第一章 QUALIFYING ③
「あの……大事なものを落としちゃって。これくらいの、緑の、なんていうのかな、一言でいうとぬいぐるみなんですけど……」
そういって、彼女は抱きかかえるくらいの大きさをジェスチャーで示す。
若干言い淀んだことは気になったが、ぬいぐるみであれば確かに換えは利かないだろうし、今見つけなければ永遠に見つけられないだろう。
僕は頭の中で計算をした。
ぬいぐるみ発見までどれくらいの時間がかかるかは未知数だが――僕はそれを確実にする手段を持っている。植え込みの長さを目算で捉えて速度と概算し、かかる時間の上限を導き出す。このタイムロスなら、僕が走れば開始時刻にはギリギリ間に合うだろう。
もちろん、彼女を無視することもできる。しかし、目の前の彼女もまたプログラムの参加者であるとするならば、ここで恩を売っておくことは後々利点になるかもしれない。それはこのチャンスを逃すと、後からは得られないアドバンテージだ。きっと。多分。
「このあたりで落としたことは確実なんだね?」
僕は自分のバックパックを降ろしながらそう訊ねる。
「は、はい、絶対ここのどこかです……けど……」
ファスナーを開けて取り出したそれを見て、彼女は奇妙な声をあげた。
「それ! もしかして、あなたも!」
「そういうこと」
感心した彼女の表情は、しかし急に曇りはじめた。よく表情が変わる。山の天気のようだ。
「え、だとしたら、もう間に合わないですよ! わたしに構わず行ったほうが!」
「だから効率よく捜すんだ。この付近で落とした前提なら、植え込み以外にあったらすぐ見つかるだろ。だからあるとしたら植え込み。人間が顔を突っ込んで捜すのは効率が悪いから――」
僕はそう説明しながら、手に持ったものを地面に置く。
「――これを走らせる」
それは、小さなロボットだった。
大きさは両手の平に収まるくらい。スマートフォンから遠隔操作可能な小型ロボットである。大まかに言えば、戦車にロボットの上半身を載せたような姿をしている。言ってみればラジコンのようなものだ。見た目はディズニーの映画に出てくるロボットに似ている。もっとも、あちらはゴミ処理ロボットだったが。
僕は地面にあぐらをかいて座ると、スマートフォンとロボットを接続する。
「すごい! 探査ロボット!」
「そんなたいしたものじゃないけど」
これは〈次世代高校生プログラム〉の選考を通すために作ったものだった。実績をアピールしなくてはならない局面があるかも、と念のため持ってきていた。こんな用途に使うとは思いもよらなかったが。
ロボットを立ち上げて連携を確立すると、スマートフォンに映像が来る。今は彼女の足元をアップで捉えている。インターフェースに指先で入力すると、ロボットのモーターが高い音を立てて動きはじめた。
「よし、これで端から捜そう」
僕は頭をめぐらせて、視界の範囲に歩行者や自転車の人がいないことを確認する。路上を走らせて植え込みの端までロボットを移動させると、植え込みの中に突っ込んだ。
植え込みの中は当然暗い。僕はインターフェースをタップしてLEDのライトを点灯させ、ロボットを植え込みの中で走らせていく。植物の幹の部分はおおむね中央に並んでおり、それを避けていけば走行は決して難しくはなかった。引っかかりそうな枝はアームを操作して押しのけた。枝がカメラを遮り、それを押して前に進み、そして次の枝が前に出てくる。
それを繰り返しながら、ロボットは進んでいく。
そして、異変は起こった。
「ぎゃっ」
映像に集中していた僕は、思わず悲鳴をあげてしまう。
奇妙な生物が、そこに映っていたからだ。
半開きになった生気のない目。醜い宇宙人のような顔。そして口からのぞく、人間のような不気味な歯。この世のものとは思えない、おぞましい生物だった。
「それ! その子です!」
「あっちだ」
僕は立ち上がって該当の場所まで走ると、植え込みに手を突っ込む。
そして僕のロボットと――その謎の生物は、無事に回収されたのだった。
「あったー! わたしのモンスター!」
彼女にそれを渡すと、本当に嬉しそうに胸に抱えた。その場でくるりと回ってさえ見せる。
「それ、なに?」
「かわいいでしょう? ほら、お礼言って?」
彼女がその醜い宇宙人を僕に近づける。
すると、カチカチと歯を鳴らして、そいつは僕に噛みつこうとした。
「ひぃっ……なにそれ、生きてるの⁉」
「いいえ、わたしがプログラミングしたんです」
彼女は胸を反らして、そう得意げに言う。
「ぬいぐるみに内部機構を入れて、赤外線で動くものを認識すると噛みつくんですよ!」
「こ、怖いって!」
このサイズに自然にその機能を入れ込むのはそれなりに高度な気もするが、いったいなぜそんなものを作っているのかまったく意味がわからない。
「もしかして、それで選考通ったの?」
「は、はい! まあ、最下位のギリギリ通過でしたけど……」
へらへらと笑いながら、彼女は髪を触った。
僕があまりにも虚をつかれた顔をしていたのだろう、彼女は慌てて説明をはじめる。
「あ、あの! わたし、ホラー映画が好きで、こういう動くのをいっぱい作ってて! 将来的にはもっと高度なものが作りたくって!」
そう言ってバックパックを開くと、そこにはぎっしりと、同じような顔をした色とりどりのぬいぐるみが詰まっていた。
「うわっ……いや、それはあとで聞くから! まだ走れば――あ」
そして、僕は自分の、大きなミスに気づくのだった。
目の前に立つ彼女を、頭から足まで、僕は見つめる。
身長は高く、僕とあまり変わらない。しかしその丸めた背中と、覚束ない足元、そして重そうなブーツが、雄弁にある事実を物語っていた。
「君、走るのって……」
「運動、得意じゃないです!」
「自慢げに言うことじゃないよ、それ」
計算は僕の足の速さを前提にしていた。彼女がそのスピードで走れるとはとても思えない。
「だからお前は――」
万年2位なんだよ、と自分に言いたくなるのをぐっとこらえる。
判断ミスが多いのだ、僕は。
かといって、今更彼女を置いていくわけにもいかなかった。関係性を作って後に役立てるために、ここまでコストを支払ったのだ。時間の消費は回収不能な埋没コストであるとはいえ、ここで彼女を見捨てれば、売った恩が相殺されてしまう。それは損失だ。そうだよな?
「とにかく行こう!」
「わ、わたしも――あっ」
僕に続いて走り出した彼女が、つまずいて転びそうになったので。
腕を伸ばして、彼女の身体を受け止める。
「す……すみません」
厚い前髪の下で、彼女の目が左右に泳ぐ。本当に身体を動かすのが苦手なのだろう、動作を見ればわかる。その上このブーツなら走りにくいはずだ。庄一より遅いかもしれない。
「いいから、走って! 遅刻を最小限にしたい」
僕は彼女の手を掴んで、走り出す。
これで少なくとも転ぶことはないだろう。
「えっ、あっ、はい!」
戸惑いが伝わってきたが、構っている暇はなかった。片手でぬいぐるみを抱えたままの彼女を、なかばひきずるようにしながら、走り続ける。
「あっ、あの!」
「なに?」
「名前、なんていうんですか!」
「初。川ノ瀬初」
「初さん! ありがとうございました!」
彼女は走りながら頭を下げようとして、また転びそうになる。僕は彼女の手を引っ張って、なんとか姿勢を戻させる。
「君は?」
「わ、わたし、ソナタです!
「いやそういうのは全部あとで聞くから!」
まったく、僕はなにをやっているのだろう。
初手からこんな判断ミスばかりしていては、先が思いやられる。
しかし、切り替えなくては。
すでに起きてしまったことを悔いてもどうにもならない。
僕は隣を走るソナタに目をやる。重そうなバックパックを揺らしながら、ドタドタと必死に走っている。なにもかもが、スマートとは言い難い。
手を離して、先に走っていってしまおうかと、何度も思った。
けれど、なんだか彼女は、ずっと一生懸命で。
僕はどうしても、手を離せなかったのだった。