

「それは」


 罵詈雑言のメッセージ、夫の稼ぎで買ったブランドバッグ。


「……だから、奥さんの締めつけに耐えかねて」

「で、生き返って、また締めつけられるんですか? それ、死ぬ時の痛み分、丸損じゃないですか。ただの無駄でしょう」

「……」


 追い詰められた人間が合理的に振る舞うとは限らない。そう思ったが、ウロは悠然と構えている。当て推量で喋っているようには見えない。


「仮に……仮に金もうけのために、転落死したとして」


 喘ぐような声を出す。無数に浮かぶ疑問から、まずその一点を口にする。


「儲けた金はどこに行ったんですか? 奥さんの遊興費ですか?」

「いえ。言ったでしょう? あれは普通に旦那の稼ぎを流用したものだって。もし、奥さんが別の収入を知っていたら、もっと贅沢三昧してるはずですよ。白金あたりに一軒家を買っていても、不思議じゃありません」

「なら」


 なら、なんだというのか。


「旦那の生活レベルは変わっていない。奥さんの生活レベルは、旦那の給料を独占できた分、よくなっただけ。では、追加の金はどこに行ったのか? 答えは自明でしょう。ギャンブルです。被保険者は、稼いだ金をまるまる博打に使っているんですよ」


 !?

 ウロの笑みが大きくなった。


「依存症なんてものは、そうそう簡単に治るものじゃないんです。警察沙汰になったから、心を入れ替えた? 本気で思っているなら、あなたも奥さんも相当なお花畑です。首輪をつけて監禁でもしたならともかく、あんな中途半端な束縛、普通にすりぬけますよ。なりふり構わず金策して、賭場を回っているはずです」

「金策――借金ということですか」

「前科持ちの多重債務者に金を貸す馬鹿がいますか。だから、転落死で金を稼いだんですよ。ああいや、逆か。、そう言った方が正確ですね」


 何を――言っているのか。

 分からない。

 さっぱり理解できない。


「負け分が払えなくて、殺されたってことですか? 金はないと開きなおったから、怒った賭場の人に突き落とされたとか」

「だから、それも平たく言うと借金ですよね、素寒貧で打たせるわけですから。そういうことはもう許されないわけですよ。ちゃんと前金を払わないと、卓にも入れてもらえない。だいいち、あなたの言うやり方だと、『儲けて』いませんよね? マイナスとゼロの間を行き来しているだけです」

「……」

「Rh null」

「え?」

「金もうけの種ですよ。彼はそれを使って博打の軍資金を稼いだんです」


 面食らう初絵の前で、ウロは椅子にもたれかかった。長い足をぞんざいに組む。


「少し順序立てて説明しましょうか。三年前のことです。被保険者は救急に担ぎこまれる大怪我をしました。出血も激しかったので、当然輸血が検討されます。ところが検査の結果、それはできないと分かった」

「できない?」

「ええ。被保険者は少々特殊な血液型だったんです。Rh血液型という言葉を聞いたことはありませんか? アカゲザルとの共通抗原、すなわちRh抗原の種類によって、血液を分類するものです。CとかDとかプラスとかマイナスとか、色々ありますけどね。それらが一切ない人をRh nullっていいます。世界中で数十人しかいない、かなり特殊な血液型。被保険者はまさにそれでした。で、当然、輸血というのはその希少な血の持ち主同士でしか成立しない」


 初絵は顔を強ばらせた。


「大変じゃないですか」

「大変です。が、悪運が強かったんでしょう。幸い、彼は輸血なしで持ち直しました。あとから聞いてぞっとしたでしょうね。もう少し出血が多かったら、処置が遅れたら、助からなかったわけですから。ギズモで蘇生できるとはいえ、冷や汗をかいたと思いますよ。ところが、問題はその先です。どういう調べ方をしたのか分かりませんが、彼はその厄介な血に、別の側面があることを知ったんです」

「別の側面?」

「ええ」


 ウロは秘めごとを明かすように声を潜めた。


「Rh nullの血はですね、他のあらゆる血液型の人間に輸血できるんです。抗原がないから誰の身体にも馴染む。万能の血液、一部では『黄金の血液』なんて呼ばれたりもします」


 !


「なんとなく分かってきましたか? さぁ、ここからは本当に救えない話ですよ。自分の血に希少価値があると分かった被保険者は、それを裏社会に売りこんだ。で、致死量ギリギリまで採血してもらったわけです。莫大な金を手に入れた被保険者は、自らの体調も顧みず、賭場に向かおうとして、とある高所で足を踏み外した。貧血ですね。ところが、死因は事故・転落死として、何ごともなくバイオプリンターで復活させられた。残ったのは、死亡前に稼いだ莫大な金。そりゃあ味を占めるでしょう。人工細胞クラフトセルを使った錬金術のできあがりです」


 ウロが天井を仰ぐ。


「あとはもう歯止めなしです。どうせお咎めなしで復活できるなら、採血の致死量にこだわる必要もない。抜けるだけ抜いて、すぐにスカイダイブ。確信犯で転落死を繰り返します。それはまぁ、カウンセリングでも健康と診断されますよ。やりたいことが存分にできているわけですからね。日々愉しくって仕方なかったはずです。最後はもう、闇医者の献血車で事故現場に向かっていたようですよ。要するに、彼は、使として使っていたんです」


 使い捨ての――血液タンク。


 賭け金を稼ぐための自殺。

 献血用に蘇るギズモ。

 夫は売血の金で賭場に向かい、妻は夫の給与で服飾品を買いあさる。


(なんだこれは)


 一欠片もモラルがない。下水の底でものぞきこんだ気分だ。法律を、保険を、婚姻の理念をなんだと思っているのか。


「証拠は」


 すがるように訊ねる。眼前に広がる地獄絵図を打ち消そうとする。


「今言った話が本当だという根拠は」

「表に出せるようなものはありませんよ。私の調べ方も、まぁまぁグレーゾーンですからね。でも、筋は通るでしょう? 今みたいな話をつまびらかにしたからこそ、被保険者が白旗を揚げたんです」

「そ、そこも納得がいきません」


 初絵は食い下がった。


「被保険者は、ギャンブルの依存症なんですよね? 賭け金を稼げるかどうかは、死活問題なはずです。その手段を簡単に手放しますか? なんでしたっけ。……そう、あなたに『もう少しうまくやれ』と言われたくらいで」


 まだ何か話していないことがあるのだろう。容易に、表沙汰にはできない事実が。

 疑念を視線に込めると、ウロは口元を緩めた。


「まぁ、言いっぱなしじゃ無責任ですからね。うまいやり方ってのをお知らせしましたよ。具体的には、自由診療のギズモ・クリニックをご紹介しました。血を抜きたいだけなら、そこで採血と蘇生を一緒にやればと」


 ……。


「は?」

「ああ、別に裏社会の店ってわけじゃないですよ。私の大学時代の友人ですし。3Dバイオプリンターは非正規品ですけどね、被保険者がやりたいことくらい問題なくできます」

「ひ、非正規品のバイオプリンターですって?」

「ええ。なんで料金は嵩みますけどね。そこは売血の費用でまかなえるように調整しました。何より保険組合にも警察にも睨まれませんから、持続可能性サステナビリティの点でも抜群です。大変喜んでいただけましたよ」


 一体……一体何を告白しているのだ、この人は。

 あまりのことに口をぱくぱくさせてしまう。震える吐息を一つ。絞り出した声はかすれていた。


「い、違法でしょう」

「ですね」

「警察に言いますよ」

「どうぞ。証拠も何もないですが」


 カチリとボイスレコーダーアプリを止める。一覧画面から録音を再生するも、漏れ出た音は耐えがたいノイズだった。

 のけぞる初絵の前で、ウロの目が笑った。


「ジャミングくらいかけますよ。話の中身が中身ですからね。だいいち、今日日、音声なんていくらでもAI生成できますし。証拠能力ゼロですよ。無駄なことはやめましょう」


 呻き声が漏れる。


(格が違う)


 踏んできた場数も、越えてきた死線の数も、何もかも異なる。

 それでも白旗を上げたくなかった。査定担当という、数少ない心のよりどころを失いたくなかった。

 なけなしの責任感を振り絞る。


「あなたの……あなたの職業倫理はどうなっているんですか」


 蟷螂の斧めいた詰問に、ウロは「さぁて」と首を傾けた。


「私のモットーは、皆で幸せに、ですからね。杓子定規にやって全員バッドエンドでは、本末転倒でしょう。今回の件で言えば、〝被保険者は趣味のお金を稼げる〟、〝あなた方は無駄な金を払わずにすむ〟、〝私は成功報酬を受け取れる〟。ほら、誰も損をしていません。私の友人も、新規顧客を開拓できましたしね」

「ギズモの理念が」

「何も変わりませんよ。不慮の死の蘇生は保険でまかなう。それ以外の蘇生は、自費でまかなう。あなた方が普段やっていることと同じです。社会の規範は何一つ揺らいでいません」

「でも、でも、ですけど」


 必死で巡らす思考が、一つの事実に行き当たる。「あぁ」と初絵は瞠目した。


「二回目から七回目の蘇生費用、これは明らかに不正受給ですよね? あなたは八回目だけ勝手に自己負担と調整しましたが、その前の蘇生費用も我々には損害です。公正な取引とは思えません」


 どう考えても保険組合はババを引かされている。だがウロは肩をすくめた。


「と言われましても、被保険者の支払い能力では、直近一回が限界ですよ。それ以上追い詰めると取引自体が成り立ちません。あなた方も正論で攻めた挙げ句、一円も返ってこないでは困るでしょう?」

「それはあなたが判断することじゃありません。まずはきちんと報告を上げてもらい、その上で我々と被保険者で話し合うのが筋でしょう」

「報告はきちんと上げましたよ。八回目の蘇生には問題あり、一から七回目には問題なし。オフィシャルな情報はそれで全てです」

「いや……いや、何を今更」

「今更も殊更もないです。ここでお話しした内容は、あくまで初絵さんの気持ちを楽にするためのものです。証拠として採り上げるつもりはありません。私も、被保険者もね」


 ウロの笑みが嗜虐的な趣をたたえる。


「気に入らないなら別の調査員アジャスターを雇うのもありですよ? その場合、被保険者との約束は反故。彼は引き続き、原因不明の転落事故を続けるでしょう。それもまぁ一つの選択肢です」

「……」


 八方塞がりだった。ウロの論理は堅牢で、つけいる隙がない。この上、何を言ったところで小揺るぎもしないだろう。

 が、理性と感情は別だ。やり場のない思いが腹の底にある。負の情念がくすぶっている。押し黙っていると、ウロの顔が緩んだ。ふふん、とおどけた笑いを漏らす。


「ま、分かりますよ。納得感が乏しいって言うんでしょう? 被保険者の身勝手のつけを、組合だけが払わされている。理不尽だと。じゃ、これでいかがでしょう?」


 魔法のように、ウロの指の間に書類が現れる。実体ではない、画像だ。何かの……申請書か? 差し出されたそれを、初絵はしげしげと眺める。


「被扶養者……異動届?」


 上段の氏名欄に、件の被保険者の名前が書かれている。その下の被扶養者欄には妻の名前。そして届け出内容は〝削除〟となっていた。


(削除?)

「な、なんですこれは?」

「見た通りですよ。例の奥さんが、旦那さんの扶養から外れるんです。なのでそちらの健康保険組合からも抜けます。よかったですね、年金・保険金の負担が減りますよ」

「どうして」

「離婚されたんですよ。昨日付で」


 !?

 ウロはまた指の間に、画像データを出した。今度は名刺だ。名前は殿森空、だが所属欄には〝探偵事務所〟の文字があった。


「副業で協議離婚の仲介的なこともやっていましてね。奥様の金遣いをご説明したところ、めでたく被保険者の方から依頼をいただいた次第です」

「そ、それ、奥さんは」

「渋ってましたよ。ですが、慰謝料の額を見てご納得いただきました。まだお若いですしね。次のステップに向けて、損切りできると思ったんじゃないですか」


 言葉もない。

 二の句が継げない。

 呆然とする初絵に、ウロは静かにうなずいてみせた。


「被保険者はこれで稼ぎの全てを賭け事に使えるようになります。あなた方も今後何十年という年金・保険金負担から解放される。どうです? 悪い結末じゃないでしょう? 確かに合法ではありませんが、皆、幸せです」

「……」


 沈黙を保つ。まじまじとウロを見つめる。が、先ほどと違い、怒りのためではない。困惑していた。どこをどう取っても、自分達の損な要素が見つからない。今以上の結論が出ない。

 ――非合法なのに。

 職業倫理を外れているのに。

 ウロは、もう一度、初絵の思いを肯定するように、うなずいた。ゆっくりと足をほどき、身を乗り出す。


「さて、ここまでは保険調査員アジャスターとして、保険組合の初絵さんへのお話。ここからは個人的なご提案です」

「個人的?」

「家族の問題を抱えていらっしゃるのでしょう?」


 息が止まりそうになる。雷に打たれたように硬まる初絵の前で、ウロは笑みを大きくした。


「大変ですよねぇ、支配欲の強い相手につかまると。残念ですが、あの手合いは当事者同士で話し合っても、絶対に折れませんよ。あなたの貴重な時間と気力を、無駄に消費するだけです。本気で別れたいのなら、プロを間に入れるのをご提案します」

「プロ」


 ウロは名刺データを押し出してきた。

〝探偵事務所〟と、取ってつけたように書かれた名刺を。


「三ヶ月で片づけてみせますよ。料金も破格にしておきます。代わりというわけじゃないですが、保険調査の話はこれで終わりにしませんか? 初絵さんのご相談に集中したいので」


 そう言って、彼女は片目を閉じウィンクしてみせた。