第一章 QUALIFYING ②

 庄一は僕と目を合わせて、片目をつぶる。いまどきウィンクなんてしぐさを平気でやってのけるその軽薄さに、僕はやっぱり毒気を抜かれてしまうのだった。

 しばらく〈次世代高校生プログラム〉に対する期待と予想を共有したあと、僕は意気揚々と家を後にする庄一を送り出した。

 ドアに鍵をかけると、家は急に静かになった。

 あたたかだった空気が、急に冷たくなったように感じられる。熱力学的に考えれば、今まであった36℃程度の熱源が移動して消えたのだ。原理的に、室内の温度は下がりこそすれ上がりはしないだろう。

 しかし、僕はいつもこの現象を不思議に思う。

 なぜその程度の微細な温度差を、僕の身体は敏感に感じ取り。

 そこに親密さからよそよそしさへの変化を見出すのだろう。

 まだ外気の匂いが残る玄関に佇みながら。

 僕は棚に置いた家族の写真に目を向ける。

 それは、母さんと父さんと僕、3人が写った、ずいぶん前の写真だ。

 母さんも父さんも、今、この家にいない。

 だからそっと写真に語りかける。


「今度こそ、一番になるよ。母さん」


   ■


 きっかけは、小学4年生のとき、運動会のかけっこでビリになったことだった。

 それが悔しくて、必死で練習した。そうしたら、5年生のときは2位になった。誰もが褒めてくれた。でも僕は不満だった。1位になりたかったから。だからもっと練習した。6年生のとき、これで最後だと思った。朝から晩まで走り回って、当日を迎えた。完璧な仕上がりだと自分では思った。でも僕は2位だった。

 母さんは、そんな僕を抱きしめて、こう言ってくれた。


「1位を取るのが楽しみね」


 僕は、その言葉を信じた。

 傷ひとつない、完璧な自分になりたい。なってみたい。

 母さんの期待に、僕はどうしても応えたかった。

 だからあらゆる分野を試した。いつも自分にできる限界まで、最大限の努力で取り組んだ。得意だと感じる分野もあれば、明らかに苦手な分野もあった。

 しかし、どんなにうまくいっても、結果はいつだって2位だった。

 そんなある日。

 僕が学校から帰ってくると、母さんが倒れていた。

 脳出血だった。

 その後のことはよく覚えていない。

 唯一覚えているのは、父さんが葬式でずっと泣いていたことだ。もともと仕事が忙しくて家を空けがちだった父さんは、その直後、海外に赴任が決まって、家を出ていくことになった。単に会社からそうしろと言われたのかもしれない。でも、きっと父さんも、母さんとの思い出が詰まった家で、母さんの面影がある僕と暮らすのは、辛かったのではないかなと思う。

 それから、僕はずっとひとりで暮らしてきた。

 母さんが死んでから、僕の生きる目的は、1位を取ることだけになった。

 さまざまな分野の中でもっとも手応えがあったのは、ロボットを作ることだった。庄一と一緒に出たロボットコンテストも、あと少しというところだったのだ。

 この分野でなら、もしかしたら――

 そういうわけで、僕たちは明らかに狭き門であった、しかし同時に大きなリターンがありうる〈次世代高校生プログラム〉に応募することにし、ふたりで協力しながら準備をした。

 そして今、その結果が出た、というわけだ。

 合格を得たことが、まったく嬉しくないわけではない。

 けれど、そういう明るい感情は、同時に濃い影を作る。

 1位になったのは、どんなやつなんだろう。

〈次世代高校生プログラム〉には、確実にがいるはずだ。

 見つけ出して宣戦布告してやろう、と僕は決意する。

 次に1位になるのは、僕だ。

 僕はそのために、生きているのだから。


   ■


「なんで初日に遅刻するんだよ、庄一!」


 〈次世代高校生プログラム〉オリエンテーションの当日、僕と庄一は朝から走っていた。

 そんなことになった理由は明白で、庄一が遅刻をしたせいである。


「幸先が悪すぎるだろ! 僕は一番に着きたかったのに!」

「しょうがないだろ! こっちは妹ふたりの面倒見てんだぞ! 毎朝戦場なんだよ!」

「それは知ってるけどさ!」


 庄一の家は父親と母親が仕事であまり家におらず、庄一が事実上家庭を切り盛りしていた。

 年の離れた妹がふたりいるという状況がどういうものか、想像もつかない。

 いかにもスポーツ万能そうな見た目に似合わず、庄一は運動が苦手である。息がちゃんと吸えていなくて、喋るのもやっとという風情だ。走るフォームもバタバタとしていていかにも余裕がなく、無駄が多い。


「はぁ、はぁ……というか、そんなに言うなら俺のことは置いていけばよかっただろ!」

「いや……」


 僕は言い淀んでしまう。まあ、そのほうが合理的といえばそうなのだろうが――

 庄一はその様子を見て、ニヤリと笑う。


「は、遅刻の失点で1位逃しても知らねぇからな!」

「そのときは庄一のほうだけ引いてもらいたいね。でもこれならギリギリ間に合う――ん?」


 そのときだった。

 流れる視界の隅に、なにかが映り込んだ。道路の反対側だ。

 黒くて丸いもの。そこに薄くて大きな布がかぶさっている。

 その中からは、二本の棒状のものが、地面に沿うように突き出ていた。

 歩道の植え込みに隣接した、奇妙な物体。

 ゴミかなにかだと思って、その場は通り過ぎた。

 しかし少し走ってから、その映像が頭の中で意味を結びはじめる。

 あれ、もしかして――

 僕は走りながら振り向く。その物体は、やはりそこにある。

 目をこらせば、どうもガサガサと動いているように見える。


「おい、庄一。あれ――」

「ひぃ、ひぃ、なんだよ!」


 隣を走る庄一に聞いてみるが、どうにもそれどころではない。

 僕は2秒考えて、走りながら言い渡す。


「庄一、先に行ってて」

「は? なんで!」

「ん……ちょっと忘れ物。僕のほうが足が速い。絶対追いつく」

「くそっ、マウント取りやがって。絶対だからな! 遅刻で不戦敗とか許さねぇぞ!」


 庄一はそのまま坂を転がり落ちる椅子のようにバタバタと走っていった。

 僕はスニーカーの軟らかい靴底に荷重を受け止めさせると、逆側に切り返す。

 たいした車通りのない道を横断して。

 のところには、すぐに辿り着いた。

 やはりと思ったが、僕の認識は正しかった。

 それは、人間の尻だった。

 膝をついて植え込みに頭を突っ込んでいる。黒い布は長いスカートで、突き出した足の先はレースの靴下とごろっとした黒いブーツに覆われている。服装から考えれば、おそらくは女性だろう。なにをしているのかは見当もつかないが、動いているので生きてはいるらしい。

 僕には気づいていないようで、声をかける。


「あの……」

「ひっ! うわ、わ!」


 その黒い物体は頭を引き抜くと、後ろに倒れて尻もちをつく。


「いった……」

「ごめん、だ、大丈夫?」

「は、はい、すみません……」


 尻もちをついたままの姿勢で、彼女は腰を押さえて僕を見上げた。

 最初の感想は、黒いな、ということだった。

 そもそも最初に人間だと思わなかったのは、黒尽くめだったからだ。サイズ的にもシルエット的にも、黒いゴミ袋かなにかかと思ってしまった。

 しかしこうして見ると、それが女の子の姿であることがよくわかる。

 厚い前髪はまっすぐに切りそろえられていて、頭の上でまとめられた髪は、夜の滝のように重力に引かれて流れている。対照的な白い肌と、泣いていたのだろうか、赤みを帯びた目元は、日中の歩道にどうにも不釣り合いな印象を受ける。黒いワンピースという重々しい服装に対して、その表情はどこか気弱そうだった。

 年齢は、僕と同じくらい。おそらく高校生だろう。ということは――


「君、ひょっとして〈次世代高校生プログラム〉に参加するの?」

「え、なんでわかったんですか?」

「この時間にこの場所。私服の高校生。あんまりいないからね」

「はー……」


 なるほど、といわんばかりの呆けた顔をして、それから彼女は我に返ったように目を瞬かせると、慌てて植え込みに再度顔を突っ込んだ。


「えーと……なにやってるの?」

「わたしのことは気にしないでください!」


 僕はスマートフォンで時間を確認する。そろそろ間に合わなくなりそうだが、乗りかかった船を降りるのも気持ちが良くない。

 彼女は僕が納得しないと立ち去らないと感じたのだろう、植え込みから顔を出して、泣きそうな瞳を僕に向けた。

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